思い出のプロ野球選手、今回は足立 光宏投手です。

 

下手投げの「サブマリン」として長く君臨し、阪急ブレーブス一筋で通算187勝を挙げた大投手です。

 

【足立 光宏(あだち・みつひろ)】

生年月日:1940(昭和15)年3月10日
経歴:大阪市立西高-大阪大丸-阪急('59~'80)

通算成績:676試合 187勝153敗3S 3,103投球回 141完投 36完封 1,482奪三振 防御率2.91

タイトル:最優秀防御率1回('67)

表彰:MVP1回('67)、ベストナイン1回('67)、Gグラブ賞4回('72、'74~'76)

記録:オールスター出場6回('64、'66、'67、'71、'72、'76)

節目の記録:勝利-100勝('71)、150勝('75)

      三振-1,000奪三振('71)

      500試合登板('72)、600試合登板('75)

 

●阪急のサブマリン

といいえば、山田久志投手が真っ先に思い浮かぶ方が多いと思いますが、元祖はこの足立投手です。山田投手がすごすぎたのと、一世代前の選手なので世間的な知名度は山田投手の方がありますが、「山田の前を走る」投手でしたし、彼らが同一チームで共存していた時期もありました。

 

阪急で通算187勝を挙げた大投手でありながら、阪急には同世代に「ヨネカジ」という黄金のコンビが同世代にいて、米田哲也氏は(阪急のみで)338勝、梶本隆夫氏も254勝を挙げているという、凄まじすぎる実績のおかげでかなり霞んだものに見えてしまいます。山田久志氏も284勝で、彼らよりも大きく数字は落ちますが、それでも187勝というのは素晴らしすぎる、輝かしい実績と言えます。

リアルタイムで見ていた頃は、もうかなりの大ベテランでしたが、強かった阪急黄金時代の主力として活躍していました。

 

1980(昭和55)年まで現役として在籍し、同年引退した王貞治選手より学年でひとつ上になる為、どれほどのベテランであったかが窺い知れるかと思います。

個人的に、ハッキリと現役時代を覚えている「投手」で最高齢の選手だと思います。選手だと昭和10年生まれの野村克也氏の現役時代を覚えていますが、投手ではっきり覚えているのは足立投手でした。

 

●西本監督と共に

1年目1959(昭和34)年から一軍で普通に使われ、成績が伴わないながらも4勝7敗を記録、2年目1960(昭和35)年も同じ星勘定となりました。

3年目1961(昭和36)年は1勝4敗、出番も減りましたが、4年目1962(昭和37)年に1試合17奪三振を記録し、8勝4敗ながら防御率1.96で本格的に台頭しました。

 

西本幸雄監督が就任した1963(昭和38)年から本格的に出番が増え、6勝18敗の大負けでしたが、防御率3.45で、初めて規定投球回に達し、ここから右肩上がりで成績を上げ始めていきました。

初めての2ケタ勝利はその翌年1964(昭和39)年で、ここで13勝15敗の記録を残しましたが、その後15→17→20勝と4年連続で前年の勝ち星を上回っていきました。

 

●最高の'67

彼の成績を見る限り、ベストシーズンは1967(昭和42)年、27歳の時でした。

通算187勝を挙げながら、意外にも20勝はこの年1回だけで、2ケタ勝利は9度も挙げており、勝ち星は時期によりムラがありますが、ある程度のシーズンを主力で投げた証だと思います。

20勝を挙げても最多勝には届きませんでした(最多勝は西鉄・池永正明投手の23勝)が、防御率はナント1.75という素晴らしさで、彼自身唯一のタイトルとなる「最優秀防御率」を獲得しました。

そして何よりもこの年は、阪急が初めて「優勝」を成し遂げた年でした。

優勝した時にピークの成績を挙げて、唯一のタイトルが獲れたというのは、両手どころではないレベルでの「華」というものですね。

この年は唯一の「MVP」に輝き、そしてまた唯一「ベストナイン」も受賞と、ノリにノッていたとはまさにこの事かな、というところでした。

そんな栄冠にまみれた1967年のシーズンでした。

 

●試練のとき

そんな絶頂期の足立投手でしたが、1967年に20勝を挙げた翌年は大きな期待が寄せられるところですが、翌1968(昭和43)年はケガもあり一転0勝、プロ入り初の未勝利に終わりました。

わずか5試合の登板で、0勝0敗。18㌄を投げただけでした。

翌1969(昭和44)年も故障があり2勝1敗のみ。2年間完投も0という時期を過ごしました。この2年間チームは優勝していましたが、シーズンよりも日本シリーズでの活躍の方が目立ったぐらいでした。

