人はいつでも自分の性格も、人生も変えられるということを見てきたが、その変化は大きく急なものとは限らない。変わるために何か特別なことをしなければならないわけでもない。
また、すぐに元に戻ってしまうことを理由に変わろうとしない人もいる。ダイエットをするといって食事の量を制限したりジムに通ったりして懸命の努力をしてみても、長続きしない。友人に「今度こそ痩せる」と宣言しても、「そんな言葉は聞き飽きた」と冷たくいわれる。自分でも内心諦めているのである。
しかし、どんなことであれ、人はすぐに変われるわけではない。すぐに変わろうとしないで、ゆっくり変わればいい。
何かのきっかけがあって、それまでの生き方を悔い改めて信仰に目覚めることを「回心」という。回心というと、劇的に考え方や生き方が変わるという印象がある。
初期キリスト教の使徒であるパウロの回心がよく知られている。パウロは、はじめはイエスの信徒を迫害していた。
ダマスコへの途上、突然天から強い光が差してパウロ(サウロ)のまわりに輝いた時、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」というイエスの声を聞いた。パウロは光のまばゆさのために目が見えなくなった。絵画では天からの光を受けて馬から落ちた姿が描かれる。
キルケゴールが「回心」について次のようにいっている。「回心はゆっくりと起こる。前進してきたのと同じ道のりを逆行しなくてはならないのである。回心は完成されるということがなく、むしろ逆戻りしてしまうことがありうるのだから、おそれとおののきをもって取り組もう」(キェルケゴール『キェルケゴールの日記』鈴木祐丞編訳)
「前進してきたのと同じ道のりを逆行しなくてはならない」というのは、罪と放蕩の生活を捨て、父から教えを受けたキリスト教へと帰還するという意味である。キルケゴールには帰還するための長い時間が必要だった。彼は自分がどう変わるべきかということを幼い時に父親から厳格な宗教教育を受けて知っていた。だからこそ、一度回心しても、なおさら変わることに抵抗を感じたのであろう。キルケゴールにとってキリスト教に背いて生きることが「前進」だったので、回心は「逆行」に感じられたのである。この前進と逆行との緊張関係の中では不断に反省しなければすぐに元に戻ってしまう。回心は一度きりではなく「完成」はなかったのである。
キルケゴールの例は特殊かもしれない。回心した後、これから先どんな人生が自分を待ち受けているかわからない。神を信仰する人であれば、よき人生になると確信できるだろうが、それでも回心は「ゆっくり」起こり、時に逆戻りすることがありうるだろう。
これまでの人生を振り返った時、人生が大きく変わったという経験をした人も多いのではないだろうか。いずれも自分が変えるのだが、人は一人で生きているわけではないので、自分一人が人生を変えるといってみたところで、何も変わらないことは多い。
母が女性というのは結婚したら、相手によってずいぶんと人生が変わるものだという話をよくしていた。変わるのは女性だけではないだろう、男性も結婚後人生が変わることがあるだろうにと思ったことを覚えている。
母は学生時代の友人のことを例にあげた。その友人は京都大学の学生と付き合っていて結婚まで約束していたが、親は収入がないことを理由に結婚に反対した。結局、二人は別れたが、後に彼は高名な映画監督になって成功した。後に監督になった学生と別れた人も、その監督と結婚した人も自分の決心が人生を変えたのである。
『涅槃経』に「盲亀(もうき)の浮木(ふはく)」という言葉が出てくる。深海にすむ巨大な盲亀が百年に一度だけ海面にその姿を現す。その時に、穴の空いた流木が浮かんでいて、たまたま亀がその穴に首を突っ込む。それほど稀な偶然を表す言葉である。
深海にすむ亀が百年に一度海面に姿を現したのも、その時穴が空いた流木が浮かんでいたのも、どちらも「偶然」である。亀と流木がその時その場にいあわせたのは「必然」ではなく、両者の偶然が重なったのである。
しかし、亀が流木の穴に首を突っ込んだことになったというこの出来事を運命と考えたかというとそうではないだろう。他方、すべて起こることは決まっていて必然であれば、誰かと出会ったり何かの出来事に遭遇したりすることを運命と感じることもないだろう。
最近はほとんど外に出ることはなくなったが、ある日、電車に乗ったら、若い男性が熱心に本を読んでいた。今はスマートフォンに目を向けている人ばかりといっていいくらいなので、本を読んでいる人がいることに驚いてしまう。
その人が読んでいる本のタイトルがたまたま目に入った。キム・ヨンスの『世界の果て、彼女』だった。キム・ヨンスのエッセイを韓国語で読んできたが、訳本も出ているはずなので読んでみようと思い、先月たくさん買った本の中の一冊だったので驚いた。最近韓国文学の翻訳が次々と出版されよく売れている本もあるが、この本は最近出版されたわけでもないので偶然の一致に驚いてしまった。しかし、私はこのようなことがあっても、運命だとは思わない。
哲学者の九鬼周造は運命について、次のようにいっている。
「偶然な事柄であってそれが人間の生存にとって非常に大きい意味をもっている場合に運命というのであります」(「偶然と運命」『九鬼周造随筆集』)
何かの出来事に遭遇し、誰かと出会ったことが人間の生存全体を揺り動かすような意味を持ったものと人が見なした時に、これは自分にとって運命だったと思うだろう。
とはいえ、偶然的な経験や出会いに意味を与えるのは自分なのだから、そのような機会を逸したからといって不幸になったのでも、反対に掴み取ったから幸福になったのでもない。人生はまだいつでも変えられる。

岸見一郎
(毎日が発見  2020年10月号)