私は、子どもに、死にゆくお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんの姿をありのままに見せなさいと言っています。子どもにショックを与えることを恐れていてはいけない。子どもの目を覆い、耳を塞ぐのではなく、幼いなりに眼前の死を理解しようと苦悩する過程を、おとなはそっと見守ってあげるべきだと思います。死が何であるかを子どもにも伝えるのは、おとなの役目です。
孫が幼いころ、私は意識して彼女を通夜の席に伴いました。また、わが家の墓掃除にも連れ出して、めったにない機会だからと、私は墓石をずらして、お墓のなかを懐中電灯で照らして見せました。「あの空いているところに、じいじが入るんだよ」と言う私に、5歳の彼女は困ったような顔をする。「その隣にはママが入るかもわからないね」と続けるや、「ママはいや」とすでに半泣きです。子どもにも、死んでいく順序というものがわかる。それを意識にのぼらせるのも、おとなの務めです。
今は、医者や看護師を志す人であっても、身近な人の死を経験しないまま医療の現場に立つことが多くなりました。その経験のなさを、想像力だけで補うのには無論無理がありますが、死を迎える人、死を見送る人の心を理解できる人であってほしい。そう常々思っていたものですから、聖路加(せいルカ)看護大学(当時)の授業で、ちょっとショッキングなシミュレーションをしてみたことがあります。
「今、あなたのお母さんが亡くなった。お母さんの知り合いにその死を通知しなければならない」という想定で、死亡通知の作文を書かせてみたのです。イヤーッとかキャーッと声を上げていた学生が、そのうち神妙になってきて、書き終えたものを皆の前で読み始めるころには、皆、目に涙をいっぱいためていました。酷なようですが、こうでもしなければ、死を実感を持って経験することは今はとにかく難しいのです。
さしあたって、小さなお子さんのいる家庭なら、ペットを飼うのもお勧めします。犬や猫、小鳥あるいはバラを育てるというのもいいでしょう。いのちあるものに手間と愛情を注ぐ喜び、共に生きている喜びを実感できます。と同時に、失ったときの悲しみも知ることになります。生き物にいずれ死が訪れることを、子どもはペットの死を通して学ぶでしょう。コンピュータ上のバーチャルペットが死んだときとは、およそ受ける心の衝撃は違うはずです。いのちあるものの死は、悲しいばかりではなく、その後にやさしい思い出を残してくれます。死んでいくいのちが、生きている者の心のなかに生き続けることを知るのです。
子どもや若い人をまじえて、日頃から、死を明るく話題にしてほしいものです。いかに生きるかは、いかに死ぬかなのですから。死から翻ってみて初めて、きょう一日のいのちの重みが知れるというものです。
脅かすつもりはありませんが、平均寿命まであと30年などと暢気に構えていても、死は定刻どおりにやって来るわけではありません。「初めに終わりのことを考えよ」と言ったレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を思い出すたびに、人生のラストスパートは結構若いうちから始まっているのだと思います。
老いも若きも自然に死を語り合えるような成熟した文化が育ったならば、いのちを軽んじるような行動は生まれないだろうと、楽観しています。