2024年、あけましておめでとうございます!
思い出のプロ野球選手、今回は「佐々木 恭介」選手です
昭和50年代に近鉄の主力として活躍し、1978(昭和53)年には首位打者を獲得、また翌年からの近鉄のリーグ連覇にも大きく貢献し、後に近鉄の監督になった選手です。
【佐々木 恭介(ささき・きょうすけ)】
生年月日:1949(昭和24)年12月28日
入団:近鉄('71・ドラフト1位)
経歴:柏原高-新日鐵広畑-近鉄('72~'82)
通算成績:1,036試合 打率.283 883安打 105本塁打 412打点 94盗塁
位置:内野手、外野手 投打:右右 現役生活:11年
規定打席到達:5回('75、'76、'78~'80)
タイトル:首位打者 1回('78)、最高出塁率 1回('78)
表彰:ベストナイン 2回('75、'78)
オールスター出場 2回('75、'78)
節目の記録 出場-1,000試合出場('81.7.12)
本塁打-100号('80.10.4)
個人的印象
近鉄そのものの選手、です。
後に監督になってからもその熱さはかなり報じられましたが、「猛牛」という言葉がふさわしい選手、という感じでした。
あとは、いつの間にか引退していた感じで、病気が原因だったようですが、一軍に出ていた間際まで一線級で活躍していたイメージがあります。
プロ入りまで
高校は兵庫県の柏原(かいばら)高校で、兵庫県北部にある公立学校で、甲子園とは無縁でした。他にプロ野球OBもいないようです。ちなみに高校時代はキャッチャーだったそうです。
そのまま社会人の新日鐵広畑という地元の有力社会人チームに入りました。高校時代に当時の柏原町という北部の町から、姫路市へ遠征に出た際に地元・新日鐵広畑の監督が視察に来ていてその目に留まり、入団を強く請われたといいます。
4年間を社会人で過ごしましたが、都市対抗の優勝に貢献し、最優秀選手賞にあたる「橋戸賞」を受賞し、アジア大会メンバーにも入り、社会人ベストナインにも選出されました。
高校時代は捕手でしたが、社会人で受賞した時は一塁手としてでてした。
ちなみに「橋戸賞」とは、都市対抗野球を創設した橋戸信(1879-1936)という人物にちなんで命名されたといいます。
このように社会人で大活躍した佐々木選手は、1971(昭和46)年のドラフト会議で近鉄から1位指名を受けて入団しました。
キャリア初期
1972(昭和47)年がルーキーイヤーとなった佐々木選手、大卒の同級生と同期入団の格好となりました。
背番号は「5」を与えられ、ドラフト1位即戦力の期待を感じるものでした。
その1年目は53試合出場で、122打数30安打、打率.246で5本塁打12打点と、ドラ1ルーキーとしてはやや物足りなかったかもしれませんが、ひとまず一定数の出番は得られたかな、というところでした。
2年目1973(昭和48)年はやや出番が増えて91試合で209打数47安打、打率.225で8本塁打26打点と着実にステップアップしていきました。
レギュラーとして活躍
2年目まで確実に実績をあげ、3年目1974(昭和49)年に定位置を掴みました。
この年は打席数が402と、わずか1打席のみ規定打席に足りませんでしたが118試合で362打数95安打、打率.262で13本塁打39打点と初めて2ケタ本塁打をマークしました。この年は一番を打つことが多く、基本ライトたまにセンターという感じで守備についていました。
初めて規定打席に到達したのが4年目の1975(昭和50)年で、この年は完全にレギュラーとして定着し、前半は1番を打つことが多かったのですが、後半になると4番を打つ日々も送っていました。
前年までは「18歳の四番打者」と言われた土井正博選手が30歳を越えても四番に君臨していましたが、この年に太平洋へ移籍しました。代わって近鉄の四番は当初外国人のジョーンズ選手がすわっていましたが、後半は五番に回ると代わって四番に佐々木選手が入った時期もありました。
このシーズンでは117試合に出場し、364打数111安打、打率.305で13本塁打69打点を挙げました。初の規定打席到達にして、それも3割越えで記録し、初の100安打以上、また69打点はキャリアハイで、また犠飛数12はリーグ最多を記録しています。
初めてオールスターに出場し、またベストナインも獲得するという、色々なことが花開いた最良のシーズンを送りました。
翌1976(昭和51)年はキャリアハイの125試合に出て、418打数112安打、打率.268で10本塁打41打点でした。
前年より少し数字を落としますが2年連続2度目の規定打席到達で、最終的に5度規定打席に到達しますが、打数で400を越えたのはこの年のみで、毎年フルに出ての規定打席到達という訳ではなかったので、打席的に450を越えたのもこの年だけでした。
