思い出のプロ野球選手、今回は中村 勝広選手です。 

 

1970年代を中心に、阪神で主力の内野手として活躍し、早くから幹部候補生と目され、その後監督・フロントまで進んだ選手です。

 

【中村 勝広(なかむら・かつひろ)】

生年月日:1949(昭和24)年6月6日
没年月日:2015(平成27)年9月23日(66歳没)

入団:阪神('71・ドラフト2位) 
経歴:成東高-早大-阪神('72~'82)

通算成績:939試合 打率.246 648安打 76本塁打 219打点 74盗塁

位置:内野手 投打:右右 現役生活:11年
規定打席到達:3回('75~'77)

オールスター出場 3回('72、'75、'77)

 

 

 

個人的印象

阪神の内野手、です。基本二塁手でした。

背番号14という、大抵は投手がつけている番号をつけていました。阪神は割と10番台を野手がつける事が多く、同級生の桑野議選手が「17」をつけており、後に入ってくる大学の後輩でもある岡田彰布選手は「16」をつけていました。

「故障」のイメージもあります。というのも、プロ野球中継の実況で「中村勝広が故障で…」とあり、この時初めて「故障」の意味がケガである事を知りました。なので個人的に「故障」というと、真っ先にこの選手を思い出します。

現役時代はブルーのユニフォーム、監督では白の縦じまユニフォームとハッキリ印象の別れる人、のイメージも強く、ちょうどユニフォームのデザインが変わる頃に現役を引退した為、このような印象が強いのかなと思います。

あと、「中村(勝)」表記も印象的でした。同姓の選手が同じ球団に複数いたら、( )付になる訳ですが、この表記をみた最初の選手だったかも、というぐらい幼少期の記憶があります。

 

 

プロ入りまで

高校は千葉県の成東高校で、後に中日に入る鈴木孝政投手は5つ下になります。

甲子園出場には縁のないまま、早稲田大学へ進学しました。

早大では2学年上に谷沢健一選手がいましたが、彼らの在学時は活躍機会がなく、彼らの卒業後にレギュラーになり、また主将にもなり早大をけん引し、ベストナインに輝くなど活躍しました。

1971(昭和46)年のドラフト会議で阪神から2位指名を受けて入団しました。同期の1位は亜大の山本和行投手でした。今回調べるまで知りませんでしたがドラフト1位じゃなかったんですね、早くから幹部候補生という感じだったので、ドラフト1位で確約でもしていたのかと思ってしまいましたが。

 

 

初期キャリア

大卒1年目の1972(昭和47)年から81試合に出場し、177打数31安打、打率.175に終わり、3本塁打9打点でした。しかしこの年、ファン投票で新人にしてオールスターに出場しています。

2年目1973(昭和48)年もほぼ同様の出番、成績で打率.204とかろうじて2割にのせました。この当時は、後に監督になる安藤統男選手、また野田征稔選手といったベテラン選手の中に割って入る形でした。

 

 

レギュラー期

3年目1974(昭和49)年に飛躍し、一気にレギュラーへ駆け上がりました。

規定打席には少し足りませんでしたが、112試合出場で307打数71安打、打率.28011本塁打34打点をあげました。

初の2ケタ本塁打を記録しましたが、この年から5年連続で2ケタ本塁打を記録しています。

 

そして4年目の1975(昭和50)年、遂に初の規定打席到達を果たし、475打数133安打で打率.280、16本塁打43打点の成績を挙げました。

ほとんどの項目がキャリアハイで、安打、本塁打、打点すべて最高の成績となり、規定打席に到達した3回中最も打率の高いシーズンでもあり、唯一の全試合出場も果たしており、まさに最良のシーズンであったと思います。また3年ぶり2度目のオールスターにも出場しています。

 

この年から3年連続で規定打席に到達を続けますが、数字的には年々下がっていき、特に打率は2分ずつ下がっていってました。

 

1976(昭和51)年には123安打を放っていますが、100安打以上はこの年が最後となりましたが、盗塁17はキャリアハイで、前年から4年連続で2ケタ盗塁を記録することになります。

1977(昭和52)年は、94安打に終わり打率も.242まで落ちました。規定打席到達最後の年となりましたが、3度目にして最後のオールスターに出場しています。

華麗な守備で鳴らしましたが、意外にもゴールデングラブ賞受賞が一度もなく、ベストナインも受賞なしでした。

1978(昭和53)年は、規定打席にはわずかに届かず384打席でしたが、まだレギュラーポジションにはいて、守備率.995で当時の二塁手の日本記録をもっていました。

320打数80安打のちょうど.250で、11本塁打30打点でした。

2ケタ本塁打と2ケタ盗塁はこの年で最後となりましたが、盗塁についてはこの後の4年間1個も記録していませんでした。

 

 

晩年、引退

30歳になる1979(昭和54)年から明らかに出場機会が減少し続け、同級生の榊原良行選手に定位置を譲る形で出番が減り、この年は真弓明信選手がクラウンから移籍してきたのもありますが、61試合で189打数53安打、打率.280で5本塁打21打点に終わり、80年代になってからめっきり見なくなりましたが、みるみるうちに出番が減っていました。

1980(昭和55)年は71試合で108打数25安打の打率.231で、3本塁打9打点に終わり、新人時代と同等の成績で、ホームランはこの年の3号が現役最後となりました。

 

1981(昭和56)年からは、32歳になるシーズンにしてコーチ兼任となりました。

そこからはほとんど選手として戦力にはならず、この年は15打数1安打で打率.067、翌1982(昭和57)年は25打数4安打で打率.160、共に0本塁打1打点の成績となり、この年33歳の若さで引退しました。

 

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その後は引退後すぐ二軍監督になり、一度現場を離れた後、1990(平成2)年から阪神の監督を5年間務め、1992(平成4)年の2位躍進を盛り上げました。他球団でも監督を務めながら、阪神のGMを務めていた時に宿泊先で66歳の若さで亡くなりました。

 

 

↓1981(昭和56)年の選手名鑑より

 この年から「コーチ兼任」になりました。

 現役生活でもかなり出番が減ってきていましたが、

 コーチ兼任になってからは数えるほどしか出番があり 

 ませんでした。

 時に32歳。幹部候補生だった事が窺え、案の定引退後

 すぐ二軍監督になり、その後一軍監督も務めました。

      

 

 

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