この世界には八百四十万もの種がいます。そしてその頂点に人間がいます。人間だけが、神というゴールに到達することができるのです。スワミは「人間として生まれることは、神から与えられた最高の贈り物である」とおっしゃっています。人間として生まれて、ようやく生き物としての究極のゴールに到達することができるわけです。ですから天界の神々や天使たちですらも、人間として生まれて、最終ゴールに到達したい、と願うほどです。人間として生まれた唯一の目的は、神である自分を悟ることです。私たち自身が神であり、愛である、ということを実現すること───それが私たちの究極の目標です。
二〇〇九年七月のグル プールニマー祭で行われたご講話で、スワミはそのことを非常にはっきりと明言されました。スワミは「私たちがオームと呼ぼうが、神と呼ぼうが、アートマと呼ぼうが、パラマートマと呼ぼうが、それはすべて一つである」とおっしゃいました。それから「ブラフマンは、心によって理解することはできず、言葉によって表現することもできない」ともおっしゃいました。それは体験によって初めてわかるものなのです。スワミは「アートマは、永遠にして、不変のものである」とおっしゃいます。それは始まることも、終わることもありません。生まれることもなければ、死ぬこともありません。それは、原因と結果、時間と空間を超越しています。名と姿と特性を超越しています。それはそれであると同時に、私たちが見るもの、感じ取るものすべての根本であり、それを支えているものです。人間の心と身体と知性はすべて、アートマに基盤を置いています。それはすべてを知っていて、すべての力を持っていて、遍在なのです。「現在」は神からの贈り物です。未来は確定しておらず、過去はすでに過去のものです。ですから「現在(プレゼント)」に生きることが、「遍在(オムニプレゼント)」につながります。
アートマとは、あらゆるものであり、すべてのものであり、永遠のものです。この世の中には、ブラフマンもしくはアートマン以外のものは存在しません。ここで話している人、それから音を伝えている機器類、椅子、机、カーペット、あらゆるものがブラフマンであって、ブラフマン以外のものは存在しません。しかし私たちは、一人ひとりの人間存在は別々のものであり、神は私たちとは別の存在であると感じます。けれども私たちは、存在するものはすべてアートマ、すなわちブラフマンそのものであるということを確信しなくてはなりません。神以外のものを体験することは、すべて私たちの想像であり、妄想に過ぎません。
どうして私たちはこの真理を体験することができないのでしょうか?それは私たちが無知であるため、そして不純であるためです。私たちは、肉体意識に邪魔されているために、あらゆる特性を超越した姿形のない実体を体験することができません。そのような私たちに道を示し、目標を示すために、名も姿も特性も持たない神が、名と姿と特性を持って地上に降臨されるわけです。このような神は、ラーマ、クリシュナ、イエス、仏陀などの姿を取られて、人類の歴史の中で何度も何度も降臨されています。
そして現在、神は無限の恩寵を携えて、バガヴァン シュリ サティア サイ ババとしてこの地球に来られているのです。私たちは、この地上にアヴァターがいらっしゃる時代に、まったく同じ時期に同じ地球上で生活しているという、非常に大きな恩寵に恵まれています。これはスワミの恩寵に他なりません。もう一つ、現代の私たちが享受している恩寵があります。それは、私たちがスワミの御名を見ることができ、スワミの美しい御姿を見ることができるという恩寵です。
一九九四年のことです。私たちはスワミのゲストとして、コダイカーナルに行くという素晴らしい機会に恵まれました。朝から晩までスワミと一緒にいて、三食を共にし、スワミの甘露のようなスピーチに耳を傾けるという夢のような体験をすることができました。その時は、二、三人の人がスワミの蓮華の御足の元に座っていました。昨日、飛行場からこちらに来る車の中で、以前サンパット博士が来日されて、日本の帰依者とさまざまな体験を分かち合ったことがある、という話を伺いました。そのサンパット博士が当時のサティア サイ大学副学長で、私とサンパット博士がスワミの蓮華の御足の元に座っていたのです。
その時サンパット博士は「前世で、私がいったいどのような良いことをしたのかはわかりませんけれども、その良いことをしたおかげで、今私はスワミの蓮華の御足の元に座るという恩寵を得ることができました」と申し上げました。するとスワミは、サンパット博士の言葉を訂正されて「一回の前世で良いことをしたからではなく、いくつもの過去生において良いことをしたおかげで、そしてあなたの親類縁者や先祖たち全員が行った美徳が蓄積したおかげで、今あなたはここに座ることができたのです」とおっしゃったのです。私たちがいかに幸運に満ちて祝福されているかということを、少しはおわかりいただけるのではないでしょうか?
