私はいまイギリスに住んでいるが、自分とは比べものにならない位多動の人をしばしば見かける。

いま住んでいるのはロンドンなので、様々な国の人に会う機会があるのだが特に(というと偏見を持っているように思われがちだが、、、、)イタリア、トルコの人は多動的人が多い気がする。

もちろんその国の方でも落ち着いて冷静な人もいるし、ステレオタイプな見方をしてはいけないと思っているのだが私の知り合った人の中ではそのような傾向を感じる。

そのような多動の良し悪しの話ではなく、彼らと会った時に思ったのは「自分の国でもこのように過ごしてたんだろうな、いいなあ。」という一種の羨ましさであった。

日本の教育では紙は角と角を揃えておりましょう、きちんと整理整頓をしましょう。時間は守りましょう、授業の邪魔をしないようにしずかにしましょう。ということに苦しめられてきた。

就職してからももちろん同じことに苦しめられて、上司や同僚に手伝ってもらってデスクやロッカーを片付けたり、ヨンスちゃんは荷物詰めるの苦手だから他の作業していいよー、と気を使ってもらっていた。

それらの作業は全てが私にとっての悪だったわけではなく、いまの自分が片付けや整理整頓を少しは出来るようになったのはその修行のおかげだとおもっている。

ただ、そのような日本人の美徳と思われることを出来るようになるために二十数年苦しんできて鬱にもなったのは、正直いって割りが合わないと感じるのだが。

 

できないことを出来るように努力するのも大事なのかもしれない。

だけれど脳に欠陥のある私には苦しいことが多く自分を否定し押さえつける事が苦しかった。

 

健常の人を羨ましく思う日々が多かった日本での生活を離れ、外国でいろんな人にあって思ったのは多様性を認めて出来ることをやるできない事を任せるその気軽さの心地よさ。

 

きちんと折り目正しい生活をしたくて、でもできなくて、だけど最低限のきちんとさを求められる。

 

日本で修行のような毎日を繰り返してすこしでも多動的要素を目立たなくするようにしたいのか、(修行の成果は苦しんだ分だけ少しはでてくると思う)

それともいままでの苦しい生活を離れイギリスで生きていくか、、、、。

 

多動にとってどちらがいいのか。

こんなにも楽な環境にいても「もっときちんとしないと」と苦しんでいるのは、日本の教育の呪いなのかもしれない。