駅からの道、ビルの谷間を吹く風は刺すように冷たくて、それでも指のガーネットは、12月の空気を押し返すみたいにキラリと光っていた。



来た来た!



着いたと連絡するより先に、樹くんがマンションのエントランスから出てきた。黒いコートの襟を軽く立て、私を見つけた瞬間に口角が上がる。



寒かったでしょ。早く上がろう。



樹くんは私の存在を隠すつもりが無いようだ。お帰りなさいませ、と会釈をするコンシェルジュに値踏みされている気がして、歩きにくい。こんな風に感じてしまうのは、私だけが既婚者という後ろめたさなのか、自分でもよく分からない。



部屋に入ると、リビングの床暖房の暖かさが玄関にまで届いていた。



れもんちゃんの料理、楽しみにしてた!



コートを受け取る手の動きが軽い。テンションの高さが声の端に滲んでいる。私は持ってきたエプロンをつけて、キッチンの灯りをつける。



材料、買っておいてくれてありがとう。



袋の中には丸鶏と、ベビーリーフ、紫玉ねぎ、クルミ。そしてスープ用に、セロリ、玉ねぎ、じゃがいも。



スープとサラダも作るの?


うん。多めに作っちゃっていい?そのほうが食卓が寂しくないしね。


やばい。好き。



真正面の好意を向けられても、私は曖昧な返事しかできなかった。



料理は鳥の下ごしらえから始めた。皮目の下に指を滑らせ、ローズマリーとバターを押し込んでいく。樹くんは、刻んだタイムをボウルに落としながら、私の動作を嬉しそうな顔で見ている。



れもんちゃんがこうやって俺の家で料理してるのが信じられない!


他人のキッチンでこんなに頑張るのは初めてだよ…笑


ほんと?もう、このまま一緒に住もうよ。



樹くんの言葉が胸の奥に沈んでいく。



鳥をオーブンに入れてしばらくすると、ハーブの香りが部屋を満たしていった。私はスープとサラダ作りに取りかかる。

セロリと玉ねぎをバターで炒めると甘い匂いが広がった。白ワインをひと回しして、ジュっと音がした瞬間、背後から樹くんが小さく息をのむ。



この匂いだけで幸せになれるんだけど。


早いよ。食べたら美味しいんだから♡


完成したら俺どうかなっちゃうかも。



サラダには薄くスライスした紫玉ねぎと煎ったクルミ。バルサミコと蜂蜜のドレッシングが冬の夜を甘くする。



この味で平気?


あ、これ、美味しいや。



オーブンから黄金色になった丸鶏を取り出すと、皮がパチパチと音を立てた。白ワインスープは湯気を立て、テーブルは一瞬でクリスマスの形になる。



いただきます、と言ってひと口食べた樹くんが、感情が溢れて言葉にならないような顔で私を見る。



今日、ほんとに幸せ!!







片づけをする樹くんの横でワインを飲み直していると、言われた。



お風呂、先に入っておいで。



食事のときとは打って変わって、声が落ち着いている。ワインを舌の奥に残したまま浴室へ向かった。



ドライヤーを終えたところで、樹くんも浴室から出てきた。髪から細い滴が落ちている。樹くんが歩み寄り、私の手首にふれる。軽い力なのに身動きが取れなかった。



今日は帰さないよ。



耳の近くで囁かれると、息が上がってしまう。触れられた場所から温度が広がって、自分の身体の輪郭が分からなくなる。

名前を呼ばれるたびに、戻る道がひとつずつ消えていく気がして怖い。







翌朝、目を開けると樹くんはもう起きていて、私の髪をそっと整えてくれた。

身体を起こそうとした瞬間、下腹部に鈍い痛みが走り、思わず顔を歪める。



大丈夫?



樹くんがすぐに覗き込む。



…お腹がちょっと、痛いみたい。



無理しないで。横になってていいよ。



こんなタイミングの腹痛は気まずい。しばらくして痛みが落ち着くと、キッチンからコーヒーの香りが漂ってきた。



スープ、温めたよ。



シャツを着た樹くんが、湯気の立つカップをテーブルに置いてくれた。白ワインのスープは一晩寝かせたことで丸くなり、寝起きの胃に優しく沁みていった。



れもんちゃん、疲れたんじゃない?でも来てくれて、本当に嬉しかった。



樹くんは何度もそう言った。



帰る準備をすると、樹くんは玄関で私のコートの襟を整えてくれた。



年内にまた会えたら嬉しいけど、、


たぶん仕事でいっぱいいっぱいになっちゃうな。


分かった、無理しないで。本当にありがとう。



マンションを出ると、早朝の風が頬を一気に冷やした。指にはめたガーネットは静かに光ったままだ。嬉しさも、後ろめたさも、疲れも。全てを胸にしまい込んで、私はゆっくりと自宅へ向かった。