一九六ハ年にボンベイ(現ムンバイー)で行われた第一回SSO世界大会において、スワミは歴史的なご講話をされました。スワミはご自身の神性の一端を垣間見せてくださったのです。スワミは「今日、私のダルシャンを受けることのできる皆さんは、これまでの歴史においてさまざまな神の恩寵を得ていた聖者たちや、イエスの恩寵を受けたあらゆる人々よりも、はるかに恵まれています」とおっしゃいました。それからスワミはご自身を指差されて、「人間が考えたあらゆる神の特徴、すべての神のすべての特徴、そのような神聖な特徴は、すべてこの肉体の中にあります」とおっしゃいました。そして「私が皆さんと一緒に話したり、食べたりする姿を見ても、決してそういうものに惑わされてはいけません」と付け加えられました。その時スワミはご自身のことを「サルヴァデーヴァダーヤスワルーパーヤ(すべての神が一つの姿の中に収められている化身)」と称されました。スワミご自身が「すべてのすべてであり、すべてを超えた存在であり、一つの姿の中にすべてが入っている」ということをおっしゃったわけです。
そのご講話の中で、スワミがおっしゃった非常に重要なポイントがもう一つありました。スワミは「皆さんは、私の真実というものを今日理解することはできません。そればかりか、永遠の時間をかけて、すべての人類が協力して探求しても、決して理解することはできないでしょう」とおっしゃったのです。それから「ですから皆さんは、私を理解しようとして、分析したりしてはいけません。ただ私を体験し、私の愛を体験しなさい」とおっしゃいました。
私たちは、こうやってスワミの近くに来ることができたという幸運を、どのように生かすことができるでしょうか?そのご講話の中で、スワミはその解決策も与えてくださっています。「スワミが語る教えをそのまま素直に実践するならば、他のあらゆる苦行、あらゆる霊性修行をすべて行うよりも、はるかに大きな恩寵がもたらされます」とおっしゃったのです。ですから、スワミの神聖なるご指示に従うことがいかに重要であるかが、よくおわかりになると思います。
スワミのおっしゃる言葉の一つひとつが、マントラそのものです。スワミが語られる一文は、一つの経典のようなものです。スワミが一人ひとりと交わされる会話一つひとつは、ウパニシャッドであり、ギーターです。スワミがなされるご講話の一つひとつは、ヴェーダのようなものです。ですから私たちは、そうやって聞いたことをよくよく考えて、そしてそれらを実践に移さなければなりません。スワミが私たちに何かをお命じになる時は、百パーセント正確にそれを行う必要があります。
スワミが何かをしなさいとおっしゃった時、それに関してあれこれ考える必要はありませんし、考えてはいけません。ある時、ブリンダーヴァンにあるスワミのアシュラムで起こった一つの出来事をご紹介しましょう。そこにはラーマブラフマンという名の素晴らしい帰依者がいました。彼はホワイトフィールドのアシュラムのお世話をしていた方です。ある日のこと、スワミはラーマブラフマンに「こちらに来なさい」と指示されました。その時ラーマブラフマンは手に何かを持っていたので、それをどこかに置いてから、二、三分後にスワミの元へ行ったのです。ラーマブラフマンが「スワミ、お呼びでしたので参りました」と申し上げると、スワミは「すぐ来なさいと言ったのはさっきのことで、今ではありません」とおっしゃいました。ラーマブラフマンは、すぐに来い、と言われた時に、即座に来なかったので、すぐにその場から立ち去らなければいけませんでした。
それから二、三週間後のことです。井戸を掘るために、アシュラムの中で掘削作業が行われていました。しかし、いくら掘っても水が出てきません。そこで作業をしている人たちはラーマブラフマンを呼び出すことにしました。そして「あなたはスワミの偉大な帰依者ですから、あなたが鉄のバールで地面を突けば、そこから水が出るでしょう」と言ったのです。そこでラーマブラフマンは鉄のバールで地面を突きました。すると本当に神の奇跡が起こり、そこから水が噴き出してきたのです。その水の勢いがあまりにも強かったので、ラーマブラフマンは水圧に押されてそこに転んでしまったほどです。ラーマブラフマンは年配だったので、自分は怪我をするかもしれないと、その時に思ったそうです。その後ラーマブラフマンは自宅に帰ってシャワーを浴び、スワミに感謝を捧げました。その後、スワミの元へ行った折、スワミから「先日あなたは私が呼んだ時にすぐに来なかったけれども、あなたが転んだ時には、すぐにその場に私がいてあなたを助けてあげたから、あなたは怪我をしなかったのですよ」と告げられたそうです。
