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6月の初めに京都大学の時計台で、昨年亡くなられた河合雅雄先生をしのぶ会が開かれた。日本の霊長類学の創始者今西錦司先生の高弟で、戦後のどさくさの中でニホンザルを対象とした野外研究を繰り広げ、イモ洗いなど文化的な行動を詳細に調べて世界から大きな注目を浴びた。その後、アフリカでゲラダヒヒやマンドリルの生態や社会についてフィールド研究を指揮し、京都大霊長類研究所や日本モンキーセンターの所長、兵庫県立人と自然の博物館の館長を務め、日本霊長類学会や日本ナイル・エチオピア学会の初代会長として学術界を牽引した。しかし、河合先生の人生は決して順風満帆ではなかった。それは落ちこぼれの連続と言うにふさわしい。丹波篠山の自然豊かな里に生まれた河合先生は、小学校3年の時に小児結核にかかり、半分ぐらいしか学校に行けなかった。2度受験に失敗し、 やっと旧制新潟高校に入学したが、 2カ月後には悪性の肋膜炎に冒され、故郷で療養生活を送ることを余儀なくされた。 6年かけて高校を卒業し、京都大学へ入学を果たしたものの身体検査に引っかかってまた故郷へ舞い戻るという始末だった。 そのため、今西先生の下で動物学を始めても他の学生のように野山を駆け回ることができず、篠山の自宅でウサギを飼って社会関係を調べることに没頭した。健康を回復して日本モンキーセンターに就職してからも、体力を使うフィールド調査に出かけることを控え、愛知県の犬山市にニホンザルの 実験群を作って社会行動を調べた。 一念発起してアフリカでゴリラの調査に挑んだ時も、ゴリラに襲われ、 車の事故で重傷を負った。しかも、 日本モンキーセンターが輸入したゴリラから結核菌を移され、死期をさまよう羽目になった。しかし、河合先生はめげなかった。同じように海外のフィールド調査で病気やけがで不自由な身となった研究者たちと「ゲリラ部隊」を結成し、サルに発信機を付けてその行動を記録 するテレメトリー法を開発した。そして、それを武器にウガンダの森で数種のサルの調査を実施したのである。その後も河合先生はカメルーンの熱帯雨林でロアロアという寄生虫に体をはい回られたり、コ ンゴ出血熱というウイルス性感染症に冒されたりした。しかし、河合先生はどんな逆境にあっても、常に先頭に立って若い研究者や学生たちを指導し続けた。それができたのは、河合先生に出会った人々がみな河合先生に魅了され、その冒険に一役買うことに大きな喜びを感じたからだろうと思う。弱さによって人を惹きつけ、みんなで新しいアイデアを考案する能力が河合先生にはあった。かくいう私も、これまで多くのけがや病気に悩まされてきた。そのたびに停滞を余儀なくされて悔しい思いをしたが、それは私にとって大きな転機にもなった。今は成功者だけがもてはやされる時代で、先頭に立つリーダーが求められている。 でも、前線から一歩下がって、 情勢を冷静に見極め、広い視野から決断を下すこともリーダーには必要だ。事故や病気によって望みどおりに運ばず、落ちこぼれたと思っても、それが好機と思えば新しい可能性が開ける。 河合先生はそんな生き方の大切さを私たちに教えてくれたのだと改めて思う。挫折しても、逆境を生き抜く勇気と人を呼び込む魅力を持てば、何度でも人生をやり直すことができるし、夢をかなえることができる。それをぜひ、 未来を生きる世代に伝えたいと思う。山極 寿一 (総合地球環境学研究所長)京都新聞 2022年(令和4年)6月26日 日曜日