以前、令和の虎の志願者に先輩の知り合いが出ていたこともあって、
たまに見ている。
今回の、成田悠輔氏と虎たちの対話が、思った以上に面白かった。
賢い人たちが話す内容の土台には、「この世界に意味のあるものは何もない。」という思想があった。
熱い情熱がなければ成り立たないような起業家の人たちがそう話すのを見ていて、
「意味がないということを受け入れながら生きる」という肯定的ニヒリズムのような考え方を持つ私とほぼ同じだったことが、嬉しかった。
細胞レベルまで細かくすれば、私たちの構成要素は分子とか原子とかそういうミクロの類のものの集合体になる。
それを一つの個体として集合させ、且つ意識を持ったものを、「人間」と呼んでいる。
私たちは、自分を「自分」と認識できる。
これは自分だという感覚がこの意識の中で明確にあって、尚且つ感情や思考もある。
そういうものが人間というものだ。
自分と外の世界を、五感を使って認識している。
生体の物理的には複雑な構造をしている私たちだが、行動としてみたら「歩く」とか「話す」とか「寝る」とか言葉で当てはめられうような概念でしか認識できない。言葉というのは基本的に的確ではないのだ。

言葉で捉えている以上、言葉でいろいろなものを表現し、判断していくしかない。
言葉は、人間同士を繋がり合わせるものだ。
しかし言葉というものの使い方を誤ると、、、言葉によって人は活かされもするし、⚪︎にもする。
私たちが持つ能力や、学習する力、学び活かそうとしていく力が、
実際に私たちを活かしていくこともあるし、殺していくこともある。
経済の中に入ることが自立することであり、この国の教育の目標になっている。
それが代々受け継がれている。それがこの国の根本的な欠陥になっている。
昔はよかったかもしれないが、今は経済が止まっているのに、昔の教育のまま子供達がそれを引き継いでしまっている。
経済が指標になってない教育を行なっている国もある。教育先進国などがそうだ。
学校では、生きることに意味など存在しないことや、この世界自体が意味があって存在しているわけではないことは、教えてはくれない。
そういうものは哲学とかの部類で解釈されやすいが、科学的に見ても宗教的に見ても、意味は特にないのである。

自分の頭で考えたことや、自分で苦しんだり悩んだりして発見したものは、近くの誰かとは違っていても、遠くの誰かとは同じだったりした。
ネットで見た情報や、幸運にも出会えた人の中に、自分だけしか感じてないように思っていたことを、同じように感じたことがある人がいた。
そういう人と知り合えた時に、私は「生きていてよかった」と思う。仲間がいたんだ。
美味しいものを食べたり、熱い湯船に浸かったり、ふかふかの布団に足を伸ばしたり、綺麗な景色を見たり。
そういう五感で得られるようなものでは得られないような、芯のある衝撃。それのために生きていると思う。
損をしたりうまくいかないことは、仏教的に言ってもキリスト教的に言っても、少しも悪いことではない。
いくらでも前向きに捉えられる種になる。
宗教観のない国では、表面的な損得を、そのまま損得として扱う国民が多い。
生きていてよかった、と思えることを探そう。
これまでにその経験が少なくても、一度でも感じたことがあるのなら、それが可能性として希望になる。
私はその一縷の望みに縋っている。それがなければ生活が成り立たなくなる。
いつか人の相談相手になれるよう、収入の一部を資格の勉強に充てることにした。
私は環境として恵まれているから、もっと他者に施しをしなければならない。私は既にもらいすぎている。
多分そういう役目なのだと、誰からも言われたこともないのに、私が勝手にそう信じている。
それが小さい頃から私の支えになっている使命感であり、稚拙な宗教心である。