神は、帰依者からの呼び声に対しては、本当に瞬時に反応してくださいます。ですから神から何かを命じられた時には、完全に百パーセント、それに従わなければなりません。自分たちの都合によって少しでも変えたりしてはならない、というわけです。指示されたとおりに、百パーセントそのとおりに行わなければなりません。
皆さんも覚えていらっしゃると思いますが、今朝のゴールドステイン博士の話もそのような内容でした。博士は半分だけスワミの指示に従って、半分は従わなかったわけですが、そのためにたいへんな出来事に遭遇する羽目になりました。しかし、スワミは無限の恩寵をもって、ゴールドステイン博士をお救いになったのです。
二〇〇二年のクリスマスの時、私はインドに行き、ベランダに座っていました。するとスワミが私をお呼びになって「皆に話をしなさい」と指示されました。その時私は、神の命令に百パーセント従うことの大切さについて、先程のゴールドステイン博士の体験談を例にして、皆さんにお話ししました。その時には、ゴールドステイン博士もその場にいました。私が話し終えた後、すぐにゴールドステイン博士がスワミに呼ばれて、「あなた自身の口から、皆さんにこの体験を話しなさい」と指示されました。そのようにして、スワミの御教えを百パーセント正しく実践することの大切さについて、皆で分かち合ったわけです。
自分が体験を通じて学ぶことの大切さと、その体験を皆と分かち合うことの大切さについて、皆さんにもおわかりいただけたでしょうか?
このポイントを伝えるために、スワミは素晴らしいお話をしてくださいました。
昔々、ボージャという王様がいました。王様は非常に寛大で、いろいろなものを皆に与えていました。ある彫刻家が銅を使って、まったく同じ姿をした神像を三体作りました。彫刻家は、この三体の神像を王様に見せて、「王様、この三体の神像がそれぞれどういう価値を持っているかを私に言ってください」と言いました。この三体の神像はまったく同じ姿でした。王様は、彫刻家が「三体それぞれがどのように違うのか言ってください」と言った以上、三体の神像はどこかが違っているはずだと考えました。
王様は非常に賢い大臣の助けを借りることにしました。賢い大臣は一本の針金を持って来ました。そして一体の神像の耳にその針金を入れてみると、もう片方の耳からその針金が出てきました。それで大臣は「この像には一万円の価値しかありません」と言いました。二体目の神像の耳に針金を入れてみると、今度は口からその針金が出てきました。それで大臣は「この像は、先程の像よりも価値がありますので、十万円はします」と言いました。三体目の神像に針金を入れてみると、針金はどこからも出てこなくて、像の中に入っていきました。そこで大臣は王様に「これは一番価値がある神像です。ですからいくらでもこれに出してください」と言いました。
そしてスワミは皆に「霊的な求道者、霊的な探求者の中には、三種類の人々がいます。一部の人々は、右の耳にスワミの講話が入ってくると、左の耳から出してしまいます」とおっしゃいました。たとえば、スワミのパワフルなご講話を聞いた直後に、「スワミは何とおっしゃったのですか?」と聞かれると、「ああ、何を言ったかな?」と言うような人々は、第一の種類の人々です。
中にはもっと進んだ帰依者もいます。それは、スワミから聞いた話をいろいろ考えて、それについて話をしたり、本に書いたりする人たちです。しかしスワミは「皆さんは、スワミの講話を実践しないかぎり、演壇の上ではヒーロー(英雄)でも、実践においてはゼロ(無)でしかありません」とおっしゃいます。
最高の種類の帰依者は、聞いたことをちゃんと消化吸収して、それを実践します。そうすると、その人の生き方そのものがスワミのメッセージとなります。その人の生き方が、ヴェーダーンタそのものとなります。そのような人々は、ラーマクリシュナなどの聖者クラスの人々と同等レベルにいます。そのような人々の前にいるだけで、私たちは心の平安と喜びを体験することができます。そのような人々は、一目見たり、ちょっと身体に触ったりするだけで、相手の霊的なレベルを変えてしまう力を持っています。
