思い出のプロ野球選手、今回は福富 邦夫選手です。

 

頭上でバットをくるくる回してスイングする「円月殺法」と呼ばれる打法をトレードマークに活躍した選手です。

 

【福富 邦夫(ふくとみ・くにお)】

生年月日:1943(昭和18)年5月23日
経歴:広陵高-神奈川大中退-サンケイ・アトムズ・ヤクルト('65~'72)-太平洋('73~'74)-ヤクルト('75~'80)

通算成績:1,616試合 打率.255 1,076安打 89本塁打 425打点 70盗塁

オールスター出場 1回('71)

節目の記録:出場-1,000試合出場('73.9.2)、1,500試合出場('79.5.13)

      安打-1,000本安打('78.4.8)

 

●個人的印象

伊勢孝夫選手などと同じく「ヤクルトのベテラン選手」です。

前回記事の船田和英選手とは対照的にふっくらしたイメージをぼんやりと持っていましたが、体重はそんな重い選手ではなかったようですね。

 

あと、ヤクルトの背番号7で最初に認知したのは、彼の後に引き継いだ渡辺進選手だと思っていましたが、そういえば彼が7をつけていた印象もあるな…と後付けっぽいですが、なんとなくはそんな記憶もある、、気がしています。

 

ヤクルトの前身サンケイに入団し、ヤクルトで引退していますが、間に「太平洋」にいたなんて、後から調べて知りました。

 

●広島県出身~入団まで

昭和18年生まれで広島市出身、原爆投下は山の陰にいた為逃れたといいます。

高校は名門・広陵高校で、夏の甲子園には県の決勝まで進むももう一歩のところで甲子園進出を逃しています。

大学は神奈川大学という、東京の大学ではありませんでしたが、全日本の選手権大会にも出場し注目されたといいます。

1943年生まれで1965年にプロに入っていますが、大学を中退して入団したもので、大学4年時に当たる年にプロに入り活躍を始める事となりました。

 

●サンケイに入団

ヤクルトの前身である「サンケイ」に1965(昭和40)年に入団し、この年は「ドラフト制度」の始まる前の最後の年でした。

新人の年で109試合に出場し、246打席に立ち、53安打を放っています。2本塁打12打点とこの点はまだまだでしたが、即戦力としてデビューした事が窺えました。

 

3年目1967(昭和42)年までは足踏み感がありましたが、4年目1968(昭和43)年にブレイクし初めて規定打席に到達、打率.292をマーク(規定打席到達した6回中最高の打率)しました。本塁打も初めて2ケタ10本にのせました。

この年から1971(昭和46)年までの4年間が彼の成績のハイライトといってよいかと思いますが、4年連続で「規定打席到達」「100安打以上」「10盗塁以上」をマークしています。晩年の代などのイメージが強い自分にとっては、こんな主力でバリバリ活躍していた時期があったとは…すごく意外感がありました。1971年には唯一のオールスターゲームにも出場しています。

 

●太平洋のみに在籍

1972(昭和47)年に5年ぶりに規定打席未達に終わると、1973(昭和48)年に金銭トレードで「太平洋」クラブライオンズへ移籍となりました。

太平洋はこの年に、西鉄の消滅を受けて創設となり、1976(昭和51)年までの4年間存在していましたが、彼はその「太平洋」時代のみライオンズに所属していた、珍しい選手です。

その太平洋では前年の不調から復活し、在籍した2年間は共に規定打席に到達していました。1973年には通算1,000試合出場を果たしています。

しかし、太平洋在籍最後の1974(昭和49)年を最後に規定打席到達する事は無くなりました。

 

●ヤクルト復活

太平洋に移籍時は、既にヤクルトの名前になっていましたが、1975(昭和50)年はトレードでヤクルトへ3年ぶりに復帰しました。

ここからは規定打席に達する事はなく、また活躍したのも隔年という感じで、峠を過ぎた感はありましたが、そんな中で長く現役生活を続けていました。

 

サンケイからヤクルトへの時期は、球団としてもまだ優勝経験がなく、西鉄を身売りした後の太平洋にも優勝を争えるだけの戦力がなく、優勝とは無縁のキャリアを重ねてきましたが、35歳になった1978(昭和53)年に初めてチームが優勝し、日本一も経験しました。

この年はヤクルト復帰後の隔年活躍では、活躍できなかった方の年になりますが、日本シリーズではすべて代打での出場で、これが最初で最後の日本シリーズ経験でもありました。またこの年は通算1,000本安打も記録しています。

 

最後の花と言えるのが1979(昭和54)年で、102試合に出て202打数54安打の.267で、8本塁打29打点の成績を残しています。当時の36歳での記録としては高い方だったと思います。

 

1980(昭和55)年に37歳で引退し、出番もほとんどなくなっていて厳しい数字でしたが、当時のベテラン船田和英(当時38)、伊勢孝夫(当時36)の各選手と共に現役を去る事となりました。この当時で30代後半の選手がこれだけいた球団も珍しかったと思います。当時の監督であった武上四郎氏(当時40)に近い年齢で、その後は確実に世代交代が進められる事となりました。

 

ヤクルト初優勝時を支えたベテランの一人として認知していた選手でしたが、その昔はレギュラーだったとは…とか、途中パ・リーグにいたとは…という感じで調べてみて驚きでした。

 

 

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