思い出のプロ野球選手、今回は島野 育夫選手です。

 

現役引退後指導者としてのキャリアの方が有名かもしれませんが、あの星野仙一監督の名参謀役として有名な存在でしたが、現役時代は俊足・強肩でならした選手でした。

 

【島野 育夫(しまの・いくお)】

生年月日:1944(昭和19)年3月30日

没年月日:2007(平成19)年12月15日(63歳没)
経歴:作新学院高-明電舎-中日('63~'68)-南海('68途~'75)-阪神('76~'80)

通算成績:1,466試合 打率.242 733安打 24本塁打 211打点 251盗塁

表彰:Gグラブ賞 3回('73~'75)

節目の記録:出場-1,000試合出場('74.7.13)

 

●個人的印象

まずは幼少期のこの選手に対する印象ですが、「阪神のベテラン選手」代打や守備要員なんかでよく出ていた気がします。その頃はもう現役末期であり、あまり出番もなかったようですが、先発よりも途中出場で彼の名前をよく聞いたような気がします。現役時代の印象は正直そのぐらいなものでした。

 

●入団は中日

リアルでは阪神時代しか知らなかったので、入団が中日だったのは後から知りました。

新人の1963(昭和38)年は1試合出たのみでしたが、徐々に出場機会を増やし、3年目1965(昭和40)年は99試合、翌1966(昭和41)年は104試合に出場し、それだけ見るとレギュラーを獲ったのかなと思いましたが、打席数は100台で結局控えとしての出場が主になっていたものでした。

中日ではずっと、この状態が続いたままでレギュラーになり切れずに控えとしての出場に留まっていました。

 

●南海で花開く

1968(昭和43)年のシーズン途中に中日からトレードで南海へ移籍しました。

6年目24歳のシーズンでした。

この年の成績は合算されていますが、殆どが南海移籍後の内容です。

 

そして、この移籍は吉と出て、翌1969(昭和44)年にブレイクし、チームは最下位でしたが、初めて規定打席に到達し、それまで年間30安打を3回記録するほどのレベルである意味安定してしましたが、この30安打が最高でした。それをこの年は101安打を記録し、盗塁も初めて20を越え(21個)ました。

その後は先日亡くなった門田博光選手の入団・台頭があり、再び控えに戻る事になりますが、野村克也兼任監督のもとでチームが優勝した1973(昭和48)年に打数559を記録し、優勝した南海のリードオフマンとして活躍した事が分かります。

 

現役時代を通して「タイトル」の獲得こそありませんでしたが、この打数でリーグ最多を記録し、安打もキャリアハイの141を記録し、最良の年となりました。しかもこの年は実に61盗塁を記録し、本来なら盗塁王も獲れた数字でしたが、当時は阪急・福本豊選手の全盛期で残念ながらタイトル獲得はなりませんでした。

 

1974(昭和49)年も2年連続で規定打席に到達し、同じく100安打も2年連続でクリアし、盗塁は30に半減したもののレギュラーとして活躍し、規定打席に到達した最後でしたが、その3度のうち最高の打率.274を記録しました。

翌1975(昭和50)年は規定打席に惜しくも「1」足らずに未達となりましたが、この1973~75年という29歳から31歳までの3年間が彼のキャリアのピークともいえる時期で、この期間3年連続でGグラブ賞を受賞しています。タイトルはないものの、表彰といえるものとしてはこの賞の受賞が光ります。

 

●阪神へ

そんなレギュラークラスの活躍を続けていた中で、阪神へのトレードが通告されました。32歳になった1976(昭和51)年からタイガースの一員となったわけですが、あの江夏豊投手が交換で移籍となり、江本孟紀投手や池内豊投手など阪神で戦力になった投手陣と共に阪神へやってきました。

阪神時代は自分が唯一知る彼の現役時代のキャリアでしたが、それまでのようなレギュラークラスでは出場できず、そこそこ出ていたのは1978(昭和53)年に200近い打席に立っていたくらいで、他はすべて打席数は100以下でした。

1979(昭和54)年以降になると打席数が顕著に減りましたが、しかし試合には出ていました。打席はわずか14で、12打数3安打のみでしたが、43試合に出場し14盗塁を記録しています。代走で入り守備固めが多くなってきたと思いますが、少ない出番の中で35歳にして14盗塁は素晴らしいと思います。

 

●ラストイヤー

1980(昭和55)年はコーチ兼任となり、35試合に出て打席は「0」の為、打率の記録は残っていませんが、盗塁6個を記録し得点は15を記録しています。やはり代走での起用が多かったのかなと思いますが、36歳にしてこのポジションで活躍を続けたのも素晴らしい選手であり、コーチ時代以降の暴力沙汰や星野監督の名参謀ぶりが注目されましたが、選手としては派手な数字は残っていなくても、渋く長く活躍を続けてきた選手だったんだな、とこれを書くにあたりつくづく感じました。

引退後のキャリアが注目されましたが、現役生活も実に18年間過ごしており、この1980年限り36歳にして引退しました。

 

前回記事の伊勢孝夫選手も名コーチとして長年勤めていた事もあり、(島野選手と共通して)そこそこ現役選手として活躍しながら、画像検索してもコーチ時代の写真が殆どで、現役時代の姿を探すのに苦労しました。

数字を見ていて本塁打は24とかなり少なかったですが、盗塁は実に251を記録していて、これは歴代45位の素晴らしい記録で、広島の野村謙二郎選手や阪急・簑田浩二選手とほぼ同等の数字です。

 

 

●優勝経験

入団した中日では2位と6位しか経験した事が無いという不思議な経歴となっており、その後の球団が南海と阪神という優勝と縁の薄い球団に所属していた事もあり、優勝経験は南海時代の1973年の1度きりでした。

しかしその年に生涯最高の成績を挙げる事が出来たのは、本当に良かったなと思います。

 

 

この記事では現役時代のキャリアにフォーカスしているため、引退後の事はあまり書きませんが、やはり星野監督とのツーショットが一般には印象的だなと感じます。

晩年病に苦しみ2007年に63歳の若さで亡くなられましたが、星野氏が約10年後に追う形で亡くなられ、ひとつの時代が過ぎた事を感じました。