聖書のヨハネの黙示録にある警告にもかかわらず、騙されやすい信者たちは、偽預言者や反キリストたちを信じるという過ちを繰り返します。しかし、事態が必ずしもこうであるとは限りません。現在、世界中の何百万という人々が、シュリ・サティア・サイ・ババこそは人間の姿をとって地上に現れた、真実にして唯一の神であると信じています。そしてその神サイ・ババは、すべての宗教は一つであると教えています。

 

この人が、シュリ・サティア・サイ・ババです。多くの目撃者たちは口々に、サイ・ババはあらゆる種類の奇跡を行うと言います。そしてその奇跡とは、米や果物を何倍にも増やし、風を吹かし、雨を降らせ、病人を癒し、死者さえも生き返らせることができ、さらには空中から宝石を取り出すというのです。それは、人間の理解を超えた技であります。

 

過去二十年間、このアシュラムは発展を続け、世界でも屈指の規模を誇るものとなりました。そのアシュラムとは、至高の平安が宿るところという意味で、プラシャーンティ ニラヤムと呼ばれています。毎日、一万人から二万人の帰依者たちがこのアシュラムを訪れ、それは何百万人と膨れ上がっていくのです。

 

数年前、アシュラムの外に巨大なヒルビュー スタジアムが建てられました。それは、主要なお祭りやババの誕生日などに、この地に集まる百万人以上の人々を収容するためには、アシュラムは小さすぎたからです。近い将来、この近くに専用の大きな飛行場ができます。世界中の飛行機がここに着陸でき、神と崇める指導者を帰依者たちは直接に見る機会が与えられるのです。

 

またサイ・ババは、正しい教育を施すことに非常に力を入れ、過去三十年間に何百もの学校を設立することに貢献してきました。そしてそれらの学校教育は、すべて無料で受けられるのです。学校の建物の多くは美しい建築デザインによるもので、この大学の校舎のように典型的なヒンドゥー様式の手の込んだ彫刻が施されています。そして、現在真新しい病院がアシュラムの近くに建ち、多くの患者を無料で治療しています。さらに大学の隣には、最新の設備を備えたプラネタリウムもあります。この寺院はマンディールと呼ばれ、アシュラムの真ん中にあります。サイ・ババは、このマンディール内の僅かな家具しかない部屋で、非常に簡素に暮らしています。様々な活動を支えるのは、数年前少数の帰依者たちによって設立された、サティア・サイ・トラストによるものです。そのサティア・サイ・トラストとは、誰でもが匿名の寄付をすることができる組織なのです。モハメッドは預言の中で、その人は生涯最後の二十年間に全世界の王になるであろうと言いました。そして現在多くの人々は、それはサイ・ババのことだと感じています。そしてさらには、ババを神ご自身であると考えているのです。サイ・ババは、毎日何度も右手を軽く回し、空中から灰を物質化して帰依者たちに配るものがあります。すなわち、聖灰を作り出すのです。サイ・ババは、この灰をヴィブーティと呼びます。灰は、インドでは何千年もの間、霊性のシンボルとして使われてきました。帰依者たちにとってこのヴィブーティは、奇跡であるとともに、ババの愛とご加護の証です。ババは、この宇宙の目に見える物質現象のすべては灰のように儚いものだと言っています。五つの元素でできている私たちの体は、すべてを楽しんだ後に朽ち果て、灰に戻ります。その事実を帰依者たちに思い起こさせるために、ババはヴィブーティを与えるのです。

 

サイ・ババは、一九二六年、十一月二十三日、プッタパルティという、人口僅か千人足らずの小さな村に生まれました。サイ・ババの両親、ペッダ・ラージュとイーシュワランマには、五人の子供がありました。サティアは四番目の子供であり、その出生と幼少時代は多くの神話に包まれています。その神話の一つに、彼が地上に降臨するのに先立って、両親の住む小屋にあった様々な楽器が、真夜中に音を奏でたり、いろいろと不思議な前ぶれがあったと言われています。また、サティア・ナーラーヤナーは、太陽が地平線から現れる瞬間に誕生しました。サティアとは真理を意味し、ナーラーヤナーとはすべてに内在する神という意味なのです。

