79回目に思う。 | 極めてノーマルな毎日。~何故ならこれが「僕」だから。~

79回目に思う。

「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。」ーーーこれは、ある小説の出だしの一節だが。


この一節は、さらにこう続く。「だが、その戦争はまだ続いていた。」ーーー。



日本では、先日8月15日に79回目の終戦記念日を迎えましたが、そんな中今だに戦禍に喘いでいる国や地域がある。

 


………何故、戦争はなくならないのだろうか。ーー全ては、為政者の「魔性」によるものなのだ。



他の国やそこに住む住民、民族。それらに対する憎悪、侮蔑、怨嫉。さらに、そこに他人のものを羨み、奪ってしまおうという「強欲」。それらが合わさると、もう手が付けられなくなる。



あとは、自分の思想や理念を正当化するための理由付け。これで国民や周りの国を納得させようとする。



有史以来、この繰り返し。いくら誰かが不戦、平和を訴えようと、潰されてきた。



……結局、為政者だけではない、人間の誰しもにある「他者に勝ろう」という命が争い事を引き起こしてしまうのだ。



何故、他人を労り、理解し合い、助け合おうという心が無価値なものになるような世の中になってしまったのだろう。何故他人を憎み、見下すことが「本質」と言われる世の中になってしまったのだろう。



その「本質」に問いたい。争い事をしたいのか?それともしたくないのか?したくないのなら、何故、相手を見下す?見下されて怒らない人間がいるとでも思っているのか。逆に、自分が見下されたらどうなんだ。自分はいいけど、他人はダメ?ますます身勝手。これこそまさしく他人に勝ろうとする命。



もちろん、自分だって許せない時、許せない人間がいる時だってある。でも、少なくとも見下すようなことはしない。



争ったところで、諍いを起こしたところで何も生まない。さらなる遺恨を生むだけ。



しかし、為政者という立場になると、この思いを忘れる。結局、メンツに拘るようになり、さらに過激なイデオロギー論者にも与さなければならなくもなるので、入り込んだところまでは行けない。




……ま、分かっていても、ちょっとしたことですぐに我を忘れてしまうから、ずっと今まで争いが途絶えたことがないんだろうな……。



それでも、諦めてはいけない。続けていかなければいけない。



それでまた道が拓ける可能性だって、0ではないのだから。



前述の通り79回目の終戦の日を迎えた日本。当時を語れる人も少なくなり、また、それでも語りたくないという人もまだその中にはいるであろう。



この国でそうなりつつある中、さらにまた悲惨さを伝えていかなければいけない人が数多出る状況にある国が出てきている。



悲惨さを伝えていかなければいけないのは、大事。だが、何より大事なのは、為政者の、指導者の自覚。本当に和平を、平和を願うという立場に立てるのか。そして、同じ思いの人達と腹を割って話し合う覚悟はあるのか。



そこだと思う。




他人の命、財産を奪うより、お互いを分かり合い、受け入れ、友好の道を共に進むという選択をした方が、多くの共感を得られると気づけるか……。



繰り返す。為政者の愚かな考えから始まる戦争。巻き込まれ、犠牲になるのは、いつも名も、そして、罪なき一般市民。



苦しく辛い思いを強いられ、それを後世に伝えていかなければいけない「役目」を担わなければならない。



為政者は、それが分かっているのか。他国だけではない。自国民にもそんな思いをさせることになりかねないことに、心が痛まないのか。



……まぁ、仕方ないのかな。さっき書いたように、人の上に立つと、メンツやプライドに拘るようになるからな。



ーーそれでも。訴え続けていくことに意義があると思う。働きかけ続けていくことに意味があると思う。



そう信じたい。



これも先述したが、日本はもう79年も経つ。あと20、いや、30年ほどしたら、実体験を語れる人が完全にいなくなるだろう。



その後どうするか。誰がどう、あの悲惨さを伝え、不戦、平和を訴えていくか。



全ては、今を、これからを生きる我々にかかってくるいる。真の平和を実現するのは、我々しかない。そういう自覚に立っていく事が肝要になってくる。



方法は、何でもいい。多くの人々からの共感を得られれば。多くの人達の心に響けば。



何だかんだ言って、皆平和を望んでいる。



例え「綺麗事」と言われようと、そう信じて。



そして……いつか本当に「その日」が来ることを信じて………合掌。(u人u)



ーー令和6年8月15日記す。