この年は後輩のサブマリンにして強力なライバルにもなる山田久志投手が入団し、さぞや心境的に追い込まれたのではないか、と思います。

その山田投手が台頭してきた1970(昭和45)年は、それまでの球威が衰えた事を認識してシンカーを覚えて再生を図りました。後に山田投手も同じような形で武器としていくシンカーでしたが、彼に教えを請われてもアドバイス程度しかしなかったそうで、内心は彼にこれ以上活躍される事をかなりの脅威と感じていたようですね。

 

●30歳をすぎての復活

1971(昭和46)年には4年ぶりの2ケタのしかも19勝を挙げて華麗に復活しました。昔の投手なら30歳を過ぎると…という感もありましたが、31歳のシーズンでまたぐっと数字を上げてきました。

1972(昭和47)年も16勝で、また2年連続で優勝し、この時期も主力で活躍を続けていきました。

1973(昭和48)年は4勝と低迷するものの、1974(昭和49)年に10勝を挙げて34歳で再度復活しました。

 

●ついに日本一!

そして1975(昭和50)年、これまでチームはリーグ優勝こそ5度も経験し、そのすべてを体験してきましたが、当時無敵の「V9巨人」に阻まれて「日本一」になる事がどうしてもできませんでした。

実に6度目の正直で、ようやくやはり初のリーグ優勝に沸いた赤ヘル軍団の広島東洋カープを日本シリーズで破り、悲願の日本一を達成しました。日本シリーズは3試合投げたもの勝ち負けなしでした。

 

●最後のピーク

その後「阪急黄金時代」を迎え、1977(昭和52)年まで3年連続日本一に輝き、1978(昭和53)年までは4年連続リーグ優勝を果たすというまさに「強い阪急」の時代にも現役で投げ続けていました。

1976(昭和51)年は36歳で17勝8敗1Sを挙げ、V9時代に勝てなかった巨人を相手にようやく勝利し、宿敵ジャイアンツを倒しての日本一を掴み取りました。

といっても当時の巨人は往時の勢いがなく、V9戦士が高齢化して残った選手で戦っていたようなもので、長嶋氏は引退して監督となり、他の主力も軒並み30代という状況だったので、かつての宿敵感は薄れていたのかもしれません。

翌1977(昭和52)年は4年ぶりに1ケタ7勝に終わり、76年の17勝が最後の2ケタ勝利となりました。この年もやはり巨人との日本シリーズを制してV3達成となりました。

 

76年か77年か忘れましたが日本シリーズの動画を見る事ができ、その時の阪急の投手は山田久志、山口高志、そして足立光宏というほぼこの3人だけが投げていた感じでした。先発も抑えもないので、ただでさえフル回転でしたが、それにしても他にピッチャーいないのか、ってぐらいでした。

 

●V3のあと

1977年にV3を達成した強い阪急でしたが、1978(昭和53)年は、やはり初優勝したヤクルト相手に日本シリーズを戦い、疑惑のホームランと言われた中1時間以上の猛抗議を経て敗れ、遂に日本一は途切れました。シーズンは4勝に終わり限界も囁かれつつありましたが、日本シリーズでは以前から好投していました。

シーズンよりも日本シリーズに照準を当てていた年が何度かありましたが、この年もそうでした。38歳のシーズン(早生まれにつき39歳の学年)ながら、完封勝利を挙げたり、また先の疑惑のホームランを打たれたのも彼でした。1時間以上の抗議は守備陣に悪影響を与えたか、結局は敗因のひとつともいわれました。

 

1979(昭和54)年からは遂に優勝から遠ざかる事となり、彼もこの年4試合に投げただけで0勝に終わりました。コーチ兼任もありましたが、39歳ではさすがに…というところでした。翌1980(昭和55)年も現役として在籍しますが一軍登板がなく、40歳で現役を引退しました。時に一学年下の王貞治選手と同時の引退でした。

 

まるで阪急の強さと呼応するかのように、彼の活躍した時代がありましたが、阪急の優勝が遠ざかるのと同じように彼のキャリアも細いものとなっていきました。

 

しかし投手で何度も獲るのが難しい「Gグラブ賞」を4回も獲っているのは投手としての守備力もすごかったものと思います。

 

短命と言われるアンダースローでタフに投げた22年間、通算187勝の実績は輝かしすぎてあまりある、というものでした。

 

 

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