 

両親は二人共敬虔なヒンドゥー教徒で、サティアのお爺さんが村に寄付したこの寺院は、彼らの信心を物語っています。そしてサティアの生まれた小屋の跡地には、現在サイ・ババの降誕とシヴァ神を記念した小さな寺院があり、多くの帰依者たちの巡礼地となっています。サティアは、十二歳で中学に上がりました。しかし、彼はいつまでも学校に残るべき運命ではありませんでした。一九四〇年、十月のある日、彼が十四歳の時、両親に、私はもうあなたがたの子供ではありません。私はサイです。私は出かけなければなりません。帰依者たちが呼んでいます。そして、私はシルディのサイ・ババの生まれ変わりである、と宣言したのです。最初の化身であるシルディのサイ・ババは、一ハ三ハ年から一九一ハ年まで、ボンベイ近郊のシルディ村に住んでいました。シルディのババも、すべての宗教が一つであることを説きました。そしてシルディのサイ・ババがこの世を去ってハ年後、サティア・サイ・ババは、アーンドラ・プラデーシュ州のプッタパルティ村に再び生まれたのです。サイ・ババは、二十歳の時、兄に書いた手紙の中で次のように語っています。私は自分の到来を人々に告げるために各地を回って話をしています。私の行動は、どの一つをとっても、すべて人類のためにのみ行われます。どんな人が、いかなる方法で調べても、あるいはいかに長い間努力しても、誰も私の栄光を理解することはできません。彼は現在の肉体で九十五歳まで生き、死後数年して、南インドにあるブナパルティという村に、プレマ・サイ・ババとして三度目に生まれ変わり、しばらくの間はそれが最後になると預言しています。そしてすでに、サイ・ババは自分の未来の姿の特徴を説明しており、その説明を元にした絵も描かれています。また、プレマとは、神の愛なのです。

 

私は、ヨーロッパで、彼のことや彼の奇跡のいくつかを聞いて、そんなことが本当にできるんだろうかと非常に興味を持ち、インドへ行こうと思いました。しかしその当時、私はまだ若く、お金も少ししかなかったので、陸伝いに旅をし、何か月もかかってようやくインドに辿り着いたのです。ところが、せっかく辿り着いたインドでこの村のことを尋ねると、人々はそんな村など知らないと言いました。私は途方に暮れてしまい、少しの間インドにいましたが、ある日スリランカに渡ることにしました。そして、そのスリランカ行きの船に乗り込んだ時のことです。私は不思議な光景を見たのです。それは船の上に立つ、眩しいばかりに輝く男の姿でした。私はその姿を見たとたん、理由もなくその場に釘付けになってしまったのです。いったいあれは何だったんだろう?それから二週間ぐらいして、私がある小さな村に行った時、一人の村人がやって来て、「ホテルなんかに泊まらずに、うちに泊まりなさい。きっと面白いことがあるよ」と言ったので、私はその男の住む村に行きました。そしてその家に入ったとたん、私はまた船の上にいた男に会ったのです。私はその人に、「あなたはどうしてそんなに輝いているのか?」と尋ねてみました。すると彼は、「私はサティア・サイ・ババに会って人生が変わったのです」と答えました。私は驚いて、「その人に会いたくて旅をしている者です」と言うと、彼は地図を書いてくれ、この場所を教えてくれたのです。そしてその翌日私は、ここに来たのです。

BRUCE BRADBURY

 

