思い出のプロ野球選手、今回は大熊 忠義選手です。

 

阪急黄金時代にレギュラーとして活躍し、福本豊選手と1・2番コンビを組んで、福本選手の多くの盗塁をアシストした事で有名な選手でした。

 

【大熊 忠義(おおくま・ただよし)】

生年月日:1943(昭和18)年9月8日
経歴:浪商高-近大中退-阪急('64~'81)

通算成績:1,423試合 打率.260 1,073安打 101本塁打 412打点 63盗塁

表彰:Gグラブ賞 1回('77)

オールスター出場 1回('76)

節目の記録:出場-1,000試合出場('75.8.17)
      安打-1,000安打('77.10.7)

      本塁打-100号('79.9.19)

 

 

●個人的印象

阪急が強かった昭和50年代前半に活躍していた外野手で、内野のレギュラーだった「大橋」穣選手と名前的に混同していました。何せ小さい頃に、あまり見る機会のないパ・リーグの選手だったもので。

 

●生粋の関西キャリア

高校は浪商で、大学は近畿大学、そして阪急とその球歴はすべて関西に終始しています。コンビを組むことになる福本豊選手もそうですが、バリバリの大阪人(阪急の本拠地は兵庫県西宮市ですが…)として球界でのキャリアを積んできた訳ですね。

 

●大学中退で入団

高校時代は浪商で優勝メンバーとして活躍し、近大ではプロアマ規定の抵触が問題視された事もあり、自身の退学を選択する事となり、大学中退の状態で阪急へ入団する事となりました。大卒で入っていればドラフトにかかったかもしれませんが、そうでなかった事もあり、ドラフト以前の入団となりました。

 

●出番に恵まれず

大学を中退してまでプロ入りしましたが、すんなりとレギュラーとはいかず、1年目1964(昭和39)年は2安打のみ、2年目の1965(昭和40)年は無安打に終わりました。

大卒初年度に相当する3年目の1966(昭和41)年になって、ようやく初打点と初本塁打を記録しましたが、翌1967(昭和42)年はチームが初優勝した年でしたが、0本塁打1打点のみと優勝の戦力にはなれず、4年間は殆ど実績を残せないままでした。

 

●5年目の躍進

入団後4年間でわずか19安打、2本塁打5打点という寂しい実績でしたが、転機は5年目の1968(昭和43)年に訪れました。

当時レギュラーで出ていた外国人の故障の穴埋めとして抜擢され、ここで活躍した為そのままレギュラーに留まる事ができ、初の規定打席に到達、打率.285に15本塁打37打点と一躍主力の座に躍り出てて、チームの優勝にも貢献しました。

翌1969(昭和44)年も規定打席に到達し、打率は.263ながら12本塁打39打点の成績でこの年も優勝に貢献しました。

 

●福本選手のアシスト

1970(昭和45)年はチームは優勝を逃しますが、この年から前年入団した福本豊選手が盗塁王を獲得(以後1982年まで13年間連続で)し、この年はわずかに規定打席に届きませんでしたが、以後「福本のアシスト」役としての側面が注目されるようになります。

1971(昭和46)年は初の3割クリア(.307)をマーク、これが規定打席3割越え唯一の機会となりましたが、規定打席到達と未達は何度か繰り返しながらも、1972(昭和47)年まで5年連続で2ケタ本塁打を記録しました。

福本選手へのアシストという面では、近大の後輩にあたる南海・藤原満選手が既に使っていた、重い「ツチノコバット」を借りて使っていたところ、福本選手がいいなと思ってもらい受けた話があり、最近福本氏がYou Tubeでツチノコバットを使うようになった経緯として話していました。そうしよう思った訳ではありませんが、結果的に福本選手の活躍(打力を磨くという意味での)を後押しする事となりました。

 

●強い阪急の2番打者

1973(昭和48)年からは本塁打は1ケタが続きますが、翌1974(昭和49)年からは4年連続で犠打数2ケタを記録し続けます。

福本選手が塁に出ると、次の打者として登場し福本選手の盗塁をアシストする事もあれば、その福本選手が盗塁して2塁へ進んだ状態では、ここから送りバントをすれば、福本選手は3塁へ到達するので、1アウトまでなら「犠牲フライでも1点取れる」という図式が当時の阪急にはありました。

 

●V3の時代

1975(昭和50)年からの阪急の3年連続日本一の期間中はすべて規定打席に到達し活躍を続けました。1975年は通算1,000試合出場を達成し、1976(昭和51)年には入団13年目33歳になる年で初のオールスター出場を果たし、1977(昭和52)年には34歳で初のGグラブ賞を獲得し、通算1,000安打も達成しました。

入団当初芽が出るまでに時間がかかりましたが、遅咲きというか大器晩成というか、30歳を越えて様々に栄誉に輝く機会も出てきました。

 

●晩年

阪急V3最終年の1977年が最後の規定打席到達となりますが、翌1978(昭和53)年にはロッテ村田兆治投手から頭部死球を受け大怪我をし、これが引退の遠因になったといわれ、また当時売出し中で新進気鋭の簑田浩二選手へポジションを明け渡す事にもなりました。

その後は毎年のように成績が半減する形で出番も減らしていく事となり、本塁打はこの年以降3年連続で1本ずつとなり、また翌1979(昭和54)年からはコーチ兼任となり、この年には通算100号本塁打をマークしましたが、翌1980(昭和55)年に最後のホームランを放って通算101本が通算成績となりました。

 

1981(昭和56)年も現役を続けましたが、試合に出る事は無く引退は決まっていたようですが、元の恩師にあたる西本幸雄監督が率いる近鉄のラストゲームとなる対戦で、1試合だけ守備について出場し、自身の現役生活も38歳で終える事となりました。

 

 

その後は阪急、阪神などで長年コーチを務め、現役時代コンビを組んだ福本氏と同様に阪神寄りの緊急OBになったかな、という感じでした。

 

 

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