誰しも病気ひとつせず健康でいたいと望みますが、それは日ごとむなしい望みに変わります。心身に欠陥がないことを健康というのであれば、明らかに健康と呼べるのは赤ちゃんくらいなものです。
健康を抜きにして、いきいきと生きることは叶わないのでしょうか。さらに医学が進歩して検査機器の精度が上がれば、より小さな欠陥や異常もあらわになる。となると、赤ちゃんの健康もあやしいものです。悲しいかな、医学が進めば進むほど、人間は不幸になるかのようです。
けれど幸いにして、必ずしも健康でなくても、私たちはいきいきと生をまっとうすることができます。健康であることと、内的に健康感を持っていることは別なのです。ここを、医者を含め私たちははっきりと分けて語るべきでしょう。生きるうえで重要なのは、健康より、むしろ、つねにさわやかさを実感できるこころ、つまり健康感のほうです。人間ドックで見ればボロばかり、それでもはつらつとした老人がいる一方で、検査では文句なしの健康体なのに気分がさえないという若者が大勢います。要するに心のありかたなのです。生きる姿勢です。
いずれ朽ち果てるからだは、まさに土の器。少々欠けていても、ひびがあっても、器のなかに清らかな水を満たすことができたなら、いきいきと生きられる。からだに障害があっても、重い病気を患っていても、たとえ死に瀕していても、健康感なら持つことができる、健やかでいられるのです。それが上手な生きかたというものです。
元気というのは、あくまで「気」がもたらすもので、たとえばカロリーではありません。私の今日の朝食はコーヒーとジュースだけ、昼も忙しくて牛乳とクッキーだけでした。まるで水分だけで生きているようです。食べなきゃ元気が出ないというのは気のせいで、気持ちに張りがあれば元気でいられます。どこかでまとめて食べたっていいのですから、あまり、こうでなくちゃと、からだのことに杓子定規にならないことです。困ったことに、医者というのも、からだという器の出来ばかりをとやかく言いがちで、なかなかアバウトになれないものです。ことに若いと、教科書どおりに患者さんを厳しく指導します。けれど高齢者に「これをやめろ」「あれを減らせ」と生活をきつく制限すると、見る間に気が萎えてしまいます。
毎月1回往診している最高齢の患者さんがいます。今年で105歳になられる、日本画の小倉遊亀先生です(当時。2000年7月没)。非常に血糖値が高くて、医者から再三「血糖値を下げるように」と言われるうちに元気がなくなってしまわれました。そこで、私が往診して、「そんなに制限せずに、ときどきは甘いものをどうぞ」と申し上げたのです。往診のたびに、先生は私にお菓子をすすめられます。きっとご自身も召し上がりたいはずですから、私はひとついただく。と、先生もひとつ召し上がる。そうして満足なさるわけです。血糖値はまだ高いですが、一度は置いた絵筆をまたお取りになりました。まさに健康感を持った生きかたです。だから、血糖値のことは、もう強く申し上げません。
「健全なからだに健全な精神が宿る」ということばは広く知られていますが、本来は「健全なからだに、健全なこころを宿らせたまえ」というものです。得難いのはこころであり、肝心なのはこころなのです。一刻も早く治療し、救命すべき病もありますが、それが老化によってやむなくかかる病気や、不幸にして治る見込みのない病である場合、私たちは、そうした欠陥がある「にもかかわらず」健やかである、という生きかたを求めていくべきだろうと思います。どんなにささやかなものであっても、希望や生きがいや目標を持てる人は、生きかたも上手。いきいきとしているはずです。

日野原重明(ハルメク2021年6月号)