私はオーストラリアにいく途中、偶然チベットの僧と出会い、初めてサイ・ババのことを聞きました。そしてその僧は、サイ・ババが私の人生の中で、重要な役割を演ずるようになる、と言いました。しかし、私はこの国に何か月もいながら、サイ・ババという名を聞いたこともなく、ましてやそれがどういう人なのか、まったく知らなかったのです。それに、私はそういうことにはあまり興味もなかったのです。それから一年ぐらいして、オランダに住む母が訪ねて来ました。その時母が私に、「チベットのお坊さんがおまえに話したサイ・ババという人は誰なの?」と尋ねたのです。しかし私は、彼のことを何ひとつ語ることができません。そうすると母は、「もしその人がお坊さんの言うように、あなたの人生において大切な役割を果たす人であるならば、少なくともどんな人か調べてみは?」と熱心に言うので、私もそれならと、彼に関する本を何冊か買って読んでみました。するとたちまち私はすべての本から、非常に深い感銘を受けました。中でもサミュエル・サンドワイスの書いた“聖者と精神科医”という本を読み始めて、二、三ページも読み終わらないうちに、私はどんなに抑えようとしても、涙がこみ上げてきて止まらないです。その本の内容が、わかればわかるほど。

ALBERT BARELDS

 

十二年前に、友人からスワミのことを聞きました。この世にキリストと同じような神の化身がいて、さまざまな奇跡を行うことができると言うのです。その話を聞いた時に、私はそれをそのまま信じるだけでは飽き足らず、自分のこの目で確かめずにはいられませんでした。

SHAMA SMITH

 

私自身、まだ何も特別な体験はしていませんが、彼についての話はたくさん聞きました。でも私はその度に、あの人たちはいろんなことを体験できるのに、どうして私にはできないのだろう、と軽い失望感を感じて、時には嫌になることさえあります。でも私はたぶんこの挫折感自体が、すなわち大きな体験だと思っています。さまざまな期待とか欲求不満などのような、自分自身の弱い気持ちに直面することが。

BAUKIEN PLOEGSTRA

 

サイ・ババは、一日に二回、マンディールから出て来てダルシャンを与えます。ダルシャンとは、サンスクリット語で、神の姿を見て神の恩寵を授かること、という意味です。ダルシャンの一時間ほど前から、マンディールの外の空き地は人々で埋まり始めます。帰依者たちはそれぞれ敷物に座り、ラインと呼ばれる列を作ります。また世話人たちは、並んで待っている人々が列を乱さず、皆が前に詰めてより多くの人が入れるように指導します。

 

そして、いよいよダルシャンが始まる時間が来ました。人々は列ごとに立ち上がり、ダルシャン場に入ります。全員が最前列に座れるわけではありませんが、少しでもサイ・ババに近づきたいと、皆できるだけ早く中に入ろうとします。病人でも、歩ける人たちのためには椅子席も用意されます。そして病人たちは、順番待ちをしないですむように、ダルシャンの始まる直前に別の入り口から中に入ることが許されます。最後に入るのは、ババの学校の学生たちです。マンディールの境内で走ることは礼儀に反することですが、彼らもなるべく近づこうと急ぎます。そしてすべての人たちが座り、後はもうサイ・ババがダルシャンに現れるのを待つだけです。

 

私は一九八二年に、初めてババのところに来て、最初のダルシャンを受けました。そして今でも、ババが出て来られた時のことをよく覚えています。何百人もの人たちに混じって私が座っていると、ババは私のところにやって来られて、私の目をじっと見つめられました。その瞬間、私はババがご自身のおっしゃる通りの人であることが、心の底からわかりました。ダルシャンを受けると、満たされ、清められ、精神が高揚します。それはとても言葉では言い表せません。私たちはここに帰ってくることを、よくバッテリーを充電するのに例えます。ダルシャンで起こることは、こういうことなのです。心が洗い清められるのです。

MICHAEL D.McCARTY

 

ダルシャンは、礼拝の一形式です。サイ・ババの信者たちは、祈る時のように手を合わせて彼を見つめます。また帰依者たちにとって、ダルシャンはババの姿を目の当たりに見て、何らかの個人的接触を持つことのできる唯一の機会でもあるのです。ダルシャンの間、サイ・ババは帰依者たちの近くをゆっくり歩き、時々立ち止まって言葉を交わしたり、時には捧げられた皿に盛られたお菓子を掴み、人々に振りまくこともあります。しかし何と言っても重要なのは、手紙を受け取ることです。手紙には、個人的な問題や質問が書いてあり、サイ・ババはその手紙を受け取る瞬間に内容がわかると信じられています。帰依者たちは、手紙を受け取る時のサイ・ババの表情から、手紙に対するババの答えを読み取ろうとします。事実、手紙を渡した瞬間に答えがわかることがあるのです。ババが手紙を受け取らない時は、その問題は解決の時期が熟していないと考えられています。ダルシャンの時間は、普通十分くらいですが、それより少し長いこともあります。多くの帰依者たちは、アシュラムを訪れてサイ・ババの姿を見た後に、自分たちの人生が変わったことに気づきます。

