思い出のプロ野球選手、今回は弘田 澄男選手です。 

 

1970年代から80年代中盤まで、ロッテでは走攻守揃ったリードオフマンとして活躍し、阪神でも渋いベテランの味を発揮し、セ・パ両リーグで日本一に貢献した小柄でガッツに溢れた選手です。

 

【弘田 澄男(ひろた・すみお)】

生年月日:1949(昭和24)年5月13日

入団:ロッテ('71・ドラフト3位) 
経歴:高知高-四国銀行-ロッテ('72~'83)-阪神('84~'88)

通算成績:1,592試合 打率.276 1,506安打 76本塁打 487打点 294盗塁

位置:外野手 投打:右右 現役生活:17年
表彰:ベストナイン 2回('75、'76)、Gグラブ賞 5回('73~'77) 
※5年連続

規定打席到達:11回('73~'82、'84)

オールスター出場 3回('74、'75、'77)

記録:サイクルヒット('73.7.11)

節目の記録:出場-1,000試合出場('80.9.30)、1,500試合出場('85.8.30)
      安打-1,000安打('80.10.4)、1,500安打('86.9.27)

  

 

 

個人的印象

オリオンズのリードオフマン、です。

ガンガン打つというよりも、守り・走りに特に長けた選手の印象が強いです。

そしていつの間にか阪神に来てて、その時はロッテ時代と全然違ってベテラン感が強い印象でしたが、渋い働きをしていたのは記憶に残っています。

 

 

プロ入りまで

高校は高知県の高知高校でした。高校野球の番組等では単に「高知」と表記される高校です。2年春の選抜に出場し2回戦で敗退、3年でも春に出場し、この時はなんと準優勝を果たしています。

高校の同級生に、大相撲で関脇まで務めて後にタレントになった「荒勢」氏がいました。

そのまま社会人の四国銀行へ進み、ここに在籍していた4年間は補強選手として常に都市対抗に出場し、ここでも高校時代同様に準優勝となり、優勝とはなかなか縁がありませんでした。

1971(昭和46)年のドラフト会議でロッテから3位指名を受け、163㎝の身長など不安要素はあったものの入団しました。当時のプロ野球では最も低身長であったそうです。

 

1年目

後に外野の名手となる弘田選手ですが、1年目は内外野兼任でプレーしていて、71試合の出場で、187打数53安打で打率.283、1本塁打16打点、そして18盗塁をマークし、当時同級生の大卒選手と同期入団する年齢でしたが、まずは及第点の活躍ができたのではないかと思います。

 

 

レギュラー入り

2年目1973(昭和48)年にロッテ監督に就任した金田正一氏に見いだされ、センター固定で起用されるようになり、そこからはレギュラー街道まっしぐらで、この年から実に10年連続で規定打席に到達する事となります。

このレギュラー初年度にGグラブ賞を初めて受賞しました。

7月にサイクルヒットを記録しましたが、当時は2,3年に1度達成されるような状況で、前回は2年前同じロッテの山崎裕之選手が達成し、次は3年後1976(昭和51)年にやはりロッテの得津高宏選手が記録しており、3人連続でロッテの選手が達成しています。

ロッテ以外のチームでは1968(昭和43)年に和田博実選手(西鉄)が記録し、その後1976(昭和51)年に衣笠祥雄選手(広島)が記録するまで、8年間ありませんでした。

 

その2年目は127試合に出場し、499打数147安打で打率.295、13本塁打50打点で一気にロッテの主力選手へと駆け上がりました。小柄でも主力を張れる、少し上の世代の福本豊、若松勉といった選手が成功したようにできる事を証明してみせた格好となりました。ちなみに2ケタ本塁打を打ったのはこの年含めて2回のみで、普段は毎年1ケタのホームランをコンスタントに記録していました。

一方で盗塁は20を越えて22個、この年から6年連続で20個以上を記録します。

 

 

