思い出のプロ野球選手、今回は高木 由一選手です。 

 

市役所職員出身という異色の経歴でプロ入りしながら、「とっつぁん」のあだ名で知られたいかつい顔のユニークな選手で、昭和50年代を中心に大洋を支えた選手でもあります。

 

【高木 由一(たかぎ・よしかず)】

生年月日:1949(昭和24)年3月13日

入団:大洋('71・ドラフト外) 
経歴:淵野辺高-相模原市役所-大洋('72~'87)

通算成績:1,147試合 打率.295 957安打 102本塁打 463打点 24盗塁

位置:外野手 投打:左左 現役生活:16年

規定打席到達:4回('77、'78、'80、'81)

オールスター出場 2回('77、'78)

節目の記録 出場-1,000試合出場('85.6.4)

      本塁打-100号('85.8.15)

 

 

個人的印象

いかつい顔の大洋のベテラン外野手、です。

元は高木「好一」で、その後高木「嘉一」ですが、すっかり「由一」の方で定着した感がありました。結構改名してるんですね。

高木豊選手が台頭する前の大洋で「高木」姓の選手として活躍していた印象が強いですが、レギュラーとして活躍していた頃よりも現役晩年の代打の切り札として控えていた時の方がより記憶があります。

 

 

プロ入りまで

高校は神奈川県相模原市の淵野辺(ふちのべ)高校(現在は「麻生大付属高校」というそうです)で、この高校はナント野球部のない学校でした。

そんな高校で、自ら野球部を立ち上げたという経歴の持ち主で、自身が部員を募り監督もない状態で、エースと主砲を務めたといいます。

公式戦に出たのは3年夏の1試合のみで、それも完封負けに終わったという事で、プロ野球で100本以上のホームランを打った選手で、チームが公式戦で1得点すら挙げる事ができなかった高校にいた選手、というのはかなりレアだと思います。

 

高校での実績が皆無のまま卒業し、野球で誘われて公務員試験に合格し、地元の相模原市役所へ入り、市役所職員をしながら野球を続けていました。

ここでは「産業対抗」の官業公社部門で優勝しました。民間企業ではない、官業や公社という事で、役所や国鉄、電電公社や専売公社などが当時の構成する団体だったと思います。この優勝を受け、民間企業の社会人チームとも対戦していきました。

 

ドラフトにはかかりませんでしたが、大洋の入団テストを冷やかし半分で受けに行ったら合格してしまい、しかし悩みに悩んで断ったといいます。

しかしながら当時の青田昇コーチの呼びかけもあり、結局は入団する決意を固めたという事で、1971(昭和46)年ドラフト外で大洋に入団しています。ドラフト外というのもありますが、契約金はゼロだったそうです。

 

 

初期キャリア

テスト生入団で、契約金同様ゼロからのスタートとなり、当初の背番号はコーチのような「81」という大きなものでした。

このルーキーイヤーとなった1972(昭和47)年、3月に23歳になっており、大卒同級生は2年目を迎えるシーズンでした。

この新人の年はかなり苦労したといい、首脳陣になかなか認めてもらえず、新人でもドラフトで入った選手が優先して起用されていく、という状態だったそうです。

 

そんな中で、9月に一軍戦初出場を果たし、7試合のみに出場し、13打数1安打、打率.077で、この年放った初安打がそのままシーズンの安打数となりましたが、二塁打で記録しています。

 

一応、一軍戦には出たということなのか翌年より背番号は35へと一般の現役選手並みに軽くなりましたが、2年目1973(昭和48)年は一軍出場なしに終わりました。この時、ドラフト外入団もあり、クビになりかかったといいます。

3年目1974(昭和49)年は何とか一軍戦には出たものの、わずか2試合の出場のみで、2打数無安打に終わりました。

 

ここまで3年で通算1安打、打点0で、ここで背番号が63とコーチ並みの大きな番号へ逆戻りしてしまいました。

 

 

飛躍のとき

ドラフト外入団で3年間で実績皆無ときたら、待っているのはクビの2文字ですが、

昭和50年代に入った4年目1975(昭和50)年に少しだけ出番が増えました。

ようやく2ケタの試合数(12試合)に出て、22打数6安打、打率.273でホームランこそありませんでしたが、初打点のみの打点1をようやくあげました。

特筆すべきは、6安打中実に4本が二塁打というのが実に素晴らしいものがありました。それでもこの時ぐらいまでは常に引退の2文字がチラつく状況だったといいます。

 

大きく飛躍したのは1976(昭和51)年で、この年は94試合に出場し、201打数56安打、打率.279で、5年目にして初本塁打を放ち、7本塁打24打点をあげています。

 

 

70年代レギュラー期

前年の飛躍から一気にレギュラーへ駆け上がった時期が、1977(昭和52)年で、この年には高木好一から「嘉一」へと改名し、背番号が63から一気に「6」とレギュラークラスの番号になりました。

