三木清が利己主義について、次のようにいっている。
「純粋な利己主義というものは全く存在しないか或は極めて稀である」(『人生論ノート』)。
ただ取るばかりで与えない人はいない、いるとしても稀であるということである。反対に、取らないでただ与えるばかりというような人もいない。
世の中は、ギブ・アンド・テイクの原則で成り立っているのである。純粋な利己主義者として生きようとするなら、意識的にこの原則に反して生きなければならない。しかし、取るばかりで与えないような人がいれば、誰からも信用されないだろう。
三木はこのギブ・アンド・テイクの原則を「期待の原則」といっている。
「我々の生活を支配するギブ・アンド・テイクの原則は、期待の原則である。与えることには、取ることが、取ることには与えることが、期待されている」(前掲書)
「期待されている」けれども、「必ず」ギブにはテイクが、テイクにはギブがあるわけではない。与えても返ってこないことがある。
買い物をする時は、お金を渡せば(ギブ)、すぐに品物を受け取る(テイク)ことができる。落とし物を拾って渡せば(ギブ)、「ありがとう」とお礼をいわれる(テイク)。
しかし、教育は結果が出るのに時間がかかる。教えたからといって、すぐに身につくわけではない。勉強をしておいてよかったとか、続けた甲斐があったと実感できるというのも、ずいぶんと時間が経ってからのことである。
健康にいいと思ってジムに通っても、それが健康に好影響を与えたかは時間が経ってみないとわからない。
与えた相手からは返ってこないこともある。親は子どもを長い時間かけて育てる。しかし、親は自分の与えたものが子どもから返ってくることを期待しない。子どもも親から受けたものを親に返すことはできない。
ところが、利己主義者は期待しないと三木はいう。
「利己主義者は期待しない人間である。従ってまた信用しない人間である。それ故に彼はつねに猜疑心に苦しめられる。
ギブ・アンド・テイクの原則を期待の原則としてでなくて打算の原則として考えるものが利己主義者である」(前掲書)
期待しない人は、与えたら返ってくるだろうと考えられない。もちろん、先に見たように、与えたからといって必ず返ってくるとは限らない。返ってくることもあれば返ってこないこともある。まれに返ってこないことがあっても、そんなこともあるくらいに思える。これが「期待の原則」である。
しかし、利己主義者は、与えても何も返ってこなければ損をすると考える。だから、与えない。見返りなどあるはずがない。そんなことは期待しないのである。
信頼すると裏切られると思うので、人を信頼することもできない。対人関係は人を信頼することなしには成立しないのに信頼しない。もらうことばかり考え、常に猜疑心に囚われている。
与えても返ってこないこともある、それでも別にいいという「期待の原則」があるので、社会は成立しているのである。そういう発想ができない利己主義者は、ギブ・アンド・テイクの原則を「期待の原則」としてではなく、「打算の原則」として考える。
打算的にならないためにはどうしたらいいのか。三木は「受取勘定」という言葉を使って説明する。
「人間が利己的であるか否かは、その受取勘定をどれほど遠い未来に延ばし得るかという問題である。この時間的な問題はしかし単なる打算の問題でなくて、期待の、想像力の問題である」(前掲書)
受取勘定というのは、与えて受け取れると期待できる見返りのことである。利己主義者は遠い未来まで勘定を持ちこせない。今すぐに受け取れなければ損をした気分になるのだろう。普通の人なら受取勘定を先延ばしすることができるのに、利己主義者はそれができないのである。
以上のように考えたら
利己主義者、三木がいう「純粋の利己主義者」といわれるような人は、いるとしてもほとんどいないのがわかるだろう。
この利己主義者という言葉は他人を攻撃するために使われる。
「利己主義という言葉は殆どつねに他人を攻撃するために使われる。主義というものは自分で称するよりも反対者から押し附されるものであるということの最も日常的な例がここにある」(前掲書)
攻撃とまでいかなくても、自分のことばかり考えていてはいけないというような非難をする人がいる。
三木は「我々の生活は期待の上になり立っている」(前掲書)といった後に、
「時には人々の期待に全く反して行動する勇気を持たねばならぬ」(前掲書)
といっている。
純粋の利己主義者でなければ、他者━━例えば、親━━の期待に反する生き方をして、そのため、与えられたものを返せなくても、受け入れられると信頼したい。
三木は、期待は他人の行為を拘束する魔術的な力を持っていて、その呪縛のもとにあるという。親が子どもに過大な期待をかけ、子どもがそれに応えられないと思うと悲劇が起こる。しかし、その呪縛から脱しなければならない。
「他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遥かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ」(前掲書)
フロムが次のようにいっている。
「社会によく適応している人であっても、期待されていると信じる人間になるために、代償として自分を捨てている」(Escape from Freedom)。
三木はこういっている。
「世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い。秀才と呼ばれた者が平凡な人間で終わるのはその一つの例である」(三木、前掲書)
誰が何といおうと、自分の人生を生きなければ、一体誰が代わりに生きてくれるだろう。
岸見一郎
(毎日が発見 2022年3月号)