ロッテ日本一に貢献

3年目1974(昭和49)年も同じ打率.295で、9本塁打60打点を記録、打点はこの年がキャリアハイでしたが、打撃成績的にはキャリア前半の方が数値が高かった傾向にあります。

この年はなんといっても、ロッテが日本一を成し遂げ、アマチュア時代に準優勝ばかりで手の届かなかった「優勝」というものを経験しました。

そして色々な事があました。

まずは当時の「遺恨」相手としての太平洋戦で、犠牲フライとなる打球を見て本塁へタッチアップをしたところ、相手捕手に足を掛けられ転倒し、金田監督が相手捕手に蹴りを入れそこから大乱闘になったといいます。当時、両チームの「遺恨試合」は名物的なもので、事あるごとにこのような事があったといいます。

その後はランニング満塁ホームランをやはりこの年に記録しています。

 

オールスターにもこの年初めて出場し、そしてまたリーグ優勝も初経験しました。

巨人のV10を阻んだ中日との日本シリーズで大活躍し、25打数10安打で打率.400、2本塁打7打点、最終戦では日本一を決めるタイムリーを放って、シリーズMVPに輝きました。

2年連続でGグラブ賞を受賞し、3年目25歳で充実の年となりました。

 

 

昭和50年代のオリオンズトップバッター

昭和50年代に入ると、本塁打打点などの派手な数字はなくなり、コンスタントに一定の成績を残しながら、長く安定感のある活躍を続けていきます。

1975(昭和50)年は初の3割(.301)を達成し、148安打はリーグ最多でした。当時「最多安打」というタイトルはなかったので、打撃タイトル上は無冠となっていますが、ロッテ時代では唯一の3割をマークしています。

また本塁打11本で、2ケタ本塁打はこの年が最後となります。

更に三塁打6本がリーグ最多で、盗塁はこの年初めて30を越えて35個、通算100盗塁を4年目でクリアし、韋駄天ぶりもますます冴えわたります。

2年連続のオールスター出場、3年連続のGグラブ賞に加えて、この年初めてベストナインも受賞し、不動のセンターとして君臨していきました。

外野手はライト、センター、レフトに分かれていないので、その分も良かったと思います。センターだけだと福本豊選手に阻まれた部分があったのではないかと思います。

 

1976(昭和51)年以降はレギュラーを張りつつも120試合以上出る事が殆どなくなり、ほぼ110強の試合数のシーズンを積み重ねていきます。打席数も400台でトップバッターの割には少なく、全くの不動のセンターという訳ではなかったのかな、と感じました。4年連続Gグラブ賞と2年連続ベストナインのダブル受賞を果たしています。

 

1977(昭和52)年は規定打席到達以来初の100安打割れとなる96安打に終わりました。

盗塁も安打も年々減っていって若い頃の勢いはなくなりつつありました。それでも2年ぶりで最後となるオールスター出場を果たし、またこれも最後となりましたが5年連続でGグラブ賞を受賞しました。

 

1978(昭和53)年は規定ギリギリの407打席で、やはり100安打割れの91安打でした。打率も.245(前年.238)と振るわないものでした。

 

1979(昭和54)年、30歳を迎えて復活し3年ぶりの100安打越え(113安打)で、打率.285をマークしました。ただし6年連続で記録していた盗塁20個以上は途切れ、この年は13個に終わりました。

 

 

80年代オリオンズの世代交代

1980(昭和55)年、80年代に入ってもセンターのレギュラーは守り、この年は盗塁が自己最多の41個を記録しました。時代によっては盗塁王を獲れる数字でしたが、当時のパ・リーグはなにせ福本豊選手の全盛期で、54個の福本選手にはさすがにおよびませんでした。

この年は通算1,000試合出場と1,000安打を達成、ともにこれを少しだけ越える形でシーズンを終えました。

 