 

私は四十代後半までに、精神科医としては信じられないほどに成功してきました。自分のクリニックを持ち、結婚して子供が四人、大きな家とビーチハウスのある何不自由ない暮らしをしていました。そんなある日、私の患者が、サンドワイス著の“聖者と精神科医”を読むようにとくれました。彼女はプッタパルティに来たことがあって、私が興味を持つだろうと思ったのです。私はその本を読んで、しばしば涙を流していましたが、気位が高すぎて、その本が自分にとって大変な価値があるということを、決して誰にも言わないようにしてきました。それから四年経って、彼女が来て、「もうそこに行っても良い頃ではありませんか?」と言いました。その時彼女は、心が高揚しているように見受けられ、この世もなく新鮮に見えたのです。そして私は自分が求めているものが、はっきりとわかりました。私はそれから一週間も経たないうちに、この場所に来たのです。しかし、私はとても自惚れが強く、頭でっかちで、きっとサイ・ババから、「おや、GRAHAMさん、来ましたね。ここに来てお茶でも飲みなさい」と言われると思っていたのです。だが、彼は私のところを素通りして行きました。来る日も来る日も、彼は私を素通りして行きました。そうしているうちに、次第に私の自惚れは、消えていきました。

GRAHAM FARRANT

 

私はダルシャンには必ず出ます。と言うのは、ダルシャンではババに拝謁することができるからです。私たちはその御姿を拝見することによって、ババとの心の繋がりを持つことができるので、私たちにとってダルシャンは必要なのです。その場にいるだけで私たちは高揚します。そしてもちろん、インタビューが与えられる可能性があります。それはとても言葉には言い表せません。

ARTHUR HILLCOAT

 

ダルシャン中、何人もの帰依者たちがババにインタビューを申し入れます。インタビューとは、マンディール内の一室で、個人的にババに拝謁することです。インタビューの時、サイ・ババは帰依者たちに語りかけ、個人的な助言を与えます。僅かひと握りの人々だけがインタビューを許される時もあれば、ババが一つのグループ全体に一度に入室を許可する時もあります。

 

私はこれまでに、三回ババからインタビューをいただいています。最初は昨年の十二月一日です。ババは、「あなたは何のためにここにいるのですか?神はどこにいますか?教育とは何ですか?学問とは何ですか?」ババは、私が、「スワミ、あなたは私の心のそばにおられます」とお答えすると、ババはハンカチを丸めて、「神の大きさはこれくらいだと言うのですか?これは何ですか?」とお聞きになりました。私はそれがハンカチだとは知っていましたが、それまでの四つの質問を間違えたので、黙っていると、学生に、「この人にこれが何だか教えてあげなさい」と言われました。学生が、「ハンカチです」と答えると、ババは、「いい子だ。その通りだ」とお答えになりました。そしてババは、「スポンジの水を絞るように、私があなたがたのエゴを絞り出すことを許さない限り、あなたがたは私の愛で満たされることはありません」と。

GRAHAM FARRANT

 

私が二十年前にここに来た時、ここでの生活は地獄のようでした。なぜなら、それはまるで地獄に建てられたアシュラムだったのです。それに西洋人は多くてせいぜい十人から二十人足らずで、どこにもトイレはなく、私たちは常に体を壊していました。そして私たちのほとんどが、ここにいる間に二、三十キロ痩せました。本当にそれはひどいものでした。ところが、私が先週ここの門をくぐった時には驚きました。見覚えのあるものは何もなく、すべてが真新しくなっていたのです。以前この辺りには、一階建ての四角い小さな建物がいくつかあって、後はマンディールの前に、それは小さな建物が二、三あったのみでした。そしてここに来るには、道路もなく、車で泥の山を横切らなければならず、それはまるで何だか地の果てのようでした。

