思い出のプロ野球選手、今回は江島 巧選手です。 

 

 

1960年代後半から80年前半まで、中日では早くから打で活躍し、ロッテでは強肩の外野守備や代打で息長く活躍しました。

 

【江島 巧(えじま・たくみ)】

生年月日:1949(昭和24)年11月24日

入団:中日('67・ドラフト2位) 
経歴:平安高-中日('68~'72)-ロッテ('73~'83)

通算成績:1,187試合 打率.223 473安打 56本塁打 211打点 24盗塁
節目の記録:出場-1,000試合出場('79.7.1)

 

 

個人的印象

あまりはっきり覚えてないのですが、当時のロッテには他に斎藤巧(こう)選手もいて、「巧」の字の選手の印象が強かったです。

あとは、引退後になりますが、引退翌年(1984年)当時見た新聞で、「前年引退した主な選手」として彼の名前が挙がっていました。

ロッテの選手のイメージがあったので、中日にいた事は後から知りました。

写真は野球カードのものですが、引退する前年のものです。

 

プロ入りまで

高校は京都の名門・平安高校で、衣笠祥雄選手の3年後輩にあたります。

甲子園には実に3度も出場し、2年春の選抜に出て3番打者を務め、平安高校で2年生で3番を打ったのは戦後で彼ただ一人だそうで、2年夏にも甲子園出場、3年生には主将になり4番打者にもなり、また春の選抜で3大会連続甲子園出場と華々しすぎる実績を築き上げました。

3年夏は残念ながら甲子園出場はなりませんでしたが、十分すぎる実績を引っ提げて1967(昭和42)年のドラフト会議で中日から2位指名を受けて入団しました。

 

 

高卒新人から活躍

こうして高卒で入団した江島選手、その1年目は1968(昭和43)年でしたが、ルーキーで71試合に出場、157打数24安打打率.153ながら5本塁打9打点を記録しスラッガーの片りんを見せつけました。24安打のうちホームラン5本を高卒新人で記録した事に大器を感じさせ、初本塁打から3試合連続でホームランを打ったことも衝撃の高卒新人だったといえるでしょう。
この記録は2014(平成26)年、当時・西武の森友哉選手が記録するまで46年間、誰も達成していませんでした。

 

 

ハイライト

そして彼のハイライトは早くも2年目に訪れました。

1969(昭和44)年は、123試合に出場、規定打席に僅かに足りない378打席に立ち361打数79安打打率.219とやはり低いながら13本塁打28打点を挙げました。

彼の16年間の現役生活で、300を越える打席はこの1度きりで、規定打席に到達する事は残念ながら1度もありませんでした。

また、123試合、79安打、13本塁打もキャリアハイでしたが、中でも2ケタ本塁打はこれが最初で最後でした。

そして、高卒2年目で79安打という記録は、ドララフと制度後では中日球団2位(1位は種田仁選手の81安打)の大記録として残っており、また同じくドラフト以降の高卒2年目の2ケタ本塁打も歴代で10名ほどしか達成していませんが、掛布雅之(阪神)、森友哉(西武)、大谷翔平(日本ハム)など、ものすごい実績を持った選手ばかりがこの記録を達成しています。

 

 

中日準レギュラー期

高校時代に甲子園で華々しく活躍し、中日でも高卒2年目までに記録的な快進撃を遂げてきた江島選手は、ピークが来るのも早かったのか、その後数値的な目覚ましい成績をあげる事はありませんでしたが、中日在籍時はまだ出番に恵まれていたように思います。

 

3年目1970(昭和45)年は、112試合に出場、273打数63安打で打率.231、9本塁打30打点と、この年は打点がキャリアハイとなり、また規定打席未達の割にリーグ最多記録を残しており、死球10個がその記録です。デッドボールが多かった訳ですね。

 

4年目1971(昭和46)年は102試合に出場し、最高の成績を残した1970年からこの年まで3年連続で100試合以上出場していますが、100試合以上出たのはこの3年間だけでした。それだけこの時期が最もレギュラーに近い活躍をしていたように思います。

打席機会は減り158打数31安打、打率.196、2本塁打16打点でした。

1972(昭和47)年は93試合と100試合割れとなりましたが、245打数47安打、打率.192、4本塁打15打点でした。

200打席以上を記録したのはこの年が最後でした。

 