スワミが皆さんに一番お伝えしたいことは、スワミのメッセージを実践しなさい、ということです。私たちは三番目の神像と同じ種類の人間にならなければなりません。
それでは私たちが実践すべきスワミのメッセージとは、いったい何でしょうか?スワミはご講話を始められる時、私たちに何と呼びかけられるでしょうか?スワミは私たちを「子どもたち」とか「帰依者たち」とお呼びになるのではなく、「神聖なるアートマの化身である皆さん」とか「神聖なる愛の化身である皆さん」と呼びかけてくださいます。ですから私たちは、その最高の言葉を体験し、それを実践しなければなりません。そういう境地に達することができるように、スワミは私たちにいくつかの実践的なヒントを与えてくださっています。
最初のキーワードは「神はいる」です。この言葉は、一九八六年七月ニ十一日、プールナチャンドラ ホールで行われたグル プールニマー祭のご講話の中で宣言されました。それは非常に記念すべきご講話で、幸いなことに私はその場に居合わせていました。スワミは今回のアヴァターの姿を取られている間、あるいはシルディ サイのアヴァターであった間、帰依者にマントラ(真言)を与えるということをなさいませんでした。その時スワミは「神の御名に関する八文字や五文字のマントラではなく、簡単な五文字のマントラをあげましょう」とおっしゃいました。それが「デーヴドゥナル」という五文字のテルグ語です。それを英語に直すと、五文字で「神はいる(GOD IS)」になるわけです。スワミは「この『神はいる』というマントラを何度も唱えて、それを考えて、それについて黙想していけば、神を実現することができます」とおっしゃいました。それから「このマントラを唱える時は、それだけの信仰と心の純粋さをもって唱える必要があります」ともおっしゃいました。そして「人間にとって一番大切なのは信仰心です。信仰心は私たちの息吹そのものです」と述べられました。
スワミはアルジュナとクリシュナの素晴らしい喩え話を紹介されました。クリシュナとアルジュナが一緒に歩いていた時のことです。クリシュナが空を指差して「あそこにハトが飛んでいる」と言いました。アルジュナは「そのとおりです」と答えました。それからクリシュナは「あれはハトではなくてワシだ」と言いました。するとアルジュナは「そのとおりです」と答えました。しばらくするとクリシュナは「いや、そうではない。あれはオウムだ」と言い出しました。アルジュナは「本当にそうです」と同意しました。今度はクリシュナは「あれはオウムではなくてカラスだ」と言いました。するとアルジュナはまたしても「本当にそのとおりです」と答えたのです。とうとうクリシュナは、「お前には良識がないのか。私が何を言ってもそのとおりだと言うばかりではないか」と言いました。するとアルジュナは「あなたの言葉は、私が見たものよりも、もっと真実です」と答えました。そしてスワミは「これが、私たちが自分たちのグル、あるいは神に対して持つべきまっすぐな信仰です」とおっしゃったのです。
サティア サイの帰依者の中にも、本当に素晴らしい方がたくさんいます。十五年前の話ですが、私のそばに南アフリカから来た帰依者が座っていました。スワミはその方のそばに行くと、いつも「彼はフィジーから来た」とおっしゃって、他の人に紹介なさっていました。しかし私は、彼が南アフリカから来たということを知っていました。ですから私はその方に「どうしてあなたは『私はフィジーからではなくて、南アフリカから来たのです』と言わないのですか?」と聞いてみました。するとその帰依者は、「スワミが『フィジーから来た』とおっしゃるのであれば、私は前世においてフィジーで過ごしていたかもしれないし、来世においてフィジーに生まれるかもしれません」と答えたのです。私たちは主の言葉に百パーセントの信頼を置かなければなりません。
今朝のゴールドステイン博士のお話の中で、ハイジャックという恐怖の中で、スワミの御言葉を黙想することによって、完全に恐怖から離れることができたという体験が紹介されました。「私も神を信じている。私もスワミを信じている」と言う人がいるかもしれません。しかし百パーセントの信仰を持っているかということ、それが重要なのです。その百パーセントの信仰、完全なる信仰の印とは何でしょうか?それは、一切の不安がなく、一切の恐れがない、ということです。それが完全な信仰の印である、とスワミはおっしゃっています。ですから、私たちの中にひとかけらでも不安や恐れがあるとしたら、まだ自分には完全な信仰がないのだということを知らなければなりません。私たちが本当に百パーセントの信仰を持っていれば、恐れや不安がまったくなく、いつも喜びと至福に満ちていることができます。私たちが百パーセントの信仰を持っていれば、常に他の人々を、すべての人々を愛することができるようになります。
