思い出のプロ野球選手、今回は土肥 健二選手です。 

 

1970年代から80年代前半を中心にロッテの控え捕手として、一時期は正捕手として活躍し、「打てる捕手」として独特のフォームから繰り出す「神主打法」は、あの落合博満選手も打撃の手本としたものでした。

 

 

【土肥 健二(どい・けんじ)】

生年月日:1950(昭和25)年5月17日

入団:ロッテ('68・ドラフト4位) 
経歴:高岡商高-ロッテ('69~'83)

通算成績:897試合 打率.268 497安打 44本塁打 199打点 11盗塁

位置:捕手 投打:右右 現役生活:15年
規定打席到達:なし

 

 

 

個人的印象

苗字が印象的でした。土肥と書いて「どい」と読むんだ、と思って。

ロッテの捕手として印象強く、バリバリの正捕手という感じではなかったですが、袴田英利選手が正捕手になる前で、最も正捕手に近いところにいた捕手、という感じでした。

引退翌年の1984(昭和59)年に袴田捕手が一本立ちした頃の野球中継で、打席に立っていた際に実況が「ロッテも土肥を引退させてまで…」と言っていた事を覚えていますが、袴田選手に一本立ちしてもらうために土肥選手が引退させられた、とその時捉えていました。実際引退した年の成績でも、全然力が衰えたとは思えないもので、当時の選手事情によるものとそれなりに認識していました。

 

 

プロ入りまで

高校は富山県の名門・高岡商業高校で、3年の春夏連続で甲子園に出場し、勝ち進みはできませんでしたが、夏の選手権大会の予選では2打席連続ホームランを放っています。

1968(昭和43)年のドラフト会議当時の東京オリオンズから4位指名を受けて入団しました。この時の1位は有藤通世選手でした。

 

 

下積み期

背番号は「43」を与えられますが現役時代15年間を通してこの番号でした。

高卒でルーキーイヤーは1969(昭和44)年でしたが、翌1970(昭和45)年に一軍戦に初出場し、7試合で6打数2安打(打率.333)で打点は0の成績でした。

3年目1971(昭和46)年は7打数2安打(打率.286)でソロホームランで初打点を記録し、1本塁打1打点の記録が残っています。

 

1972(昭和47)年は、ようやく台頭という感じで44試合に出て47打数17安打(打率.362)で1本塁打5打点を記録し、打率は素晴らしい数字を残しました。

しかしここまでは捕手ではなく、ほとんど外野手か代打の形での出場でした。

当時のロッテ捕手陣は層が厚く、入団当初は正捕手にベテランの醍醐猛夫選手がいて、年を経てレギュラーから控えに回るようになりますが、村上公康・榊親一という年上の捕手陣がしのぎを削っており、土肥選手に入る余地のない状況でした。

 

 

捕手として台頭

1973(昭和48)年から78試合に出場し78打数21安打(打率.269)2本塁打17打点と、初めて2ケタ打点をあげましたが、この時期までは殆ど先発出場のない状態でした。

 

初めて捕手としてスタメン出場したのが1974(昭和49)年でこの年は13試合にスタメンマスクを被り、66試合で83打数22安打(打率.265)2本塁打12打点で、一軍デビューした1970年にチームは優勝していますが、この時はほとんど出番がなく、試合に出てチームのリーグ優勝は実質この時が最初で最後となりました。

 

1975(昭和50)年には実に58試合に先発マスクを被り、村上捕手につづく位置を確保し、94試合に出て240打数62安打(打率.258)8本塁打24打点の成績を挙げ、戦力として存在感を増してきました。初めて100を越える打席に立ち、8本塁打はキャリアハイでした。

醍醐捕手が最晩年となり、榊捕手も少し落ちてきたところへ入っていった格好でした。

 

1976(昭和51)年も同等の出番でしたが、安打はキャリアハイの67安打(1981年と同数)を記録し打率は規定不足ながら.298にのせました。

 

 

熾烈な競争

1977(昭和52)年には日本ハムから高橋博捕手が移籍してきて、村上捕手も依然健在という状況で出番が激減し、66打数16安打(打率.242)2本塁打6打点がやっとでした。

 

1978(昭和53)年は、それまで主力で活躍していた村上捕手が前年に突然引退しチャンスと思われるも今度は南海の兼任監督を解任になった野村克也捕手が移籍してきました。

125打数34安打(打率.272)で1本塁打15打点と、出番は前年の倍程度へ増えましたが、75、76年のものにはまだまだ届いていませんでした。

 

1979(昭和54)年から3年間は再び出番に恵まれました。野村捕手は前年1年間で西武へ移籍し、ライバルは高橋捕手のみとなり、幸運だったのはそれまでしのぎを削った相手がいずれも年上ばかりで、引退や移籍で居なくなった事でした。この年は既に出番が減っていた榊捕手が一軍最後となり、翌年はコーチ兼任で一軍戦に出ずに引退しています。

この年は181打数51安打(打率.282)5本塁打18打点と3年ぶりに50安打を越えました。

1980(昭和55)年は30歳を迎えましたが、89試合に出て206打数64安打(打率.311)7本塁打32打点をあげ、打点32はキャリアハイでした。

最も打席数が多かったのが、1981(昭和56)年で290打席に立ち、現役生活で唯一100試合越えとなる104試合に出場し、253打数67安打(打率.265)7本塁打28打点を記録、ベテランとなった高橋捕手と立場を逆転し、最も正捕手に近い位置で活躍をしていました。

 

 

後輩の台頭

1982(昭和57)年からは年下の袴田英利捕手が台頭してきて、チームも袴田捕手を育てたい雰囲気が感じられ、これに伴って出番が減り50試合で111打数18安打(打率.162)1本塁打9打点と打撃面へも不振となって影響しました。

 

1983(昭和58)年は袴田選手と逆転して出番が増え、95試合で224打数54安打(打率.241)4本塁打17打点の成績を残して意地を見せましたが、ここで突然33歳にして引退となりました。

 

 

冒頭書いたように翌年の実況で「土肥を引退させてまで…」の発言から、チームの若返り策か何かで半強制的に引退させられたのではないかと思われますが、それについて書かれているものが見当たらず、真相はよく分かりませんでした。

 

落合博満選手が「すごいと思った」という土肥選手の"神主打法”は色々試行錯誤するうちに行き着いたもので「生き残るために必死に考えて」到達したものだそうで、規定打席に一度も届いた事がない中で通算497安打と44本塁打は素晴らしい実績といえます。

 

 

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