「執着のない者」には、万物に対して本当の愛があります。
その人の愛はただ純粋なだけでなく、神聖な愛でもあります。
その愛はシャーンティ(平安)の具現です。
すべてのラーガ、すなわち、激情や執着がなくなれば、
人は疑いなく神に到ることができます。(サイ・ババ、1962)
心を浄化すること、偽りの自己から解放されること、および、愛である真我を実現することは、同じことについての異なる表現にすぎないことが明らかになったかもしれません。どのように表現されていようと、プロセスは同じであり、愛がその真髄です。神である愛を実現するには、三つの段階があります。サイ・ババは、イエスに関連してその段階を説明しています。
ほとんどの求道者たちのように、
イエスは初め、物質世界で神を探しました。
けれどもすぐに、この世は人の想像によって創り出された
万華鏡のような画像であることに気が付きました。
そのため、イエスは自らの内に神を見出そうとしたのです。
カシミールでのヒマラヤの僧院、
その他、東洋の修道や哲学的探求の学び舎での滞在は、
イエスにさらに大きな気づきをもたらしました。
「神の御使い」という姿勢から、
そのときイエスは自分を「神の息子」と呼ぶことができました。
関係の絆が深まったのです。
「私」はもう何か遠くの光か実体ではなく、
光が「私」の一部となったのです。
身体意識が優勢なときには、イエスは御使いでした。
心的意識が浮上すると、イエスはより強く近さと親密さを感じ、
それゆえ、その段階では父と子の絆が自然に思えたのです。
その後、神的意識が確立するにつれて、
イエスは、『私と父は一つである』と宣言することができました。
三つの段階は、それぞれ
「私は光の中にいる」、
「光は私の中にある」、
「私は光である」
と表現してもよく、
ヒンドゥー哲学に言う
ドワイタ(二元論)、
ヴィシシュタードワイタ(条件付不二一元論)、
アドワイタ(不二一元論)
の段階に相当するでしょう。
すべての二元性が消えたときが、その最終段階です。
これがあらゆる宗教的学問や教えの真髄です。(1980)
本書『心を浄化する方法 Purifying the Heart』は、第一段階から第二段階───「光は私の中にある」───への移行に焦点を当ててきました。私たちが経験するあらゆることは自分自身の反映、自分の思考の産物にすぎないと認識することによって、私たちは「心的意識が浮上する」に十分なほど、心を浄化することができるようになりました。
第一段階から第二段階へと移行する過程では、私たちはさらに愛情深くなる「自己」の連続を経て進みます。たとえば、病気がもたらす愛情ある教えに気づいて実践したり、あるいは、心を閉ざしていた執着を解放したりするならば、新たにもっと愛情深い自己の感覚がもたらされ、私たちの世界はこの変化を反映します。このようなシフトの中には、実質的に知覚不可能なものもあれば、間違えようのないものもあります。それぞれのシフトは、古い「自己」が超越され、新たな、より愛情深い自己が古い自己に取って代わったことを意味します。シフトのたびに、私たちは偽りの自己との同一視を減衰させ、それによって、愛との自己同一視を増強します。私たちの現実はつねに私たちの偽りの自己の鏡なのですから、意識がシフトするたびに、執着を解く練習の対象となる新たな「現実」───愛を実現するための完璧な現実───が創り出されるのです。
いずれかの時点で、私たちは自分が偽りの自己ではなく、偽りの自己であったこともないことを、また、慈悲と愛が私たちの本性であることを悟ります。その他すべてには本当の意味での現実性はありません。
「あなたが現実と見なすものは現実ではありません。あなたが現実ではないと思うものが唯一の現実です。神のみが一つの永遠なる現実です」(サイ・ババ、1998)
私たちは、自分と世の中は幻想であることを、そして、それらが現実であるかのように信じて行動することが苦しみの原因であることを理解しています。私たちは、自分が演じる役割でも、自分の人間関係でも、人格でも、履歴、感じ方、信念、精神、身体、あるいは、私たちが私、自分、私のものと考えてきたその他いずれでもないことを知っています。偽りの自己が実在だと信じることから、それが幻想だと知ることへのシフトは、私たちが自分の人生を築いたまさにその基盤を揺るがします。あらゆること───人生、人間関係、自分がだれかという感覚に関する以前の理解全体───すべてが疑問に付されます。何も手付かずには残りません。何も以前考えた通りではありません。これは世界を揺るがします。
私の経験では、まだ心が純粋でないうちは、自分が唯一者であることを知りながらも、まだ私たちは自分を唯一者から分かれているように経験している個別の自己であると感じます。私たちには未だに偽りの自己との同一視がいくぶん残っていて、それが、私たちの心がまだ純粋でない所以であり、唯一者から分かれている感覚を生じさせるのはこの執着です。
私たちは自分を偽りの自己でも唯一者でもないものとして経験しますから、明確なアイデンティティの感覚がありません。偽りの自己は形のない唯一者へと消滅することを恐れ、その不安を和らげるために、かつてこの自己と定義された以前の慣れ親しんだパターンのいくつかと再び自己同一視することに逆戻りして、自分を包み込もうと脅かす唯一者に対して防衛しようとするかもしれません。偽りの自己の掌握へと戻るか、あるいは、偽りの自己から完全に自由になって、本性を受け入れるように努めるか───私たちには明白な選択肢があります。イエスはこの選択について話しています。
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。
あなたがたは、神と富とには兼ね仕えることはできない。
それだから、あなた方に言っておく。
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、
何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。
命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださる。
あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからととて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。
野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、
神はこのように装ってくださるのなら、
あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
あなたがたの天の父は、
これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存知である。
まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。〔マタイ六章二十四節〜三十三節〕
所有物や、個人的、財産的な安定に執着しているのであれば特に、愛を選ぶには深い信仰と信頼を要します。あらゆる思考や形状への執着を解く練習をすることにより、また、愛のみを実在として扱うことを学び、唯一者が私たちのあらゆる需要の面倒を見てくれると信頼することにより、私たちはこの信仰を獲得します。
「この世には、愛の他には何も存在しません」(サイ・ババ、2001)
愛のみを実在と見なし、その他すべては二次的か非実在として扱うことの重要性は、どれほど強調しても足りません。偽りの自己の本質は、愛よりも他のものを優先させることです。私たちはそうしてはなりません。
偽りの自己から自由になるには、すべての霊性の導師や霊的な概念への執着さえも、手放さなければなりません。神や仏陀、イエス、モハンマド、ラーマ、クリシュナ、サイ・ババ、および、その他の導師についての概念や信念は精神の反映にすぎず、唯一者ではありません。私たちが執着するならば、そうした概念や信念に固執することは、あらゆる二元的概念や姿形を超えている唯一者から私たちを隔てます。ですから、最後には、私たちはそれらをすべて手放さなければなりません。
仏教の禅宗には、「仏陀に出会ったなら、仏陀を殺せ」という格言があります。これは、たとえ仏陀を崇拝する概念であっても、あらゆる霊的概念は消えなければならないことについての禅宗流の表現です。私たちは本当にそれだとサイ・ババが言う唯一者を知るためには、私たちが「出会い」得るどのような仏陀〔覚者〕も、二元性の幻想において「死な」なければならない姿形にすぎません。二元性の幻想の中で現れる霊的な人物に執着することは、私たちが唯一者とは分かれていると信じる幻想の中で未だに迷っていることを意味し、確実に私たちをこの幻想という罠に嵌ったままにしておきます。唯一者はこの二元性を超越していて、あらゆる概念や姿形を超えています。唯一者は私たちとは別に私たち以外の「外界」にあるのではなく、私たちの真の自己です。
サイ・ババは、「あなたは神です。唯一者しかいません」(ヒスロップ著、日付不明) とこれを確認しています。このゆえに、サイ・ババは長年、私たちが自分の心(フルダヤーカーシャ)の中にババを見出すように、ババの物理的姿形への執着を解くことを促してきたのです。二元性の幻想におけるあらゆる姿形───サイ・ババの姿でさえも───への執着は、本当にサイ・ババがいる、私たちの心の中の唯一者から私たちを隔てます。
ですから、唯一者を実現するためには、すべての霊的な概念や信条、経験、教師、およびアヴァターへの執着を解く練習をしなければなりません。私たちが精神に執着しなくなるにつれて、思考は徐々に浮上しなくなり、心はますます開きます。けれども、私たちが自分を偽りの自己と同一視している限り思考は浮上し続けますから、どの思考にもかかわることなく、つねに思考を静観してください。思考への執着をやめるにつれて、思考は減衰し、その合間の間隔は広がります。
「一つの思考がやみ、次の思考が生じてこないとき、私たちは安らかではないでしょうか?その瞬間に注意を向け、その瞬間と一つになり、その中に定着していなければなりません。そうすれば、絶え間なく続く平安があるでしょう」(サイ・ババ、1988)
偽りの自己には私たちの思考が与える以上の現実性はないのですから、偽りの自己は思考の合間には存在しません。それは単なる思考であり、幻想という二元性の世界の中では何の現実性もない概念にすぎません。けれども、私たちは、偽りの自己の不在という真理を実際に経験するまでは、偽りの自己が精神によって創り出された幻想だとは信じないでしょう。
「真理が存在するのは、思考が全面的にやんだときだけです」(バルセカール、1992)
偽りの自己を支える思考との自己同一視をやめるにつれて、身体との自己同一視は薄れ、自分と他人の間の境界は消え始め、偽りの自己の基礎そのものを揺るがします。意識は自然に身体を超えて広がります。愛は拡大であり、偽りの自己は縮小です。そのときに無形の感覚が起きてくるかもしれません。
「神は無形ですから、神と一つになるためには無形にならなければなりません。これは何を意味するのでしょう?これは身体への執着を捨てなければならないことを意味します」(サイ・ババ、1997)
身体への執着をなくすためには、精神が完全に静まらなければなりません。サイ・ババは、身体との自己同一視を維持していた精神が不在のとき、偽りの自己は消え、一体性のみが残ると言います。
「一体性が経験されるとき、精神はまったく存在しません。この意識状態においては、すべてがブラフマン〔神〕です。この状態では、プレーマ(愛)のための場所があるだけです」(サイ・ババ、1996)
カビールは、どのように愛である意識を知るのかを鮮明に表現しています。
主の愛のワインは
飲めば飲むほど
美味になる
けれども、手に入れるのは難しい
なぜなら、ワイン商人は、おお、カビールよ、
代わりに、あなたの頭を要求するのだから(1984)
「頭」が消えれば、心だけが残ります。
「愛を育むなら、他には何も育む必要はありません」(サイ・ババ、ヒスロップ著、1978)。
Purifying the Heart
心を浄化する方法
(サティヤ・サイ出版協会)