BRUCE BRADBURY

 

一九四四年、サイ・ババが十八歳の時に、プッタパルティの村の中央に建てられた最初の寺院の敷地を囲んでいる壁と門は、現在閉ざされ、その中の建物はもう使われていませんが、昔の寺院という意味でハタマンディーラムと呼ばれ、記念に残されております。そして、この小さな部屋が最初の寺院であり、ここで礼拝が行われていました。小さな祭壇には、今でもシルディのサイ・ババと、若い頃のサティア・サイ・ババの胸像が置いてあります。

 

初めて私がここに来てダルシャンに出た時、スワミは私のところに来られて、「どこから来たのですか?」とお尋ねになりました。私が、「カリフォルニアです」とお答えしようとしても声が出ず、何とかお返事しようとして声を出そうとしていると、彼は微笑まれて、「のどがどうかしたのですか?」とおっしゃいましたので、私は、「スワミ、それは私があなたを心から愛しているからです」とお答えしました。私はそれまで、初めてスワミにお会いした時ほど、強烈な愛を感じたことがありませんでした。

JOY THOMAS

 

アシュラムの入り口に通じる道に大きな門が建っており、それには世界の五大宗教のシンボルが飾られています。愛はすべてを結びつける要因であり、愛こそが最も重要である。サイ・ババは、世界には宗教は一つしか存在せず、それは愛の宗教であると言っています。決して彼は、新しい宗教を説いているのではありません。彼は、私は唯一の神であり、人々の心から湧き上がる祈りに答えます。私と一緒にいたり、私に関する本を読んだりすれば、あなたがたは、より良い仏教徒、より良い回教徒、より良いクリスチャンになるでしょう、と言っているのです。

 

カトリック神学の立場から考えると、新しいジレンマに行き当たります。それに対して、私は一つの問いかけによってそれに答えようと思います。私たちは、神によって人間の肉体をとって地上に生まれることは本当に不可能なことなのか?私たちの神学によって、神が人間の姿で化身することを阻むことはできるのか?と考えてみなければなりません。私たちは、神の力を制限することはできません。神はご意志のままに、いつでも生まれ変わることができるのです。私たちはただ、サイ・ババのような人が、実際に神の力を持っているか否かを確認するだけでよいのです。

MARIO MAZZOLENI

 

インド全国にはサイ・ババの学校が何百もあり、それらの学校の入り口の門には、崇高な叡智の山という言葉が刻まれています。そしてこれらの学校で、幼稚園から大学に至るまでの教育を受けることができます。現在インドの全国各地からはもちろん、外国からも多くの留学生が来て学んでいます。ある中学校では、サイ・ババの母親に因んで、シュリマティ・イーシュワランマ中学校と名付けられました。学校では子供たちは皆、バジャン、すなわち神を讃える歌を歌います。そしてバジャンの最後には、必ずアラティが歌われます。アラティとは光の儀式という意味で、それはヒンドゥー教の儀式の一つです。また学科では通常の学科だけが教えられているのではなく、霊性教育が施され、人生の意味が教えられます。特定の宗教が、他の宗教より重視されることはありません。サイ・ババは、最近の教育は生徒たちの知能や技能を発達させはするが、立派な人格を形成することに関してはほとんど関心を払っていない、と言っています。

 

一九五〇年、サイ・ババが二十四歳の頃、プッタパルティの村はずれに新しい寺院が建てられました。そしてこのマンディールを中心に、ババのアシュラムであるプラシャーンティ ニラヤムが形成され、過去四十年の間に着々と成長し発展してきました。入り口を入ったところに飾り気のない建物があり、来訪者たちはここで登録した後、次の事務所に行って宿泊所の割り当てを受けます。アシュラムを訪れる人々は、三万人を超えることがありますが、その全員を収容できる宿泊施設があります。子供連れの家族にはこれらのアパートの一室があてがわれ、また一人で来ている人には、三百人以上が眠ることができる、シェッドという建物の一角が割り当てられます。シェッドは、敷物も家具も何もない床だけの建物です。しかし外国から来た人たちは、マットレスや座布団、蚊帳などが村で安く買えるので、ある程度の快適さを確保することができます。どちらを見てもサイ・ババの写真があります。なかには、自分の寝床の横に、ババを飾る小さな祭壇を作っている人もいます。