1981(昭和56)年、阪急の名手・山森雅文選手がホームラン性の打球をフェンスをよじ登って捕球し、のちに大リーグ殿堂にその写真が飾られたプレーが話題になりましたが、この打球を放ったのが弘田選手でした。

1982(昭和57)年まで10年連続で規定打席を維持しました。

この年を境に各球団で世代交代が進み、1983(昭和58)年は84試合の出場にとどまり、245打数60安打で打率.245、1本塁打13打点に終わり、盗塁もこの年は7個に終わり、入団から前年まで続けていた2ケタ盗塁は11年で途切れる事となりました。

時に34歳を迎えており、同世代の選手の多くは引退やトレードなどで退団していく、そんな時代の中にいました。

 

阪神へトレード

1984(昭和59)年からは藤倉一雅選手とのトレードで阪神へ移籍しました。阪神へ移ってきたのは少し後で知りましたが、自由契約後の金銭か何か?と思っていたら、藤倉選手とのトレードとは、ここでこれを書くまで知りませんでした。

言っては何ですが、ちょっと不釣り合いな気がして…。弘田選手の実績と藤倉選手の将来性との交換、という事かもしれませんが。

 

阪神にいた時「ロッテにいた弘田だよな??」とか思って見ていましたが、それまでの背番号3から、阪神では「1」をつけていて、「(それまで背番号1をつけていた)植松(精一)って引退したのかな??」とも思いながら見てました。

 

既に35歳で、どれほど働くか?という向きはあったようですが、蓋を開けると2年ぶりに規定打席に到達(これが最後となりました)し、ギリギリの408打席で、361打数113安打で打率.313と9年ぶりに3割を越え、自己最高の打率で打撃ベストテン9位に入る活躍を見せました。ホームランは7本で、ここ9年では1982年と並んで最高でした。

阪神では主に2番を打って、つなぎ役的な面も見られ、ロッテ時代とは違った活躍ぶりでしたが、セ・リーグへ移っても活躍でき、一花咲かせる事ができました。

 

 

セ・リーグでも優勝に貢献

1985(昭和60)年からはレギュラーから遠ざかり、準レギュラー的な立ち位置へ移行しますが、この年はなんといっても阪神タイガース21年ぶりの優勝に湧き、西武との日本シリーズにも勝利し、自身2度目の日本一経験となりました。日本シリーズでは全試合指名打者で出場しています。

セ・パ両リーグで1回ずつ日本一を経験し、25歳と36歳での経験でまた違ったものになったと思います。

この年は通算1,500試合出場を達成しています。この年の5号本塁打が現役最後のホームランとなりました。

 

 

現役晩年

1986(昭和61)年は実質的に戦力として働いた最後の年となりますが、73試合で195打数47安打で打率.241、0本塁打4打点でした。47本もヒットを打っていながら打点がわずか4というのは…、という感じですが、通算1,500安打を達成しています。

 

1987(昭和62)年は、実働で最後の年となり、わずか5試合で5打数1安打の打率.200、打点も0でした。唯一放ったヒットが現役最後のヒットとなりました。

 

個人的にリアルで見ていながら彼の引退はいつだったのか当時はハッキリしませんでしたが、1988(昭和63)年はコーチ兼任となり背番号は既に1を返上して「73」となっていて、一軍の試合に出る事のないまま39歳で引退しました。

 

通算1,506安打とヒットを量産しつつ、294盗塁と足でも見せたオリオンズの小柄なガッツマンは、まだまだ打てるけど守備が厳しいと感じた事が理由で引退を決断したといいます。

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より。

 ロッテから阪神へ移籍して2年目のシーズンで

 36歳を迎えるところでした。

 前年成績は移籍初年1984(昭和59)年の記録で、

 打率.313は自己最高でした。

 この年は優勝に貢献しますが、実質戦力になるのは

 この翌年までで、次は5試合のみ、その次は一軍なし

 でした。

 アリスの大ファンという事で、昨年の谷村新司さん

 の訃報は悲しかった事でしょう。

 

      

 

 

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