この年は大躍進で、初めてオールスターに出場し、125試合で433打数140安打、打率.323と初の規定打席到達が素晴らしい成績をおさめ、20本塁打73打点と一気に中心選手に躍り出ました。外野のレギュラーだった江尻亮選手が頭部に死球を受ける大けがを負った事も彼にとって定位置取りの大きなキッカケとなりました。

打率.323は実に素晴らしい数字でしたが、打率はリーグ9位とかなり高率の選手が多かった訳ですね。

 

続く1978(昭和53)年も451打数147安打、打率.32623本塁打80打点と、ほとんどの項目でキャリアハイを記録した最良の年になりました。昭和24年生まれですが早生まれにつき、同級生は30歳になる年でした。

打率はリーグ5位で、2年連続でオールスターに出場しましたが、規定打席到達の3割とオールスター出場は、この年が最後となりました。

初期のなかなかチャンスに恵まれず首切りに怯えていたのが嘘のような快進撃が続きました。2年連続の3割、それも3割2分台という高打率をマークし、この年から「横浜大洋」として本拠地を横浜に置く事となりましたが、その門出に中心選手として大活躍をしていました。

 

1979(昭和54)年は4度規定打席に到達したちょうど間の年で、この年に届いていれば5年連続となるところでしたが、2年到達→1年未達→2年到達とちょうど真ん中の年となりました。

89試合出場で274打数77安打、打率.281で6本塁打40打点でした。

 

 

80年代レギュラー期

31歳で迎えた1980(昭和55)年は、2年ぶりに規定打席に到達し460打数130安打、打率.283で12本塁打56打点をマーク、この年には主将を任され、また半数近くの58試合に4番打者としてチームをけん引しました。128試合出場とほぼフルに出て、これはキャリアハイでした。

続く1981(昭和56)年も382打数103安打で規定打席に到達し打率.270、9本塁打50打点を記録しますが、この年が4度目にして最後の規定打席到達となりました。100安打以上、50打点以上もこの年が最後で、記録上のピークは過ぎた感はありました。

 

 

準レギュラーから代打の切り札へ

典型的な、長い下積みを経てレギュラーを掴み、準レギュラー、代打へと野球人生をシフトしていく、そんなモデルのような選手生活を送ることになりますが、33歳で迎えた1982(昭和57)年は92試合出場、289打数82安打、打率.284で10本塁打35打点でした。2ケタ本塁打はこの年が最後でした。

外国人の起用等で代打の切り札としての登場機会が増えるようになりますが、代打の切り札によくある「その打席限り」という事ではなく、代打で出た後もゲームにそのままで続けることが多かったため、試合数≒打席数ではなく、より多くの打席に立つ機会を得ていました。

 

1983(昭和58)年は195打数72安打、打率.3696本塁打36打点という成績でした。

1980年から年々、打席/打数の百の位がひとつずつへっていくぐらいには出番が減っていってましたが、そんな中でも打率.369は神がかり的なものがありました。

 

1984(昭和59)年は、最後の100試合以上となるちょうど100試合に出場し、271打数74安打、打率.273で6本塁打35打点でした。安打、本塁打、打点は前年とほぼ同じながら、打数、打席が増えたので打率としては大きく落ちました(前年が高すぎたんですが…)

 

 

現役晩年、引退

出番がかなり減り始めてきたのが36歳を迎えた1985(昭和60)年からで、93試合で147打数44安打、打率.299で3本塁打17打点と前年の半減の形となりました。またこの年の3号本塁打が現役最後のホームランとなりました。

この年は節目の記録が立て続けに達成され、通算1,000試合出場と100号本塁打をどちらも達成しました。

 

1986(昭和61)年は69試合で91打数22安打と、更に半減の形となり本塁打0で14打点でした。

1987(昭和62)年は17試合で16打数3安打、打率.188の打点2のみで、シーズン途中に異例の形での幕引きとなり、6月に引退試合が設定され、そのまま38歳で引退しました。

打撃タイトルを獲った事もない選手ですが、4度規定打席に到達して通算打率.295はかなり素晴らしいですね。

 

 

その後はチームに残ってコーチとなり、選手から42年連続でユニフォームを着続けた現場一筋の球歴を送りました。

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より

 こればっかり引用してますが、昭和の名鑑で写真入りなのがカープ以外この年しかない為です

この前年1984年までで通算99本塁打、968試合でした。いずれもこの年で節目を記録しました。

この2年後に引退することになります。

 

特技に「税務の知識」とありますが、市役所職員時代に仕事柄得た知識だと思います。

とっつぁん、というあだ名自体が昭和ですが、最近のプロ野球選手には、なかなかこんな貫禄のある選手はいないですね