 

何万人もの来訪者たちのための食事は、ボランティアの手で準備され、食堂では僅かな小銭を払えば、完全菜食の料理が食べられます。

 

アシュラム内の木に立てかけてある黒板には、サイ・ババの言葉から引用した一日の教えが書かれています。

 

プッタパルティのサイ・ババが、何を与えてくれるかを数えあげたり、予測したりしてはなりません。私が与えるのは、あなたがたを私に惹きつけるためではありません。あなたがたをアーナンダで満たすためだけに与えるのです。アーナンダを降り注ぐのが私の仕事です。

 

一九六〇年代に、サイ・ババはますます広く国際的に知れ渡り、数多くの本が出版されました。アシュラムの本屋では、四十か国語で七百種類以上の本が売られています。

 

人間の価値基準の最初のものは、真理です。真理とは、宇宙の根本です。それは神であり、神は私たち一人ひとりに内在しています。いったん私たちがこの大事なことに気づけば、神と一体になるという、人生の新しい目的を持つことになります。そしてこの真理を実践し始めるようになります。これが二番目の正しい行いとなり、それを実践するようになります。正しい行いを実践すれば、三番目の平安がもたらされます。心の平安です。そして平安に到達すれば、愛を与えたり受けたりすることができるようになります。真理、正しい行い、平安、愛という特質を培った人は、非暴力の人になります。人間と自然に対して、さらに環境汚染をはじめとするさまざまな問題に対して、非暴力の人になるのです。そして完全な人間、霊的な人間になります。それが私たちの人生の目的です。私たちは、消費したり、他の活動をしたりする為に人生を送っているのではなく、本当の自己を実現するために生きているのです。

FRANCESCO POLENGHI

 

アシュラムの中でも、多くのものが売られています。そのなかでもよく売れているのは、バジャンのカセット、ビデオ、ペンダント、メダル、指輪、ステッカー、カレンダー、バッジなどです。しかし何と言っても一番売れるのはサイ・ババの写真で、何百万単位で売られています。また最近出版された“神は降臨する”という本も、帰依者たちの間で大変評判になっています。それには、ノストラダムスとエドガー・ケイシーの預言が載っており、それらの預言は、自分は神であると宣言しているサイ・ババに当てはまりそうです。

 

基本的には信仰の問題です。またサイ・ババは、どれほど多くの人間の知恵を結集しても、私を理解することはできないと言っています。私たちの理性や感覚は限られていて、そのようなことを把握することはできないのです。ババがヴィブーティを物質化するという事実だけをとっても、私たちはそれを見ることができるだけで、それを理解したり説明したりはできないのです。

ALBERT BARELDS

 

マイソール付近の寺院で、不思議な現象が起きています。この寺院には、サイ・ババとシルディのサイ・ババ、それにヒンドゥー教の神々が祀られています。ここにある一枚のサイ・ババの肖像画は、ほとんど完全にヴィブーティで覆われています。そのヴィブーティは、ひとりでに現れたものだということです。

 

このヴィブーティは、ここに自然に出てきます。

   本当にこの写真から自然に出てくるのですか?

はい、ひとりでに出てきます。特に日曜と木曜のバジャンの時には、ヴィブーティが落ちてきます。

   それは取ることができるのですか?