盗塁は15個とこの年初めて2ケタを記録しますが、個人的なイメージとかなり違ったのは意外に盗塁が多く、通算で94個記録しています。
1977(昭和52)年は規定打席に到達できず、109試合で293打数59安打、打率.201と低調で、6本塁打30打点に終わりました。この年は同級生の平野光泰選手が同じ会社の定位置を確保した頃でした。
タイトル獲得、最高の年
1978(昭和53)年、決して長いとは言えないプロ生活11年間における記録面での最高の1年になりました。時に29歳になるシーズンでした。
この年109試合と少ないながら、376打数133安打、打率.354で9本塁打62打点でしたが、3割5分を超える高打率で首位打者を獲得しました。
更には最高出塁率のタイトルも獲得、オールスターには3年ぶり2度目の出場、ベストナインもおなじく3年ぶり2度目の受賞で、オールスターとベストナインは1975年とこの年の2回で、この2シーズンがいかに良いものであったか、共通しているのは打率3割を越えた事でしたが…。
リーグ優勝、日本シリーズ
最高の1978年を過ごしましたが、それまで7年間で「優勝」には縁がありませんでした。
1979(昭和54)年、30歳を迎えるシーズンでしたが、この年近鉄は球団創設以来、悲願の初優勝を遂げました。初のパ・リーグ制覇でした。
それまでは4年連続阪急がリーグを制していて、阪急黄金時代の真っ只中で、これを近鉄がこのシーズンに打ち破りました。
佐々木選手のシーズン成績は、111試合で363打数116安打、18本塁打46打点とホームランは当時の自己最高を記録し、打率.320で規定打席に到達した上で2年連続で3割越えをマークし、すっかりアベレージヒッターになった感がありました。
パ・リーグは初制覇しましたが、次は日本一をかけての日本シリーズで、勿論シリーズ出場も初めてでした。
ここでは、死球による大けがから復帰し本塁打王になったマニエル選手が守備につくと、佐々木選手は代打での出場となってしまいました。
しかしここに大舞台が待っていました。
「江夏の21球」です。
日本シリーズ最終の第7戦、近鉄3-4広島 という場面で、広島は江夏投手がマウンドにいて逃げ切りの優勝を狙う中、ノーアウト満塁で一打サヨナラ負けという状況を迎え、この最もしびれる場面で代打として打席に立ったのが佐々木選手でした。
この場面で、初球ボールからの2球目を見逃しストライクでカウントが1-1となり、ここからファウル2球を打ち、うち1球はあわやサヨナラかと思う鋭い当たりがファウルとなり、最終的に空振り三振で局面が一死満塁となりました。
佐々木氏自身が、後年振り返って「もう一度やり直せるなら、あの2球目を迷わず振りたい」と見逃した2球目の事をずっと後悔しているといいます。
翌1980(昭和55)年も近鉄はリーグ連覇を果たし、この年も主力として112試合に出場、359打数114安打で打率.318と3年連続3割をマーク、すっかり3割打者の常連となっていました。
この年、通算100号本塁打をシーズン終盤で記録しますが、南海の抑え・金城基泰投手からサヨナラ本塁打で決めました。ホームランは19本と31歳にしてキャリアハイを記録し、まさに充実のときを過ごしていました。
この年も日本シリーズに出場し、やはり日本一はなりませんでしたが、安打も打点も記録しました。
引退
通算100号本塁打の節目を記録した1980年でしたが、規定打席到達に100安打以上、2ケタ本塁打はこの年で最後となりました。
1981(昭和56)年は、7月に通算1,000試合出場を果たしましたが、91試合出場で253打数66安打、打率.261、4本塁打21打点に終わり、この時は肘の故障があったといいます。
そして1982(昭和57)年ですが、肝炎による入院を余儀なくされ、身体は元気ながらドクターストップがかかる状態だったといいます。健康回復と現役続行の狭間に揺れ、最終的に引退を決断し、この年33歳で引退しました。
その後は近鉄のコーチから監督に昇格し、その後西武や中日でもコーチを経験し、現在は社会人野球のクラブチームの監督をしているといいます。
近鉄監督時代の「よっしゃー」というのと、その他監督時代のインパクトが強いですが、現役選手としては志半ばながらも主力選手として活躍しました。
↓1985(昭和60)年の選手名鑑より
現役を引退して3年目、この前年より近鉄のコーチに就任し、コーチ2年目でした。
特技が浪曲というのはこの戦後世代の選手では異質なものと思います。
コーチとしては「50」という選手並みの若い背番号をつけていました。