次のキーワードは「すべてを愛し、すべてに仕えなさい」です。スワミは「神と深い交わりを持つためには、信仰と愛が必要である」とおっしゃいます。スワミはそれを喩え話で「私たちが手紙を送る時には、封筒に宛先を書いて、切手を貼らなければなりません」と説明されます。もし封筒に宛先が書かれていなかったり、切手が貼ってなかったりしたら、手紙は送った人のところに戻ってくることになります。しかし切手が貼ってあるだけで、宛先が書いてなければ、それは宛先不明の郵便物として処理されてしまいます。ですから宛先と切手の両方が必要なのです。同様に、神との交わりを持つために欠かすことのできないものは、信仰と愛です。特にスワミが一番強調されるのは、愛です。
スワミは「神は愛です。愛は神です。愛に生きなさい」とおっしゃいます。「一日を愛で始め、愛で満たし、愛で終えなさい。これが神への道です」ともおっしゃいます。スワミは、愛が二本の足で歩いているような、愛の化身そのものです。ですからスワミのなさっているさまざまな人道的奉仕や、スワミの御教えのすべては、この愛という一語で要約することができるわけです。スワミは源とその道とその目標すべてが愛であるとおっしゃいます。ですからスワミとの交わりを持つためには、私たち自身が愛の化身とならなければいけません。
しかし私たちは、そのような神の愛を、執着や愛着と混同してしまうことがあります。神の愛は最も高い次元のものであり、最も清らかなものです。イエス様は「あなたのすべての力で主なる神を愛しなさい、そしてあなたの隣人も自分と同じように愛しなさい」という戒めを授けてくださいました。聖パウロは「永続するものは信仰と希望と愛の三つである。このうちでもっとも大いなるものは愛である」と語りました。スワミは、どのように愛するかということについて、いくつかのヒントを与えてくださっています。
まず私たちは、愛を一点に集中させなければなりません。スワミは「私たちのハートは、一人掛けのソファーです」とおっしゃいます。また、「私たちは二頭の馬に同時に乗ることはできません」ともおっしゃっています。イエス様も「富と神の両方に兼ね仕えることはできない」とおっしゃっています。
これに関しては、非常にわかりやすい喩え話があります。家の中で飛び回っているハエは、美味しい食べ物の上に止まることもあれば、汚物の上に止まることもあります。しかしミツバチはおいしい蜜があるところにだけ行き、それ以外のところには行きません。家の中を飛び回るハエと同じように、パートタイムの帰依者は、時々サットサングに参加したり、神の賛歌を歌ったりしますが、それ以外では世俗的なことに時間をつぶしてしまいます。しかしフルタイムの本当の帰依者は「スワミの美しい御姿と素晴らしい御教え、それだけに心を集中したい」と考えます。ですから私たちは、神に対して一点集中の愛を持たなければなりません。
第二にスワミがおっしゃるのは、神に対する愛の強さについてです。たとえばある人が、神に対してぬるま湯のような愛しか持っていなければ、何世紀もかけて神を愛したとしても、決してどこにも到達できません。これに関しては、スワミはラーマクリシュナ パラマハンサの喩え話をされます。ラーマクリシュナ パラマハンサは、毎日女神にお祈りしていましたが、一日の終わりには涙を流しながら「今日も私はあなたのダルシャンを受けることができませんでした」と女神に訴えていました。今の人々は、自分の名声や家族のため、仕事のためには涙を流します。しかしいったい誰が神のために涙を流すでしょうか?ラーマクリシュナは「どんな人でも、三日間、朝から晩まで神のために涙を流すならば、その人は必ず神のダルシャンを得るだろう」と語りました。二年ほど前に行われた世界青年大会で、スワミは「あなたが、十一秒だけ本当にスワミに集中することができたら、私はあなたにダルシャンを与えましょう」と宣言されました。ですから私たちは、本当に集中して、熱烈に、神を愛さなければなりません。
