思い出のプロ野球選手、今回は中沢伸二選手です。 

 

1970年代の強い阪急の正捕手として活躍した選手で、現役21年39歳まで務めた選手です。

 

【中沢伸二(なかざわ・しんじ)】

生年月日:1946(昭和21)年6月18日

入団:阪急('65・ドラフト前)
経歴:甲府工高-阪急('65~'85)

通算成績:1,359試合 打率.225 648安打 61本塁打 296打点 11盗塁

表彰:ベストナイン 2回('78、'82)、Gグラブ賞 1回('78)

節目の記録:試合-1,000試合出場('81.8.11)

オールスター出場 6回('74、'75、'78、'79、'82、'83)

 

●個人的印象

強い時代の阪急の正捕手、ですね。

厳密には当時の阪急はいろんな捕手がいて、その中で最も多く出ていたという感じで、規定打席に届いたのは一度だけでした。

阪急がV3を達成し、その時主力だった選手は1982(昭和57)年までにその多くが現役を引退する中で、これを乗り越えて大ベテランとして現役を続けていました。

1984(昭和59)年、阪急ブレーブスが毎年発行していた「イヤーブック」に、中沢選手のインタビューが載っていて、阪急V3時代の振り返りや、現在(当時)の若手の台頭などについてコメントが綴られていたのを覚えています。

山梨の田舎から高校を出てプロの世界に入って「いなかっぺ」から「カッペ」というあだ名がついた話も、ここで綴られていました。
 

●プロ入りまで

山梨県の甲府工業高校出身で、3年の春に選抜大会で1回戦敗退ながら甲子園に出場しています。

甲府工はプロ野球選手も何人か輩出していますが、歌手の田原俊彦さんもこの高校の出身です。

 

●出番なかった9年間

1965(昭和40)年に阪急に入団しましたが、これはドラフト前最後の年でした。

下の成績表を見ても分かるように、初期は実績がほとんどありませんでした。

 

最初の2年間は偵察要員か、打席に立ったことすらなく、5試合出場ですべての成績が「0」でした。

 

3年目1967(昭和42)年にようやく初めて打席に立ち、10打数1安打と初安打を放ち、打率.100という成績場初めて残った格好です。そのヒットを打った相手投手は後に阪急へ投手コーチとしてやってくる新山彰忠投手でした。

 

4年目1968(昭和43)年は37試合出場で、40打数8安打の打率.200を記録、この年初めて出場試合数<打席数、となりました。この年は初本塁打を放っています。

 

5年目以降は伸び悩み、9年目1973(昭和48)年まで安打数が1ケタどまりのままでした。逆に10本もヒットを打てないまま9年間現役を続けてこれたわけです。捕手にはありがちかもしれませんが。

 

この1973年までの9年間の通算成績は、190試合で136打数24安打で打率176、2本塁打8打点というものでした。ここまででこの成績なら、その後急激に伸びるとは思えないんじゃないか、と思います。つまりもうあきらめてしまうのでは…という事です。

 

●10年目のブレイク

10年目の1974(昭和49)年は彼にとってターニングポイントとなった年でした。

 

それまでは、彼が「神様みたいな人」という岡村浩二捕手がレギュラーを張っていて、またその岡村捕手とのトレードでやってきたのが種茂雅之捕手で彼もまたレギュラーとして東映から阪急へ移籍しても活躍しました。その為、なかなか出番が巡ってこず、この年ようやく種茂選手からレギュラーを奪い、この年種茂選手は出場機会が激減、翌年は一軍なしで引退しました。

そしてこの年はいきなり、113試合に出て343打席に立ち、302打数69安打と、それまで9年間の累計実績をはるかに上回る成績を1年で残しました。打率は.214でしたが、7本塁打41打点と活躍、9年間ほとんど実績のなかった選手が初めてオールスターにも出場し、初めて戦力らしい戦力になった、と実感したと思います。

 

●阪急V3時代

1975(昭和50)年からの3年間は阪急が連続日本一に輝いた「絶頂期」でした。この年は2年連続で300打席を越え、前年並みの67安打で打率.247はこの時点までで最高でした。また2年連続でオールスターにも出場しました。

 

翌1976(昭和51)年は30歳になりましたが、ライバルといえる河村健一郎捕手が先発を務めることが多くなり、少し出場機会を減らしました。1977(昭和52)年はさらに出番を減らしますが、それでもチームの捕手では最多出場でした。

そんな強い阪急で、盤石のレギュラーではなかったものの、あくまで正捕手として勤め上げてきました。

 

●ベストナインとGグラブのダブル受賞

1978(昭和53)年は阪急のV4こそなりませんでしたが、リーグ優勝は4年連続で達成しました。

この年からは3年連続で300打席以上に立ち正捕手の座にあり続け、特にこの年は規定打席に到達しなかったにもかかわらず、ベストナインとGグラブ賞のダブル受賞を成し遂げました。

 

●絶頂期

中沢選手はかなり下積みが長かった訳ですが、その絶頂期は1980年前後といってよいでしょう。

先の1978年のダブル受賞もですし、1979(昭和54)年は33歳で自己最多の8本塁打、翌年も同数を放っていました。

 

1981(昭和56)年は欠場試合が多く、後輩の笹本信二捕手がマスクを被ることが多く、既に35歳になっており、V3を共に過ごした同世代のベテランたちもかなり出番を減らした選手が出てきていました。

 

しかし1982(昭和57)年、18年目36歳にして初の「規定打席到達」を達成しました。

打率はそれまで2割4分にも達したことのない低打率で推移し続けてきましたが、この年の初にして唯一の規定打席到達で、ナント.302をマークしました。

安打も唯一100安打を越え101安打を記録、ホームランも唯一の2ケタ11本を記録し、彼の代名詞的に言われる「恐怖の九番打者」といわれる大活躍でした。

 

●晩年~引退

1983(昭和58)年は37歳を迎え、さすがに前年のような大活躍はできず、また数字を落としてしまいますが、それでもまだ阪急捕手陣では第一人者的存在でした。

 

1984(昭和59)年、若手の藤田浩雅捕手が台頭し、新人王を獲得する大活躍を見せ、明らかにチームの主力が塗り替わっていく状況で、中沢選手の出番は減り、後輩に譲るようになっていきました。

1985(昭和60)年、藤田選手が一本立ちするのを見届けて39歳で引退しました。

 

この時チーム最年長で、阪急一筋21年、派手な成績は残していないものの、強い時代の阪急の正捕手として確かに一時代を築いた選手でした。

 

 

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