思い出のプロ野球選手、今回は佐藤 政夫投手です。 

 

1970年代から80年代後半まで、国内のべ5球団と海外1球団に身を置き、サイドスローからの「タコ投げ」と呼ばれた変則左腕として重宝された投手です。

 

【佐藤 政夫(さとう・まさお)】

生年月日:1950(昭和25)年12月18日

入団:巨人('69・ドラフト5位) 
経歴:東北高-電電東北-巨人('70)-ロッテ('71~'73)※1Aローダイ('72)-中日('73~'80)-大洋('81~'84)-ロッテ('85~'87)

通算成績:418試合 14勝27敗8S 554⅔投球回 4完投 1完封 308奪三振 防御率3.96

位置:投手 投打:左右 現役生活:18年

規定投球回到達:なし 

主な記録:セ・リーグ最多登板 57試合('81)、チーム唯一の完封勝利('81)、両リーグ勝利投手('85)、3球団で勝利投手(中日・大洋・ロッテ)

 

 

 

個人的印象

変則左腕の渡り鳥、です。

個人的には最後に在籍したロッテの印象が強いですが、大洋にいた頃?佐藤という投手は記憶にありますが、それが彼だったのか佐藤道郎投手だったのか記憶が定かではないところです。

ワンポイントでのらりくらり投げていた感じで、スピードより変化球で勝負するタイプの印象でした。

 

 

プロ入りまで

高校は宮城県の名門・東北高校で3年夏に甲子園に出場しています。

この段階でプロのスカウトも見に来るほど目をつけられていたそうですが、社会人に進むことを希望し、電電東北へ入社しました。

社会人では1年在籍しただけで、1969(昭和44)年のドラフト会議で巨人から5位指名を受けました。ですが、この指名につき当初知らずにいて、来ても来なくても良いという球団側の姿勢に、嬉しさもなかったという事でした。結果的には入団となりました。

 

 

元祖・現役ドラフト

こうして、後に達成するV9真っ只中の1970(昭和45)年に巨人でルーキーイヤーを迎えた佐藤投手は背番号「46」を与えられましたが、最初の1年間は一軍出場なしに終わりました。

そしてこの1年目のオフに今でいう「現役ドラフト」、当時の名称で第1回「選抜会議」というものが開催されました。

この記事を書いている今になってこの制度を知りました。この時代に現役ドラフトがあったのか!と。

現役ドラフトよりも、もっと対象の広い「各球団の保有選手の20%」のプロテクトしない選手を連盟に提出し、その選手の年俸に対して1巡目で200万増、2巡目で100万増のトレードマネーで成立するというものだったそうで、多くの選手をリストに出しながら、成立するのは殆ど二軍選手、という実利の少ないものとなり、結局3年で制度は終わったそうですが、佐藤投手はこの制度によって、入団した巨人をわずか1年で退団し、ロッテへ移籍します。

 

 

野球留学は海外移籍

こうして2年目1971(昭和46)年はロッテでプレーする事となり、背番号は巨人時代に近い「40」で、この年初めて一軍出場を果たしました。

この前年は、その時にいた巨人とそしてロッテが日本シリーズで相見えましたが、巨人では二軍暮らしに終わり、ロッテでは前年優勝と、優勝チームの戦力にはなれませんでした。

この年は13試合で0勝0敗防御率7.88、8㌄のみの登板で、東映戦で3者連続本塁打を前の投手が打たれた後を受けて登板し、その後自身が2者連続本塁打を浴び、日本記録となる「5者連続本塁打」を東映に達成させています。

 

翌1972(昭和47)年はオリオールズの傘下である「ローダイ・オリオンズ」へ野球留学していますが、この時ロッテの選手登録を外れていた為、ローダイへ移籍扱いになっていたといいます。

一応ここで経験を積んで、翌1973(昭和48)年にはロッテへ復帰しますが、1試合投げただけでシーズン途中に中日へ移籍となりました。

 

 

長嶋選手との最終対決

1973年シーズン途中で中日へ移籍となりましたが、ここでは8試合で0勝0敗、9⅔㌄のみでシーズン計で9試合で0勝0敗でした。中日では背番号は「26」と、それまで40番台でしたが一軍クラスの番号をもらいました。

 

1974(昭和49)年は、入団後初めての優勝経験となりましたが、3試合のみで0勝0敗防御率12.00で2⅔㌄のみでした。ただ、10月14日巨人戦、長嶋茂雄選手の引退試合で

現役最終打席に対戦したのが佐藤投手でした。

この時はストレートを投げて長嶋選手に花を持たせるつもりが、緊張して変化してしまい、長嶋選手の打球は併殺打になってしまい、「長嶋の最終打席に併殺をとった男」となりました。

 

 

昭和50年代

1970~74年の5年間で、25試合で0勝0敗、20㌄そこそこしか投げていないという、まだ新人王の資格すら残っていそうなくらいの実績しか残せていませんでした。

 