第三にスワミがおっしゃったことは、愛は清らかなものでなければならない、ということです。スワミは「愛のために愛しなさい」とおっしゃいます。神様にお祈りを捧げる時には、それによって自分が何かを得ようという気持ちが一切あってはなりません。何年か前に行われたグル プールニマー祭のこ講話において、スワミは「今後は私のパダナマスカールを得たいといった類のことを祈ってはなりません。ただ私からの愛だけを祈りなさい」とおっしゃいました。その時スワミは「この愛というものは清らかであるだけでなく、普遍的なものでなければならない」とおっしゃいました。そして「あなた方は自分の家族や自分の身の回りの人たち、自分が好きな人たちだけを愛するのではなく、敵をも愛さなければなりません。あなた方を苦しめる人々を愛しなさい」とおっしゃいました。
さらにスワミは「人間を愛するだけではなく、すべての生き物、すべての動物たちも愛しなさい」ともおっしゃっています。プラシャーンティ ニラヤムで、無料の医療サービスを提供するメディカル キャンプについてスピーチが行われていた時、スワミが話し手のところに来られて、「人間だけでなく、動物にもそのような愛を向けなさい」とおっしゃったのです。
すべての生き物だけではなくて、宇宙に存在するものすべてに対しても愛を向けなければなりません。スワミは「山などの無生物に対しても、私たちの愛を向けなければなりません」とおっしゃっています。皆さんは、ラーマの時代にラーマのところまで行くことのできなかった山が涙を流したという話を聞いたことがあると思います。サイのアヴァター時代においては、スワミから選んでもらえなかったサリー生地から涙が流れ出した、というエピソードをご存知の方もいることでしょう。宇宙に存在するものはすべてブラフマンであるため、すべてのものには意識があり、すべてのものには感情があるのです。スワミは「私たちが自分たちの視覚、聴力、触覚を通じて体験する宇宙に存在するすべてのものは、ブラフマンです」とおっしゃっています。
私たちは、どうしたら自分が神を愛しているかどうかがわかるでしょうか?神を愛しているという印は、どこにあるでしょうか?それに関して、スワミはたくさんのことをおっしゃっていますが、そのうちの三つをご紹介します。
スワミご自身がお書きになった『プレーマ ヴァーヒニー』(日本語版では『信愛』というタイトルで出版されています)を読んでください。スワミは「愛のある人は、他の人の中に欠点を見ない」とおっしゃっています。イエス様は、「兄弟の目の中にある塵を取ろうとする前に、自分の目の中にある丸太を取り除きなさい」とおっしゃっています。スワミは「もし私たちが他の人を指差して非難するならば、人差し指は相手を指しているが、残りの四本の指は自分を指すことになる」とおっしゃいます。今朝ゴールドステイン博士が、エルシー コーワンさんの欠点を指摘して、スワミからたしなめられた話をしましたが、スワミはいつも「他の人の欠点ではなくて、自分自身の欠点を探して、それを正しなさい」とおっしゃいます。それが愛を持っている人の印です。
第二の印は許すことです。スワミは「もし皆さんに愛があれば、常に許すことができます」とおっしゃいます。これまでにもさまざまな霊的大師たちが、この地上に来られましたが、彼らは皆「許し」という特質を持っていました。
イエス様が十字架に架けられた時、彼は何と言ったでしょうか?イエス様は「おお聖なる父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちが何をしているか知らないのです。許してください」と言いました。
お釈迦様はいったい何をしたでしょうか?お釈迦様にはデーヴァダッタという従兄弟がいました。デーヴァダッタはお釈迦様の悪い噂を流し、遂にはお釈迦様を殺そうとさえした人物なのです。このデーヴァダッタが死の床に就いていた時のことです。弟子たちが止めるのも聞かずに、お釈迦様はデーヴァダッタのお見舞いに行かれました。その時お釈迦様はデーヴァダッタに「私は自分の息子と同じくらいあなたのことを愛している。立ち上がって歩きなさい」と告げました。するとデーヴァダッタは立ち上がって歩き始めたのです!これが究極の許しです。
