思い出のプロ野球選手、今回は「渡辺 秀武」投手です。
V9巨人の中心投手として活躍し、実に5球団にわたり活躍を重ね40歳を過ぎるまで現役を続け「メリーちゃん」の愛称で親しまれた投手です。
【渡辺 秀武(わたなべ・ひでたけ)】
生年月日:1941(昭和16)年9月16日
没年月日:2007(平成19)年8月25日(65歳没)
経歴:富士高-本州製紙-日本軽金属-巨人('63~'72)-日拓・日本ハム('73~'75)-大洋('76~'77)-ロッテ('78)-広島('79~'82)
通算成績:606試合 118勝100敗8S 2,083 2/3投球回 76完投 18完封 1,041奪三振 防御率3.35
記録:ノーヒットノーラン 1回('70.5.18) ※二軍でも達成。両方達成は史上唯一
オールスター出場 2回('70、'71)
節目の記録:勝利-100勝('75.7.27)
登板-500試合登板('79.7.4)、600試合登板('81.9.20)
三振-1,000奪三振('80.5.3)
●個人的印象
「広島のベテラン中継ぎ投手」ですね。
今回調べていて、こんなに多数の球団を渡り歩いていた投手だとは思いませんでした。いくつかの球団にいたであろうことは知ってはいましたが、5球団に在籍していたなんて、というところです。
40歳近い大ベテランで派手な活躍をしていた訳ではなく、また背番号も大きめ(36)でしたが、その存在は現役当時から記憶にあり、いかつい雰囲気だった印象が朧げにありました。そういうのもあって、弱気なところから「メリーちゃん」のあだ名がついた投手とは思えませんでした。
●入団は巨人
下の成績表を見て、後半はかなり短期で色んな球団を渡り歩いていましたが、キャリア前半は巨人で割と長く過ごしていたのが分かります。
なので、入団は巨人でした。
高校を卒業後に社会人のチームを2つ経て、都市対抗に補強選手で出ていた1963(昭和38)年8月に巨人へ入団しています。
●初期
入団した1963年は出番がなく、2年目1964(昭和39)年に初めて一軍に上がり、15試合でうち11試合に先発し、2勝5敗で防御率5.16という成績でした。
3年目1965(昭和40)年はわずか5試合で10回1/3のみで1勝0敗と、最初の3年間でわずか3勝でした。ちなみにこの年は巨人V9の最初の年であり、優勝に貢献したとは言いづらい状況でした。
●常勝巨人戦士
ここまではパッとしない状況でしたが、25歳になる1966(昭和41)年、当時のスター選手であった杉浦忠投手のマネをしてアンダースローで投げていたところ、後に巨人監督となる藤田元司コーチの目に留まり、アンダースローへ転向したところ、ここでブレイクしてこの年13勝6敗といきなり初の2ケタ勝利を挙げました。前年に移籍してきた金田正一投手のストイックぶりに多大な影響を受けた面も大きい、といわれます。
以後は常勝巨人の主戦投手として活躍、巨人では実に6度も2ケタ勝利を挙げており、これがV9の真っ只中であった事を考えると、巨人の常勝ぶりに多大に貢献した投手といえます。
その2ケタ勝利も10勝そこそこがほとんどでしたが、1度だけ1970(昭和45)年に実に23勝を挙げ、まさに大ブレイクでした。残念ながら最多勝は25勝を挙げた平松政次投手(大洋)に奪われましたが、この年は「ノーヒットノーラン」を記録しています。
わずか1勝に終わった1968(昭和43)年には二軍でノーヒットノーランを記録しており、一軍二軍の両方でノーノーを達成しているのは、長いプロ野球の歴史でこの渡辺投手ただ一人であるといいます。
この1970年が彼のキャリアのハイライトといえ、この年初めてオールスターゲームにも選出され、翌1971年と2回出場しており、ある意味絶頂期だったといえます。
●流浪のはじまり
そんな巨人でコンスタントに2ケタ勝利を挙げていた渡辺投手、1972(昭和47)年も10勝を挙げ、巨人V8となったところでしたが、1973(昭和48)年に東映の高橋善正投手と交換トレードとなり、当時変更になったばかりの「日拓ホーム」フライヤーズへ移籍する事となりました。
東映から「日拓」へ球団が譲渡され、この年限りであった日拓へ移籍したというレアな経験をしていますが、ここでもこの年11勝14敗の成績で先発の一角で活躍しました。
翌1974(昭和49)年から球団が「日本ハムファイターズ」となりましたが、以後は成績が伸び悩みこの年は4勝6敗1S、翌1975(昭和50)年は5勝8敗と、この年は通算100勝を挙げながらも、34歳を迎えた事もあってか成績が落ちるようになってきました。