1975(昭和50)年は20試合に登板し、0勝2敗1Sを挙げ防御率3.67で26⅔㌄と、初先発も経験し、ほんの少しですが戦力になってきつつある、そんな感じの数字をまずは残せたというところでした。

 

そして念願の初勝利を挙げたのが1976(昭和51)年、7年目のシーズンでした。

この年1勝5敗防御率3.71ながら80㌄を投げ、先発3試合を含む50試合に登板しました。

1977(昭和52)年は2年連続50市試合登板をクリアする52試合に登板、2勝4敗防御率4.43、62⅔㌄を投げましたが先発はなく、以後中日では先発の機会はありませんでした。

中日でのピークは2年間で102試合に登板したこの時で、1978(昭和53)年も42試合こそ投げましたが、48㌄で0勝1敗防御率3.94と年々出番が減っていきました。

 

激減したのが1979(昭和54)年で、5試合でわずか2㌄しか機会がなく、0勝0敗防御率は49.50と11自責点を背負う打たれようでした。

この時は肘の故障もあり、翌1980(昭和55)年も7試合で0勝0敗と2年続けて戦力になりませんでした。

遂に中日から戦力外通告を受け退団、時に30歳。次の選択を迫られる事態なりましたが、他球団のフロントに縁があり、大洋への移籍が決定しました。

 

 

花開いた大洋での奮投

1981(昭和56)年からは国内4球団目となる大洋に在籍しました。

背番号は主力投手並みの「13」を背負い、ここで一気に戦力として花開く事となります。

この年は15試合も先発し、57試合とセ・リーグ最多登板を記録し、規定投球回に僅かに足りない118⅔㌄を投げて防御率2.71の好成績で6勝4敗1Sとほとんどの数字でキャリアハイを記録しました。100㌄越えはこの年が唯一でした。

勝ち星はこの年の6勝が最高でしたが、他のシーズンは2勝が3回、1勝が2回のみなので、いかにこの年の活躍が突出していたかが窺えると思います。3完投1完封で初完投初完封も記録し、この時がプロ生活唯一の完封となり、この年の大洋球団でもこれが唯一の完封でした。

また完投はこの翌年以降では1985(昭和60)年にロッテ時代に1度記録したのみでした。

 

この勢いを持続させたかったところですが、1982(昭和57)年には監督が関根潤三氏に代わると再び出番が激減し、28試合で1勝3敗防御率5.40で、前年比約1/3の40⅓㌄の投球に終わりました。

1983(昭和58)年は20試合で2勝2敗防御率5.62で前年並みの41⅔㌄で、先発は前年4試合でこの年6試合でしたが、81年の活躍に比べるとかなり出番が限定的になってきていました。

1984(昭和59)年には大洋移籍4年目で初の0勝に終わり、再び戦力外通告を受け、当時34歳でもあり引退もチラつきながら、中日時代にピッチングコーチだった稲尾和久氏が監督を務めていたロッテへ移籍する事となりました。

 

 

2度目のロッテでひと花

1985稲尾監督に拾われた形でロッテへ2度目の移籍を果たし、背番号は「36」を背負いました。

時に35歳になる年で、前年0勝もあり活躍できるか?などありましたが、この年は34試合に登板し2勝3敗5S防御率1.90の素晴らしい成績で、抑えとしても活躍しました。

最初のロッテ時代は勝ち星なしだったので、この年にようやく両リーグでの勝利となり、また3球団目での勝利投手にもなりました。抑えを務めながらも1完投を挙げ、これが最後の完投となりました。

この時は抑えを務めていた西井哲夫投手が乱調となり、わずか3Sしか挙げられず抑え不在の状況となり回ってきた幸運もあり、梅沢義勝投手の6Sに続く5Sを挙げ健闘しました。

 

1986(昭和61)年は36試合を投げ0勝2敗1S防御率3.41で、それでもまだ2試合は先発マウンドを務めていました。

1987(昭和62)年は29試合で0勝0敗ながら防御率2.87と好記録を残しながら、成績的にはまだやれそうでしたがこの年37歳で引退しました。

 

 

ローダイでの野球留学含めプロ通算18年間で通算わずか14勝でしたが、400試合以上のマウンドに立ち、サイドスローの変則左腕として、子供たちが真似るほどの特徴的なピッチングで記憶に残る投手として長く活躍を続けました。

 

引退後はスカウトを務めながら一年だけコーチも兼ねていましたが、引退後10年も経たないうちにロッテを離れたといいま

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より。

 大洋を戦力外となり、ロッテへ移籍してきた年でした。

 「最後の勝負」とコメントにありますが、ここで抑えとして活躍し、3年間ロッテで貴重な左腕として活躍してからこの2年後に選手生活を全うしました。

35歳から、通算2Sだったのを8Sにまで伸ばす事ができて、本当にここに拾われて良かったと思います。

 

      

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村