私たちのスワミはどうでしょうか?南インドにはヴァダという揚げ物がありますが、昔、これに毒を混入させてスワミを殺そうとした女性がいました。ある時、スワミがその女性の家を訪問されました。通常スワミは、訪問先で出された食事を少しだけ口にされて、残りはすべて他の帰依者に分け与えてくださいます。しかしその時には、スワミは食事に毒が入っていることをご存じだったので、出されたヴァダをすべて召し上がってしまったのです。周りの人々は不思議に思って、「いったい今日のスワミはどうされたのだろう?他の人には分けないで、自分ですべてのヴァダを食べてしまわれた」と口々に言いました。スワミはシヴァ神ご自身ですから、どんな毒にも影響されることはありません。後になって、ご自分が呑み込んだものをすべて吐き出されたわけです。その後、この女性がヴァダに毒を入れたことが判明すると、皆は本当に怒って、その女性に暴力を振るおうとしました。それでスワミはアシュラムの中に彼女の部屋を用意され、そこに住むことをお許しになったのです。そして「彼女は、このアヴァターは毒によって影響されないということを示すため、神の栄光を示すために、このようなことをやったのです」とおっしゃいました。これが究極の許しです。
第三の印は、帰依者として最も大切な特質である平常心です。
一九四七年五月二十七日のことです。スワミは兄のシェーシャマ ラージュに手紙を書きました。これは非常に重要な手紙であり、すべての帰依者が読むべきです。チャイタニヤ ジョーティーというスワミの博物館には、この手紙がそのままの形で展示されています。
その手紙の中に、スワミはたくさんのメッセージを込められましたが、その中の一つに「帰依という言葉に関して、私自身の定義があります」という一節があります。そこでスワミは「私に帰依する人々は、喜びも苦しみも、損も得も、良いことも悪いことも、苦楽もすべて同じように扱います」とお書きになっています。つまりスワミは、帰依の一番大切なポイントとして、何千回ジャパをしたとか、何時間瞑想したとかいうことではなくて、あらゆる両極に対して同じ心で接することを挙げられたわけです。ですから私たちが何かに対して平常心を失った時、今自分には帰依心が欠けているのだな、ということがわかるわけです。
今度は「すべてに仕えなさい」についてお話しします。もし私たちが神を愛しているのであれば、神が創造されたすべてのものに仕えるはずです。マザー テレサは「沈黙の果実は祈りである。祈りの果実は信仰である。信仰の果実は愛である。愛の果実は奉仕である」という素晴らしい言葉を残されました。行動で示す愛、それが奉仕です。もしあなたが誰かを愛していれば、あなたはその人に奉仕することでしょう。
今朝ゴールドステイン博士が語ったように、私たちはSSOの一員です。これは神に仕える非常に素晴らしい機会です。私たちにこういう機会を与えてくださった神に、感謝しなければなりません。私たちが覚えておくべき非常にパワフルなスワミのメッセージが一つあります。スワミは「多くの人々が呼ばれて、その中の一握りの人だけが選ばれる」とおっしゃいました。スワミは「私は皆さん方の中から一握りの人々を選んで、その人々に私の仕事をさせます」とおっしゃいます。そして「私は、たくさんの過去世を通じて、あなた方の準備を整えてきました」、「私の愛の道具として、私の愛を伝える道具となるために、私はいくつもの過去世を通じて、あなた方を育ててきました」とおっしゃっています。けれども「しかしエゴが入り込んだ瞬間に、そこで私の仕事は終わってしまいます」ともおっしゃっています。ですから私たちは、スワミの道具として働いている最中に、自分のエゴが決して入り込まないように、いつも気をつけていなければなりません。
今は亡きカストゥーリ博士が、それに関する素晴らしいエピソードを紹介してくださったことがあります。カストゥーリ博士は、マイソール州のSSO会長を務めていました。しかし、カストゥーリ博士がその地位に就いた後、カストゥーリ博士はスワミから話しかけられなくなりました。それまでスワミはカストゥーリ博士に、さまざまなアドバイスをしたり、いろいろなことをしてくださっていました。それなのに、州のSSO会長になった途端、まったく話しかけられなくなってしまったのです。カストゥーリ博士はスワミの御足の元に行って、涙を流しながら「私とあなたの間を邪魔するような会長職など、私は要りません」と言って、スワミの目の前で辞表を書きました。するとスワミは「あなたと私の間の邪魔をしているのは、会長職ではなくて、あなたのエゴです」とおっしゃったそうです。ですから私たちは、エゴが自分たちの中に入り込まないように、常に気をつけていなければなりません。
