思い出のプロ野球選手、今回は福嶋 久晃選手です。 

 

1970年代から80年代前半にかけて、大洋で熾烈な正捕手争いをしながらレギュラーを張った事もあった強打の捕手です。

 

【福嶋 久晃(ふくしま・ひさあき)】

生年月日:1947(昭和22)年4月10日

入団:大洋('66・ドラフト外) 
経歴:PL学園高-大昭和製紙-大洋('67~'84)-広島('85)

通算成績:1,254試合 打率.239 702安打 107本塁打 370打点 4盗塁

オールスター出場:3回('76、'77、'81)

節目の記録:出場-1,000試合出場('81.8.26)

      本塁打-100号('82.5.19)

 

 

 

個人的印象

大洋の正捕手、です。

自分がプロ野球を見始めた頃の大洋の正捕手はこの福嶋選手でした。

その後多くの捕手が移籍等してきて熾烈な争いの中で、徐々に控えに回っていきました。
最後は広島へ移籍して1年だけの在籍でしたが、特にシーズン序盤の代打での活躍も印象的でした。

 

 

プロ入りまで

高校はPL学園高校で、彼が中三の時に初めて甲子園に出場した当時新進気鋭の高校という状況でしたが、高校では3年春の選抜大会で甲子園に出場しました。前回記事の萩原康弘選手のいた荏原高校と対戦して勝利し、その後に敗退しています。高校同期には、前々回記事の得津高宏選手がいました。

 

この高校時代に投手から捕手になったといいます。

 

高校卒業時に広島からドラフト指名を受けましたが拒否し、社会人の大昭和製紙へ進みました。
都市対抗に出たりして1年間を過ごし、高卒から1年遅れのドラフトに…、この時はかからず、1966(昭和41)年にドラフト外で大洋に入団しています。一度ドラフトにかかった選手が拒否し、翌年ドラフト外で入団するのは珍しいように思いました。

 

 

大洋初期

1967(昭和42)年、20歳になる年がルーキーイヤーでしたが、最初の3年間はひとケタ試合数しか出場しておらず、打席数も同様にひとケタが続き、ヒットの記録はありませんでした。

 

 

70年代前半

4年目の1970(昭和45)年から2ケタの試合数に出るようになり、この年は105打席に立ちました。正捕手を窺う…ではなくて、一塁や三塁などの内野手としての出場が多かったといいます。初安打を含む20安打、そして初本塁打を含む2本塁打11打点をマークしました。

大洋在籍末期も一塁手で出ていた事もあり、捕手として出られない時でも打力を生かして内野手として出場していたことがありました。

 

せっかく戦力になってきたというところでしたが、1971(昭和46)年からは出番が減り続け、ひとケタ安打の時期が3年間続きました。この期間中の1972(昭和47)年にそれまでの福嶋久から福島久晃へと改名をしており、ここで改名をしていなかったら、娘さんである福嶋晃子さんの名前も違うものになっていたかもしれないですね。

 

 

レギュラーを狙う時期

1974(昭和49)年がレギュラーを掴む足掛かりとなった年で、133打席に立ち27あんたで打率.211ながら4本塁打11打点と台頭してきた1970年の成績を少し上回るものでした。

しかし打率が低く、ここまでの8年間で最高の打率がこの時の.211で、2割を越えたのはこの時含め2回のみで、1割台が3回というものでした。

 

1975(昭和50)年は、これまでの殻を破るかのように101試合に出場し、264打席に立ち、251打数67安打打率は.267をマークし、2ケタの10本塁打29打点をマークし、それまでのレギュラーだった伊藤勲捕手を本格的に脅かす存在へとのし上がっていきました。

 

 

正捕手の時期

福嶋選手が大洋の正捕手といえる時期はほぼ1970年代後半で、彼のキャリアのピークがこのあたりの時期でした。

 

先輩の伊藤勲捕手を脅かしてレギュラーを奪い、伊藤選手と同年代で阪神からやってきた辻恭彦(=ダンプ辻)選手との競争も制する形でレギュラーを張り続けていました。

 

1976(昭和51)年からが本格的に正捕手を務めた期間で、規定打席にほんのわずか足りない400打席に立ち、現役生活唯一の100安打を記録し、打率.26618本塁打45打点と打棒を振るいました。この年にはオールスターにも初出場し、リーグを代表する捕手になっていこうという状況でもありました。

 

1977(昭和52)年はやや出番が減りましたが、それでも83安打13本塁打、打点はキャリアハイの50を記録しました。この年も2年連続でオールスターに出場し、30歳を迎えて脂の乗り切っていた、そんな感じでした。

 

1978(昭和53)年は大洋が横浜へ移転し、「横浜大洋」となった初年度でしたが、横浜スタジアム第1号本塁打を放っています。

そして現役生活で唯一の規定打席に到達しました。この時期くらいから彼の存在を知ったので、大洋の正捕手のイメージが個人的には強くありました。

打率.24993安打15本塁打46打点、試合数も118試合とすっかりレギュラーで、ただオールスターには出られませんでした。

 

1980(昭和55)年まで6年連続2ケタ本塁打と打力を見せ、キャリアハイの122試合に出場しました。

また34歳になる1981(昭和56)年までは同じく6年連続で300打席以上経ち、この辺りまでが実質正捕手で、1981年には3度目にして最後のオールスター出場も果たし、また通算1,000試合出場も果たしました。この年ぐらいまでが正捕手としての活躍期でした。

 

 

ライバルとの併用

1982(昭和57)年には日本ハムから加藤俊夫捕手が移籍してきてライバルが増え、翌1983(昭和58)年には少し年下の若菜嘉晴捕手が加入し、ライバルは増えていくばかりとなりました。ここにまだ40歳を迎えた辻恭彦捕手もまだ現役を務めていました。

 

1982年は通算100号本塁打を達成、この時35歳になっていましたが、6本塁打23打点をマーク、その後はかなり出番/数字を落とす事となります。

 

1983年からは完全に控えに回った格好で打点がひとケタとなり、1984(昭和59)年は一塁に回る機会が増えながら前年並みの出番で成績でしたが、この年限りで18年間在籍した大洋を退団しました。

 

 

最後の場所

1984年の大洋は、福嶋選手が退団しただけでなく、同じ捕手で42歳の選手、38歳の基満男選手も引退し、やはり同じ捕手の加藤俊夫選手もアキレス腱断裂で実質この年限りとなり、更にはエース平松政次投手や中継ぎの五月女豊投手や古賀正明投手の引退など、とにかく世代交代の顕著な年となりました。

 

福嶋選手はこれで終わりかと思ったら、広島東洋カープに拾われる格好で、1985(昭和60)年に移籍しました。ずっと大洋のイメージがある福嶋選手が、1年間だけ広島にいたことを知らない方は結構いるのかもしれません。

 

広島に来て代打を中心に序盤活躍し、サヨナラヒットを打った翌日の朝刊に、古巣への恩返しとして彼の記事が出ていたのを覚えています。

この年54打数15安打、打率.278で本塁打は0ながら8打点の成績を残し、この年限り38歳で現役を引退しました。

 

▼1985(昭和60)年広島移籍時の選手名鑑より

この年限りの在籍で、背番号は大洋時代と同じ「10」でした。

広島在籍時の彼の写真はレアだと思います。

コメントに「最後のひと花を広島で」とありますが、その通りになり、サヨナラヒットを打つなど最後の活躍を見せて、この年現役を去っていきました。

隠している部分は、住所や家族名など個人情報など当時普通に載っていたものでしたが、ここに福嶋晃子さん(当時11歳)の名前もありました。