はい、もちろん。

B.HALAGAPPA

 

帰依者たちの話によれば、この灰は、この肖像画からばかりではなく、世界中のありとあらゆるサイ・ババの絵や写真からも出てくると言います。そしてそれは、取り除いてもすぐにまた現れるのです。

 

不思議な現象は、本当に起こるのです。世界中の科学者たちがババを否定しようとやって来ましたが、結局奇跡を目の当たりに見て、それらが真実であることがわかり、納得します。しかし私は、何年か経つうちに、奇跡だけがすべてではないということがわかりました。本当の奇跡とは、心の内面で体験する内容だと思うのです。そしてそれは、意識が変わる、人生が変わるのです。

SHAMA SMITH

 

我々は、帰依者たちやアシュラムを訪れる人々に、サイ・ババが自分たちにとってどういう存在であるかを聞いてみました。

 

心の奥にある本当の自分です。神を引き合いに出すのなら、ババは私にとって神であり、パラマートマ。

MICHAEL D.McCARTY

 

私はまだサイ・ババがどういう人なのかわかりませんが、彼は愛を呼び覚ます人だと、今朝思ったところです。そしてここに来てから十三日経ちますが、ババに対する愛を強く感じます。

MONICA LILIAN GONZALES

 

彼は、私が世界中で一番好きな人です。私にとってババは、私たちの本来の姿を示す見本です。私たちは、彼ほど完全には本当の自分に気がついていないのです。また私は、ババが私たちとまったくかけ離れた存在だとは思いません。なぜなら、私たちが完全に進化した姿がババだと思うからです。

BRUCE BRADBURY

 

私はクリスチャンとして育てられ、イエスの復活を信じていました。そして私は一瞬にして、これこそが再臨のイエスだとわかったのです。私にとって、スワミは神の化身です。神は再び地上に降りてきて、私たちの間を歩いておられるのです。

GRAHAM FARRANT

 

クリスマスには、アシュラムに大勢の西洋人帰依者たちがいるので、みんなでクリスマスキャロルを歌います。そしてクリスマスの朝早く、サイ・ババは特別に、マンディールのバルコニーに姿を表します。

 

私はサイ・ババの講話を読んでいる時に、反キリストの問題を解決しました。ババの講話は、宗教的に奥が深く、福音書や宗教的伝統に基づいていますから、誰でもそれを読めば、ババは反キリストではあり得ないことが確信できます。確かに福音書には、反キリストの危険が警告されています。聖者ヨハネは、反キリストを見分けるには、その人の行いの成果を見ればわかると言っています。私はババに会いに来る人々に、ババが何を成し遂げたかを見て判断するよう勧めます。

MARIO MAZZOLENI

 

サイ・ババは、巨大な講堂でクリスマスの講演をしました。その演壇の高いところに、シルディのサイ・ババと現在のサイ・ババの、二つの等身大の像が飾られています。この講演の中で彼は、すべての宗教がひとつであることや、愛を施すこと、さらにクリスマスのお祭りそのものについて話しました。

 

クリスマスは、アメリカ、ドイツ、日本、イタリアその他、多くの国々で祝われています。ところが、それはどのようにして祝われているのでしょうか?···贅沢な食べ物や飲み物を腹一杯楽しみ、ダンスを踊り、時間を無駄に過ごすことによって祝われています。あなた方は、ここでも心行くまで飲むことができます。しかし、ここであなた方が飲むものは何でしょう?···それは、純粋な神の愛です。

あなた方がどこにいても、どの国に住んでいたとしても、宗教的差別を許してはなりません。あなた方をこうしてここに連れてきたものは愛です。あなたがたを結びつけているものは、愛の絆です。愛が私たちをつないでいるのです。愛は人々を刺激します。愛は、全人類にとって、喜びの到来を予告するものです。この愛が、一日一日と育っていくよう心がけなさい。

 

 

シュリ・サティア・サイ・ババが並外れた存在であることは明白である。世界中の何百万という人々の心に訴えかける彼の力は、議論の余地はありません。しかし、彼が行う奇跡に対しては多くの疑問が残ったままです。一つの奇跡を、それが単なる儀式であるとか、あるいは幻想に過ぎないと説明してみても、それによってその他の奇跡のすべてを説明することはできません。また、何百万という帰依者の揺るぎない信仰も説明できません。帰依者たちは、ひたすらサイ・ババのメッセージである、彼の人生そのものに耳を傾けているのです。

 

📼GOD lives in India  (インドにおわす神)  文字起こし