私たちが愛し、仕える時、それは無私の奉仕となります。奉仕と言うと、お腹の空いた人に食事を差し上げるとか、お金のない人に衣類を差し上げるとか、そういうことを考えがちです。けれども、それらは確かに慈悲に満ちた行為ではあるのですが、それだけが奉仕というわけではありません。他の人々の心を慰めるような優しい言葉、それも奉仕です。心の中で愛に満ちた思いを培うこと、それすらも奉仕なのです。
十五年前、私はスワミの蓮華の御足の元に座っていました。ある時、スワミが十日間にわたってシルディ サイ ババに関するご講話をされたことがありました。私はシルディ サイ ババをずっと信仰してきたので、「シルディ サイに関するご講話を、テルグ語から英語に翻訳させてください。そうすることによって、より多くの人々が恩恵を受けることができます。私にその仕事をさせてください」と、スワミに申し上げたことがあります。スワミは私に「どうしてその仕事をやりたいのですか?」とお聞きになりました。私は「その仕事を通じて、多くの帰依者たちに奉仕できるからです」とお答えしました。その時にスワミが何とおっしゃったかと言いますと、「自分にできる最高の奉仕は何か、あなたは知っていますか?」と質問されたのです。そして「自分が誰であるかということを探し出すこと、それが私に対する最高の奉仕なのです」と付け加えられました。スワミは、「途中にあるさまざまな儀式や奉仕など、形あるものにとらわれることなく、最終的なゴールに到達するまで進み続けなさい」とおっしゃいます。そして「『私は私である』という究極の真理を悟るまで、決して休まずに進み続けなさい」とおっしゃいます。
今日のお話の最後に申し上げたいことは、あらゆる霊性のエッセンスは「サイ ババ」という名前の中に込められているということです。私たちはスワミのことをサティア サイ ババとお呼びします。サティアは真理であり、サイは母であり、ババは父です。ですからサティア サイ ババは私たちにとって本当の父であり、本当の母なのです。スワミは母親のように、私たちに愛を注いでくださいます。父親のように、私たちを立たせてくださいます。神のように、あらゆる危険から守ってくださいます。グルのように、私たちに進むべき道と最終目的地を示してくださいます。ですからサティア サイ ババというスワミの御名、それこそが霊性の最初の一歩なのです。
SAI(サイ)という言葉があります。S、すなわちSwami(スワミ)が最初に来ます。次に来るのはA、すなわちAll(すべて)です。一番最後の来るのがI、すなわちI(私)です。ですから私たちは、人生においてスワミを最も大切なものとして扱います。そうすることが、スワミの御教えを守ることになるのです。
SAI(サイ)のSはService(奉仕)、AはAdoration(敬愛)、IはIlluminatin(知性の光によって照らすこと)を意味します。それは奉仕・帰依・英知という三つの道に通じています。
SはSpiritual Transformation(霊的変容)、AはAssociation Transformation(社会的変容)、IはIndividual Transformation(個人的変容)、という三つの変容も、サイ(SAI)という名前につながっています。
このようにして三つの道を通っていくと、いつも自分の内面を見つめるようになります。自分の内面を見つめていると、ババ(BABA)、すなわちBはBeing(存在)、AはAwareness(意識)、次のBはBliss(至福)、最後のAはAtma(アートマ)、という四つが見えてくるわけです。
そうやっていつもいつも自分の内面を見つめていくと、サイと私はつながっていき、サイと私は一つになります。自分は本当にサイと一つである、ということがわかると、「私は私である」という究極の真理に到達します。
しかしスワミは「私は私(I am I)」という言葉さえも究極ではない、とおっしゃっています。スワミがおっしゃる究極とは「私は存在する(I am)」です。
ナレンドラ レディ医学博士
特集 プレ世界大会②
SAI RAM NEWS No.135 2010年 11・12月号
(Sathya Sai Organization Japan)