思い出のプロ野球選手、今回は今井 雄太郎投手です。 

 

1970年代から90年代初頭まで主に阪急で活躍し、1978(昭和53)年には昭和最後の完全試合を達成した投手で、またハートの弱さをカバーするため飲酒してマウンドに登り「酒仙投手」ともあだ名された投手です。

 

【今井 雄太郎(いまい・ゆうたろう)】

生年月日:1949(昭和24)年8月4日
経歴:中越高-新潟鉄道管理局-阪急・オリックス('71~'90)-ダイエー('91)

通算成績:429試合 130勝112敗10S 2,030投球回 104完投 18完封 870奪三振 防御率4.28

入団:阪急('70 ドラフト2位)
タイトル:最多勝 2回('81、'84)、最優秀防御率 1回('84)
表彰:ベストナイン 1回('84)

オールスター出場 4回('79、'81、'83、'84)

記録:完全試合('78.8.31)

節目の記録:勝利-100勝('85.4.10)

 

 

個人的印象

阪急の先発ローテ投手、です。

個人的に1984年から阪急を応援するようになったのですが、ちょうどその年が彼の絶頂期で、最多勝に最優秀防御率に投手タイトルを次々獲得し、優勝の立役者として大活躍した時期だったので、いい時期に知れたと思いました。

それまでも知っていましたが、ずっとコンスタントに活躍している印象がなく、メガネをかけた酒を飲んでマウンドに上がる投手、というイメージでした。

最後、ダイエーへ移籍したのは驚きでした。

 

 

プロ入りまで

高校は新潟の中越高校で、甲子園出場はなりませんでした。

この高校のプロ野球OBは、彼より30歳以上年下の選手ばかりで、同年代に同期や先輩後輩は全然いないようです。

高校卒業後は、新潟鉄道管理局(現:JR東日本)へ進み、普通に勤務しながらプレーをしていたといいます。当時は国鉄だった訳で、日本産業対抗野球というもので「国鉄部門予選」というものがあり、決勝まで進んだそうです。

この予選での好投がスカウトの目に留まり、1970(昭和45)年のドラフト会議で阪急ブレーブスから2位指名を受けて入団しました。

 

 

下積み時期

通算130勝の輝かしい実績を誇る今井投手ですが、そのキャリア初期は下積み期間が続き、二軍では活躍するものの一軍では結果が出せず、極度のあがり症である事が大きな要因だったといいます。

新人の1971(昭和46)年は1試合のみの登板で、わずか⅔イニングで5失点を記録し、防御率は実に67.50!を記録しました。

 

その後も10試合前後の登板で、10㌄前後くらいしか出番がなく、2年目1972(昭和47)年に初勝利を挙げる事ができたものの、この年から1975(昭和50)年まで4年間は同程度の成績で、チームはリーグ優勝、日本一になってもなかなかそこに貢献する事ができていませんでした。
という訳で、最初の5年間の通算成績は34試合で2勝2敗、56⅓㌄のみで、この時26歳になっていました。

 

 

少し出番が増えた時期

6年目の1976(昭和51)年には、それまでの5年間から飛躍して64⅔㌄を投げ、16試合で3勝3敗を記録しました。何より、それまでシーズン1度を越えて先発経験がありませんでしたが、この年は10度先発を務めており、首脳陣の期待の表れと思います。

初完投・初完封はこの年に記録しており、この年阪急はV2を達成し、これが巨人を破っての日本一でもありました。

 

翌1977(昭和52)年も巨人を撃破してV3達成となりましたが、自身は12試合で1勝3敗、前年より少し落ちた程度でした。

ここまでの7年間で通算6勝8敗、28歳になっており、これからは生き残りがかかってくるシーズンになっていくところでした。

 

 

台頭、そして完全試合

転機となったのは8年目1978(昭和53)年でした。

首脳陣により、酒を飲ませてマウンドに上げると、ウソのように球が走り好投した事から、その後も何度か酒を飲んでマウンドに上がったといいます。

 

今では考えられない話ですが、当時は二日酔いのベロベロでゲームに出ていた選手がいたり、酒にまつわる話も少なくありませんでした。

 

しかしそれらは本人が好きで飲んでいるもので、今井投手の場合は飲まされて苦しくなり「他の事を考える余裕がなかった」事から、ブルペンで投げた時のように球が走ったのだといいます。

 

結局この年にブレイクして13勝4敗1S、初めて規定投球回にも到達し、防御率2.38の好成績を残しました。当時はそれまで大車輪の活躍を見せていた、山口高志投手に陰りが見え始めた頃でもあり、まだ取って代わってはいませんでしたが、結果的にその後取って代わった格好となりました。

7年間で通算6勝の投手が、この年だけで13勝を挙げたという事で、以後は波があるものの阪急の先発投手として定着していきました。

 

そしてなんといってもこの年は「完全試合」を達成した事が大きかったです。

昭和最後の完全試合であり、またパ・リーグの指名打者制度による打線を相手にした最初の完全試合でもあり、これは2022(令和4)年にロッテの佐々木朗希投手が達成するまで44年間ずっと、今井投手だけが達成した記録でした。

 

この完全試合は1978年8月31日という夏休み最後の日、県営宮城球場でのロッテ戦で、前日の雨で地面が濡れ気味で球足が遅かったり、指の引っ掛かりが良かったのも彼に味方したといいます。