 

ロッテへトレード

1972(昭和47)年オフ、広瀬宰選手とのトレードでロッテへ移籍となり、中日在籍は5年間で、6年目1973(昭和48)年からロッテでプレーする事となりました。

 

移籍初年1973年は92試合出場、41打数8安打、打率.195と大幅に打席機会を落としました。移籍当初は守備要員の扱いだったようで、高卒からでも100打席を切ったのは入団以来初の事でした。本塁打なしも入団以来初でした。また、3年連続で1割9分台の打率という珍しい記録を残しています。

 

唯一の優勝/日本一

翌1974(昭和49)年も同様の成績で、88試合出場、46打数13安打、打率.283、1本塁打6打点の記録で、出場試合数の半分ほどの打数というのは前年同様でした。毎年打率は二の次のような状況でしたが、少ない打数ながら.250を越えたのはこの年が初めてでした。

 

この年ロッテは日本一になっており、日本シリーズでは江島選手の古巣・中日との対戦となり、全6試合中5試合に出場し、最終戦では先発出場しヒットを記録するなど、シーズン中の成績はあまり残せませんでしたが、ここでは活躍しました。

そして、この年が最初で最後の優勝経験となりました。

 

 

70年代後半

1975(昭和50)年は、これまでのロッテ在籍2年間とは状況が変わり、それまでの守備要員的な立場から打力でも勝負できるようになってきました。

この年は前年と同じ88試合出場でしたが、打数は前年比3倍以上となり、152打数42安打で打率.276、4本塁打20打点の記録を残しています。この時は30試合に先発出場していますが、以後も含めまず偵察メンバーを投手等に入れた後で、相手の先発投手が分かり次第起用されるケースが少なからずありました。

 

これ以後も同様のスタイルで起用され、1976(昭和51)年から2年間は50試合台で半分も出れず少し出番が減りますが、1978(昭和53)年は再び81試合出場、139打数30安打、打率.2162本塁打17打点と出番は増えますが打撃成績としてはそれほどでもない状態でした。

1979(昭和54)年は30歳を迎えるシーズンで、背番号は移籍当初からつけていた「4」から「9」へ変更となりました。

試合数こそ前年同様82試合でしたが、140打数41安打で打率.293と少ない打席ながら自己最高を記録し、もう1本ヒットが多ければちょうど.300になるところでした。そして6本塁打22打点はロッテでのキャリアハイとなり、この2年間がロッテでのピークといった感じで、1975年同様共に30試合ずつ先発出場を果たしています。

 

また、この1979年7月1日南海戦で6番センターとして先発出場する形で、通算1,000試合出場を果たしています。

 

 

80年代前半そして引退

1980(昭和55)年に入り、この年はロッテへ移籍当初の打数くらいしか出番がなくなり、試合数も43試合と入団以来初めて50試合を割り込みました。47打数8安打、打率.170と低迷してしまいました。

1981(昭和56)年は巻き返し、60試合出場でしたが114打数32安打、打率.281で2本塁打11打点としました。

 

以後は右肩下がりで出番が減り、1982(昭和57)年は36試合66打数17安打、打率.258で2本塁打8打点でした。この年には代打満塁ホームランを記録し、8打点のうち4打点がこの時のもので、自身も思い出に残る試合として挙げています。

 

この年に記録した安打、本塁打、打点などほとんどが最後のものとなり、1983(昭和58)年9試合で8打数無安打に終わり、この年限り34歳で引退となりました。

 

 

 

通算1,187試合に出ていますが安打は473で、控え外野手という感じの数字となりましたが、現役生活16年のうち中日時代の5年間だけで約半数の安打を記録し、本塁打は生涯56本のうち、中日の5年間だけで33本と約6割を記録しています。

 

引退後は直後の2年間だけロッテのコーチを担当し、その後は解説者を中心として1年間だけ韓国球団のコーチをしていました。

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より

引退後2年目、ロッテのコーチラストイヤーとなった年のものです。

日本では2年間しかコーチをしていないのでレアです。

趣味が釣りだそうで、また水割り5杯ということでなかなか飲める方でもあったのですね

 

 

 

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