思い出のプロ野球選手、今回は有沢 賢持投手です。 

 

今回から、1950(昭和25)年生まれの選手について触れていきます。ようやく1950年代突入です。

 

打撃投手から現役復帰して、34歳で一軍デビューした「遅咲きの星」で、わずか2年間の一軍生活で通算0勝でしたが、当時のヤクルトの危機的状況を救った左腕投手です。

 

【有沢 賢持(ありさわ・けんじ)】

生年月日:1950(昭和25)年7月27日

経歴:北日本学院大学付高-大昭和製紙北海道-日産サニー札幌-ヤクルト('79~'81、'84~'85)

通算成績:45試合 0勝0敗0S 35⅔投球回 0完投 0完封 17奪三振 防御率4.29

入団:ヤクルト('78 ドラフト3位)

位置:投手 投打:左左 現役生活:5年

 

 

現役時代のカラー写真が見当たらなかったので、手持ちの1985年選手名鑑から写真をお届けします。

前年に現役復帰して、復帰2年目というところで、この年限りで現役を退く事にもなります。前年一軍デビューしているので、前年の成績がそのまま当時の通算成績になっています。

裏方としては打撃投手と共にビデオ係も担当していたのですね。

 

おそらくですが、これほど実績数値の少ない選手を取り上げる事は今後ないだろうというくらいわずか2年間の一軍生活で、通算0勝の投手ですが、自分の中では記憶に残っているので今回取り上げました。

 

 

 

個人的印象

初めてその存在を知ったのは、1984(昭和59)年の現役復帰時です。

一度現役を引退していた34歳になる投手が現役復帰したといい、その投げる姿がテレビのナイターで中継されていました。なにせ背番号「83」という大きな番号を背負った投手が投げているのを見て、どんな選手なんだろう?と思ったものでした。

 

基本ワンポイントかその延長上で投げるくらいで、長いイニングは投げていませんでしたが、左投手という事もあり、重宝していたんだなと当時から感じていました。

翌年も投げていて、まだまだ活躍を続けそうだと思っていた矢先、復帰後たった2年で引退してしまいました。

 

 

プロ入りまで

高校は北海道の北日本学院大学付属高校(当時)で、この名前は彼が在籍していた頃の校名で、卒業直後には馴染みの高い「旭川大付」高となり、現在は旭川志峯(しほう)高校という校名となっています。

この高校で3年夏の甲子園に出場し、1勝をあげています。

その後社会人へ進み、大昭和製紙北海道へ入社しますが、ここではあまり活躍できなかったといい、日産サニー札幌へ移籍してからエースになったといいます。

ここで、他のいくつものチームの補強選手として都市対抗で活躍し、1978(昭和53)年のドラフト会議でヤクルトからドラフト3位指名を受け入団しました。

 

 

入団後

高卒後実に10年間社会人でキャリアを積み、29歳になる年の高齢入団で、当初の背番号は「45」でした。

またドラフト3位と比較的上位での指名につき球団からの期待は相応にあったものと思います。

しかし3年間で一軍からお呼びがかかる事が一度もなく、1981(昭和56)年のオフに戦力外通告を受け、打撃投手への転向を言い渡される事となました。

時に31歳、一軍実績なしのままの引退…。となると、この記事でも取り上げる事もなかっただろうな、と思います。

この現役3年間については情報がなく、当時の写真も見当たらずで全然分かりませんが…。

 

という訳で1982(昭和57)年からは打撃投手兼ビデオ係という役柄へ転身します。

 

 

突然の現役復帰

打撃投手としての日々を送っていた有沢投手でしたが、1984(昭和59)年のシーズン途中にこの年3人目の監督に就任した土橋監督から「もう一度現役復帰でやってみないか?」と言われ、当初は冗談だと思っていたといいますが、監督からの語気は強くなっていったようで「やってみろ」となり、「できません」と答えると、「とにかくやれ」となっていったといいます。

当時のヤクルトは左の中継ぎ陣が手薄で、この年は大川章投手がシーズンの半分の試合に出るほどフル回転していましたが、他にはほとんどおらず、土橋監督がワンポイントなら十分通用すると踏んで、有沢投手に強く現役復帰を要請したものと思います。

そうして突如34歳にして現役復帰を果たしただけでなく、一軍デビューも果たしてしまった有沢投手、それまで打撃投手だった背番号83の投手が連日投げる姿はやはり大変印象的だったと思います。少なくとも自分は最初「コーチが代わりに投げてるのか?」と思ったほどでした。

 

6月に一軍デビューを果たし、最終的に22試合に登板し、0勝0敗でしたが防御率2.60を記録し要所で活躍する事ができました。

チームはかなりの弱小期といっても良い時期で、特にこの年は監督が2人も変わるほどの崩壊寸前の状況でしたが、最終的には5位に終わり、3年連続最下位の不名誉だけは回避する事ができ、有沢投手がこれにひと役買ったといっても過言ではありませんでした。
 

 

復帰2年目、最後の年

復帰後の活躍が認められて現役続行となり、背番号も「13」と主力投手がつける番号へと変更になった有沢投手でしたが、この年もやはり0勝0敗で、23試合に登板し、防御率は前年の2.60よりかなり落ちて5.89にまで跳ね上がってしまいました。

肘の故障もあり35歳という年齢、ワンポイントを主とした起用での現役復帰、などあって、この年限り35歳で引退となました。

 

 

引退後はマスターずーぐに出るなどし、北海道で野球指導もしており、近年でもヤクルトのユニフォームを着た彼の姿を確認する事ができました。

よもや現役復帰するなど考えもしなかった投手に、いちなり一軍のスポットライトが浴びせられ、束の間ながら全国の茶の間にその雄姿を見せた有沢投手、ご家族その他周りの方たちはさぞや喜んだ事かと思います。

 

 

 

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