ここでロッテの27人の打者を無安打に抑え、奪った三振はたったの3個で、内野ゴロが実に18個だったといい、打たせて取るタイプの彼らしい投球でした。

最後の打者は代打の土肥健二選手。落合博満選手が大いに参考にしたという「神主打法」のフォームをしていた選手です。

その土肥選手の打球がピッチャーゴロとなり、それまで全く完全試合など意識していなかったという今井投手も、このゴロを捌く時に初めて意識したようで「一塁までが急に遠く感じた」「取ったボールを投げるのに、なかなか手から離れなかった」と後年回想しています。ちなみにこの時のユニフォームの背中のネームは「Y.IMAI」となっていました。

 

 

先発定着、最多勝

その後の阪急はしばらく優勝から遠ざかる事になりますが、今井投手は先発投手として定着していきます。

1979(昭和54)年は30歳を迎えるシーズンでしたが、2年連続で2ケタ勝利となる11勝7敗で、ただし防御率4.26と激増してしまいました。ただ、オールスターに初めて出場したのはこの年でした。

 

その後は隔年で1ケタ、2ケタの勝利を繰り返していく事となり、1980(昭和55)年は8勝5敗3S、防御率5.95と更に落ち、規定投球回もわずかながら3年ぶりに割り込みました。

 

そして1981(昭和56)年、36試合で19勝15敗、ロッテの村田兆治投手と並んで初のタイトル「最多勝」を獲得しました。2年ぶり2度目のオールスター出場も果たしています。

 

1982(昭和57)年は1ケタ勝利の年で6勝11敗1S、126⅓㌄で2年ぶりに規定投球回を割り、1983(昭和58)年は2ケタ勝利の年で15勝10敗、2年ぶり3度目のオールスター出場し、この年から3年連続で200㌄以上の投球回を記録します。

 

 

最高の年・1984

1984(昭和59)年は、それまでの隔年2ケタ勝利のジンクスからいくと、1ケタ勝利になる年でしたが、この年阪急は快進撃で、常勝西武も撃破し2位ロッテとも大きくゲーム差をつけてぶっちぎりの優勝を成し遂げました。実に6年ぶりのリーグ優勝でした。

 

そんな年に今井投手は21勝9敗とキャリアハイにして唯一の20勝越え、3年ぶり2度目の最多勝を獲得、2年連続のオールスター出場防御率2.93で最優秀防御率の獲得、そしてベストナイン選出と、あらゆる栄誉・タイトルを35歳にして手にしました。

35歳での21勝というのが何より素晴らしいですね。

この年は山田久志、佐藤義則、そして今井雄太郎という3本柱のローテで、左腕の宮本四郎投手が8勝と開花し、抑えに山沖之彦投手が君臨する体制でした。

この年の21勝で通算99勝となっていました。

 

 

昭和60年代以降

1985(昭和60)年は4月に挙げたシーズン初勝利で、通算100勝を節目を達成した年となり、前年21勝と突出していましたが、この年も12勝13敗1Sと2年連続2ケタ勝利は達成しました。

しかし防御率4.99で、これが最後の2ケタ勝利となり、また防御率はこれ以降3点台以内に収まる事はなく、年齢的にも36歳で、どこまでやれるかというところでした。

 

1986(昭和61)年は37歳を迎え、149㌄を投げ7勝13敗、規定投球回到達はこの年が最後となりました。

 

 

阪急~オリックス

1987(昭和62)年は4勝5敗、1988(昭和63)年は2勝4敗と年々出番も勝ち星も減り、1988年は34⅓㌄にまで減ってしまい、39歳を迎えた中で、年上の山田投手や福本豊選手が「阪急」の終了と共に引退する事となり、平成を迎え球団も「オリックス」となる中で投手最年長になっていきました。

 

オリックス元年の1989(平成元)年は、少し息を吹き返して80⅔㌄を投げ、5勝5敗2Sの成績を残しました。この年に挙げた1完投が現役最後の完投で、40歳を迎えていましたが、まだ現役を続行しました。

オリックス在籍最終となった1990(平成2)年は0勝1敗、17年ぶりの先発登板なし、15年ぶりの勝ち星なしに終わり、41歳になっていてこれまでかと思われました。

 

 

最後はダイエーで

1991(平成3)年、矢野未乗投手との交換トレードでダイエーへ移籍しました。

まさか前年のあの成績で現役続行、しかも交換トレードで移籍するとは思っていませんでした。

この年は41歳にして先発も2度務め10試合に登板し1勝2敗の記録を残しましたが、5月の試合を最後に一軍で投げる機会がなく、42歳で現役を引退しました。

41歳9ヶ月での勝利は、今年和田毅投手に抜かれるまで30年以上ホークスの最年長記録でした。

 

 

酒を飲んでマウンドに上がった事から「酒仙投手」といわれ「雄ちゃん」の愛称で親しまれた今井投手。7年間で6勝しかしなかった投手が完全試合を達成し、30代の年になる1979~88年の10年間で、通算130勝のうち8割にあたる105勝を挙げた遅咲きの投手でもありました。

 

 

▼1991(平成3)年の選手名鑑より

現役最後の年でオリックスからダイエーへトレードとなり、ダイエーのユニフォームを着たレアな姿の今井投手です。

前年、村田兆治投手が引退し、単独で球界最年長投手となっていました。

酒については…「飲まされた」と語っていた割には好きだったのでしょうか(笑) 

「トノ」というあだ名も素敵です

 

 

 

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