思い出のプロ野球選手、今回は道原 裕幸選手です。 

 

1970年代から80年代前半に控え捕手としてカープ黄金期を支えた選手です。

 

【道原 裕幸(みちはら・ひろゆき)】

生年月日:1949(昭和24)年5月30日

入団:広島('71・ドラフト1位) 
経歴:桜ヶ丘高-芝浦工大-広島('72~'84)

通算成績:532試合 打率.210 188安打 5本塁打 63打点 1盗塁

位置:捕手 投打:右右 現役生活:13年
規定打席到達:なし

 

 

個人的印象

広島の控え捕手、です。

カープが日本一で連覇を達成した時代は水沼四郎捕手の控えとして活躍し、その後は達川光男捕手が台頭してきますが、この時もまた控えとしての活躍を続けていました。控えでもそこそこ試合には出てたイメージはあります。

あと顔が渋い、ですね。自分の持っていた捕手のイメージとは違う顔?で精悍な面構えという印象でした。

 

 

プロ入りまで

高校は山口県の桜ヶ丘高校で、甲子園には届きませんでした。

大学は芝浦工大へ進学し、2学年上の河村健一郎選手は、高校・大学で被りのある先輩でした。

 

大学の1学年先輩に伊原春樹選手がいて、その伊原氏が最近高橋慶彦氏のYouTubeにゲスト出演し、大学時代の想い出やこの道原選手の事を後輩として触れていました。

 

大学では伊原選手と共にクリーンアップを打ち、ベストナインを3回獲得する大活躍で、1971(昭和46)年のドラフト会議で広島東洋カープから1位指名を受けて入団しました。この時、周囲の進言もあり「2位以下ならプロに入らなかった」といいます。

 

 

ドラ1入団

カープで捕手としてドラフト1位入団したのは2人目で5年ぶりの事でした。

ちなみに彼の次は約20年空き、瀬戸輝信選手でしたが、カープのドラ1捕手は大成しないのが正直当てはまってしまいます。

即戦力として期待されましたが、ルーキーイヤーは1972(昭和47)年で、22試合の出場で32打数30安打の打率.188、1本塁打5打点でした。6安打でしたが、初安打は10月に入ってからで、その日の試合で3ラン本塁打を放っての記録で、打での活躍はほぼ終盤のみでした。

当時のカープは保守層が厚く、大ベテランの田中尊選手はラストイヤーでほぼ出ていませんでしたが、水沼四郎選手が台頭し始めた頃で、久保祥次選手と正捕手争いをしているような状況でした。

 

この年が終わると捕手は大激変で、田中選手は引退、久保選手は近鉄へ金銭トレードで移籍しました。久保選手は既に30歳を越えていたとはいえ、水沼選手とレギュラー獲りを熾烈に争っていた状況での移籍(しかもトレード相手のない「金銭トレード」)は、道原選手の台頭を期待してのものだったのでしょうか?

 

そんな中で迎えた2年目1973(昭和48)年でしたが、今度は2つ年上の西沢正次捕手が台頭し、ここに割って入る事でできず、3年目までは同程度の20試合前後の試合出場でひとケタ安打、2年目3年目は0本塁打0打点でした。

 

 

広島優勝時に台頭

3年目までは、試合には出るもののかなり出番が限定的であった道原選手でしたが、4年目1975(昭和50)年は西沢選手の太平洋への移籍もあり、大きく出場機会を増やす事ができました。

この年は初の外国人監督となったジョー・ルーツ氏より直々に「開幕スタメンで起用する」と言われ、実際に起用もされました。この事が本人いわく「ルーツと会って、人生が変わった」といいます。

75試合に出場して、149打数30安打で打率.201、1本塁打3打点でしたが、この年は悲願であったカープ初のリーグ優勝に沸きました。そんな年にようやく戦力になってきたというところでした。

 

 

水沼捕手との争い

その後、水沼選手との正捕手争いとなりますが、その壁は厚く正捕手へ上り詰めるという訳にはいきませんでした。

しかし水沼選手もシーズン通して絶対的な正捕手という感じではなく、控えとして道原選手の存在がモノを言っていた訳で、出番こそ半減しましたが1976(昭和51)年は55試合出場で86打数15安打で打率.174で本塁打こそ0ながら10打点をあげています。前年30安打でわずか3打点だったのが、この年は半分の15安打で10打点と巡り合わせの良し悪しを感じるものでした。

 

1977(昭和52)年も前年同様の出番で、70打数18安打、打率.257で4打点でした。

1978(昭和53)年はかなり出番が減り、20試合で17打数2安打で打率.118と打撃もほとんど実績なしに終わり、この年は水沼捕手が現役生活で唯一の規定打席に達するほどの活躍で、出番が限定的になってしまいました。時に29歳、これからの生き残りがかかった正念場といえる状況でした。

 

 

カープ連覇に貢献

1979(昭和54)年はカープの4年ぶりリーグ優勝、そして悲願であった初の日本一にも輝きました。

この年は30歳を迎え、水沼捕手は正捕手ながら再び規定打席に達しない程度の出番でしたが、代わるように2年目の若手・達川光男選手が出番を増やしてきました。

道原選手は達川選手と同等の出場機会で39試合で82打数16安打、打率.195で1本塁打4打点の成績で、ホームランは前回リーグ優勝した1975年以来4年ぶりに放った2本目でした。

近鉄との日本シリーズでは、水沼捕手が全試合先発していたので、2試合控えで出ただけでした。

 

翌1980(昭和55)年は、61試合に出場し101打数16安打で打率.158の3打点でした。5年ぶりの100打席越えでしたが、この年は達川選手がほとんど出番がなかったので出られた面もあったかもしれません。

2連覇を成し遂げた近鉄との日本シーズでしたが、この年は水沼捕手が出ずっぱりで出番がありませんでした。

 

 

ピーク期

「最も出番が多かった時期」という意味での道原選手のピークは1980~82年の3年間くらいになると思います。既に30歳を越えて正捕手にはなかなかなれないものの控え捕手としてしぶとく生き残ってきました。

1981(昭和56)年を境に、正捕手・水沼選手が出番を減らして、反対に若手の達川捕手が右肩上がりに出番を増やし正捕手へと上り詰めてていき、その世代交代の中で道原選手は控え捕手として一定の出場機会を得ました。

この年は147打数42安打で打率.286で1本塁打15打点の成績をあげ、打率は引退時の極少機会以外では.250を越えたのは2回(他に1977年の.257)だけであり、163打席、42安打、15打点もキャリアハイでした。32歳にして生涯最高の成績をあげました。

 

翌1982(昭和57)年は105打数22安打で打率.210、1本塁打11打点の成績でした。ホームランは通算5本でしたが、打った年は1本のみでシーズンで2本以上打つことはなく、この年の1号が現役最後のホームランとなりました。

この年を最後に長年彼の上に正捕手として君臨してきた水沼選手が中日へコーチ兼任の形で移籍する事になります。

 

 

晩年、引退

1983(昭和58)年からは達川捕手が本格的に正捕手としてひとり立ちし、道原選手の出番は減り、44試合で68打数15安打で打率.221の7打点でした。

そして1984(昭和59)年はわずか4試合で3打数1安打、この年の少ない出場機会にTVで目にしたのを覚えていますが、最近見なくなったなと思っていたところに出てきました。この年35歳で引退しました。

 

引退後はコーチを長年務めましたが、兼務で寮長も長年務めました。

 

 

1981(昭和56)年の選手名鑑(カープ手帳)より。

捕手で最も若い背番号の10ですが、現役時代は一貫して

「10」をつけていました。

      

 

 

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