●さらにめまぐるしく
日拓から日本ハムまで3年間在籍後、1976(昭和51)年から大洋へ移籍します。
初年度は3勝7敗1Sで翌1977(昭和52)年は開幕投手を務めながら12試合で1勝0敗、防御率は10点を越え、この年36歳で限界だったと見る向きもあったと思います。
大洋を2年間で終わった後、またもトレードで今度はロッテへ移籍、実に4球団目となりました。
当時ロッテは自身が大きな影響を受けた金田正一氏が監督で、43歳の大ベテラン野村克也捕手がいた年でした。当時渡辺投手が37歳になる年で、野村氏とバッテリーを組むと計80歳という高齢ぶりでした。
そんな中で、ほとんどを中継ぎまたは抑えで過ごし36試合登板で5勝3敗2Sの成績を挙げ、日本ハムから勝利を挙げれば「全球団から勝ち星」を挙げるところでしたが、どうしても日本ハムからは白星を挙げられず、未完に終わっています。今みたいに交流戦が無かったので、当時この記録はすごくレアなもので、セパ両方に2球団以上在籍する事がまず前提であり、達成者は誰一人いなかったので、彼がその最初になるところでしたが、残念ながら叶いませんでした。
●最後の地
日本ハムは3年、大洋は2年、ロッテは1年と、だんだん在籍間隔が短くなっていく状況でしたが、広島・古葉竹識監督に熱心に請われて、広島東洋カープへ移籍となりました。この時ロッテからは同じベテランの金田留広投手も一緒に移籍しています。
カネやんの弟と多大な影響を受けた渡辺投手と、当時金田監督がロッテを退任した影響が大きいのだろうなと想像しますが、38歳になるこの1979(昭和54)年に実に5球団目、最後の球団となる広島へ移ってきた訳です。
●優勝に貢献
巨人V9時代に主力投手として多くの白星を重ねてきた渡辺投手でしたが、移籍を重ねるごとに先発機会が減っていき、広島では初年度の1試合のみ先発で、あとはいわゆるセットアッパー的な役どころで活躍してきました。
この年と翌1980(昭和55)年の2年連続日本一に貢献し、1979年は47試合で2勝1敗2S、1980年は42試合で3勝1敗2Sと活躍しました。
しかも、いずれも防御率2点台という素晴らしさで、当時絶対的守護神である江夏豊投手がいる状況でもセーブを挙げており、39歳になった80年も大活躍で、巨人時代以来縁のなかった優勝、更には日本一と大きな貢献をする事となりました。
それまでの目まぐるしい移籍で優勝と無縁で、という状況を考えるとこの2年はここまでの苦労も含めて大きな花が咲いたのではないかと想像します。
●最年長そして引退
40歳を迎える1981(昭和56)年も43試合で1勝1敗、防御率2.89と連続日本一の時期と変わることなく活躍を続け、通算600試合登板もクリアしもはや鉄人の域でした。当時は1つ年上の王貞治選手が前年に引退し、投手でも阪急・足立光宏というやはり年上の投手が前年に引退、球界最年長選手だったと思いますが、この活躍ぶりはすごかったと思います。現役時代を知っていながら、ここまでの活躍ぶりを知らず、今回調べて改めて素晴らしさを感じました。
1982(昭和57)年は、わずか3試合の登板に終わり41歳で引退しました。自身が入団した昭和38年生まれの投手が自身を救援しに来た事で、引き際を感じたといいます。
しかしここでも「見せ場」をつくっており、当時ある日本記録に挑戦していました。それは…「与死球」です。
つまり、デッドボールを与える=相手に球をぶつけるという、奪三振のような「抑える」記録とは逆の性質のものでした。
下の成績表にはタイトルとなるようなマークは見受けられませんが、ひとつだけ帯のついた「最多記録」があり、これが与死球ででした。この日本記録を彼は「狙って」獲りにいきました。
古葉監督に申告し、戸惑われながらも敢行、なかなかぶつけられずに苦労の末達成したといいます。(後に東尾修投手が記録を更新)
今ではちょっとありえないと思いますが、狙ってデッドボールを投げていたといいます。ハートの弱いといわれた「メリーちゃん」にとって彼なりの武装だったのでしょうか。
狙ってデッドボールといってもただぶつけるわけではなく、相手にボールに対する恐怖心を与え勝負を有利にするという要素があり、これも今では通用しないと思いますが、当時の一流打者は「ぶつけられる前提」で打席に立っていたという話を聞くと、今とは全然違う状況が感じられました。
引退後はスカウトを中心に活躍し、2007(平成19)年に65歳の若さで亡くなられていますが、改めて巨人主戦投手から数々の放浪を経て、広島優勝に貢献したセットアッパーで40歳をすぎるまで一線で活躍した渡辺投手の栄誉を讃えたいと思います。