少し想像しにくい、あるいはしたくないことかもしれませんが、自分の人生が終わりに近づくときを想像してみてください。
もし、死を、避けられぬ運命と考えるならば、その人生はさびしいものになってしまうのではないでしょうか。そうではなく、死を、もっとあたたかいものとして考えて、「生きてきてよかった」と思える象徴としてとらえられたら、とてもすばらしいことだと思います。
どうしたら、邪念のようなものをもつことなく、静かに、感謝の心をもって、人生の終わりを迎えることができるのでしょうか。ひとつには、自分が死んだあとでも、誰かが私のことを思い出してくれて、その誰かの中で自分が生きていると思えることが大事です。亡くなる私の姿をアクセプト(受容)してくれる━━、そういう友だちや家族がいれば、不安や錯乱といったいやな気持ちをもたずに、ほんとうに静かに、平和に、子どもが寝入るように眠ってしまうことができるのではないかと思います。
私が大好きな詩人、三好達治氏の作品にこんなやさしい詩があります
「かよわい花」
かよわい花です/もろげな花です/はかない花の命です/朝さく花の朝がほは/昼にはしぼんでしまひます/昼さく花の昼がほは/夕方しぼんでしまひます/夕方に咲く夕がほは/朝にはしぼんでしまひます/みんな短い命です/けれども時間を守ります/さうしてさつさと帰ります/どこかへ帰ってしまひます
━━ 『三好達治詩集』(新潮文庫)より
朝顔も昼顔も夕顔も、みな自分の終わりを知っているんです。朝咲けば昼にはしぼんでしまう、その終わりが遺伝子で運命づけられていることを知っている。朝顔はその遺伝子の運命を受容して、遺伝子がなすがままに自分は死んでいくのだなあと思うのです。しかもその遺伝子は、自分の一部分なのですから、からだごと受け入れているわけです。
ですから、「死」は恐ろしいとかさびしいものと考えるのではなく、あなたひとりだけに訪れる特別なものでもありません。「死」は、太陽が地平線から昇り、朝が来て、そしてまた夕方になる。そういう自然の理念の一つ。大きな自然の中に自分もいるんだと思えば、ひとりぼっちで死んでいく、とは思わずにいられるでしょう。
大自然の中でかよわく咲いてしぼむ一年草と同じように、私たちも、自分たちの力ではどうしようもできない大きな宇宙のルールの中で、波に揺られているようなものなんです。
世の中には数え切れないほどの宗教がありますが、きっと、突き詰めれば、こんなことを私たちに伝えたいのだと思います。キリスト教や仏教でなくても、太陽や月をあがめたりする宗教はみんな、偉大な力のルールの中に私たちはあるんだ、ということに気付くようにしてくれているのでしょう。たとえ特定の信仰をもたずとも、このことに思い至れば、気持ちが安定して、この身を偉大なる力に任せようという気持ちになれます。
そうした気持ちに至るには、年齢を重ねることも大事です。青年、壮年の死は、肉体的にもつらく、精神的にも目的半ばに倒れるのですから、生木を裂くような感じがします。こうした死を受け入れることは、本当に大変なことです。けれども齢をとるということは、たくさんのよいことをもたらしてくれます。かつてプラトンも発見したことですが、齢をとるにつれ、死を迎えるときに身体的には苦痛を感じにくくなりますし、年齢の分だけ豊かな感性が身につけば精神的にも楽になるはずです。老齢の死ほど静かな死はないのです。

日野原重明(ハルメク2020年12月号)