アマナスカムとは、

全宇宙は唯一の実在であるブラフマン以外の何ものでもない

という悟りを意味します。

このブラフマン───唯一無二───の悟りがあるとき、

頭(マインド)さえも存在しなくなります。

森羅万象における多様性を知覚するという結果を引き起こすのは、

頭の作用にすぎません。

一体性が経験されるとき、頭はまったく存在しません。

この意識状態では、すべてがブラフマンです。

この状態においては、プレーマ(愛)のための場所があるだけです。(サイ・ババ、1996)

 

前出の章では、心がより完全に愛へと開くように、偽りの自己のさまざまな側面に対する執着を手放す手法を学びました。今度は、そのすべてを結集して、偽りの自己全体への執着を解放するやり方に焦点を当てます。

私たちが自分を偽りの自己と同一視したままでいるのは、思考による作用です。ですから、前記の引用文の中でサイ・ババは、愛である真我を知るときには、「頭はまったく存在しません」と言っているのです。何と驚くべき所説でしょう!それでも、これは真実です。私が受け取った愛の理解は思考から来たのではありません。思考はまったくありませんでした。サイ・ババが説明している通り、「あなたがこの世の中の本性を理解できない原因は、あなたの頭です」(1990)。

偽りの自己の幻想は、ひとえに思考によって創られ、維持されているのであって、頭の中以外のどこにも存在しません。ですから、私たちが偽りの自己から自由になり得るのは、思考がないときだけです。幻想は、私たちは身体をもっている(もしくは、私たちは身体である)という思考から始まります。

「アハムが自らを身体とし同一視すると、アハムカーラになります。アハムカーラは偽りの『私』であり、本当の『私』ではありません。つねにアートマを隠しているものは頭です。(中略) 頭のない『私』はアートマ、すなわち、原初の純粋性の状態にある真我です。頭と結びついた『私』は偽りの自己、すなわち、ミッティヤートマです」(サイ・ババ、1990)

頭は、長年にわたって、想定された自己を定義して説明する思考を自分だとする、偽りのアイデンティティに磨きをかけます。自分が考えている、ということを想定しない思考を見つけようとすれば確認できる通り、すべての思考は、それを考えている自己の存在を想定しています。この恒常的な思考の連続は、それぞれの思考が偽りの自己の存在を想定していて、その自己が実在であるという幻想を創り出します。思考は、映画の個々のコマのようなものです。内なる画面の上で思考の連続を十分に速く閃かせると、思考は偽りの自己が存在するという幻想をもたらします。

しかしながら、あなたが自分だと思う自己はただそれだけのもの───「思考」であり、それ以上のものではありません。朝、目覚めると、あなたは昨日あなたであった人物に関する思考と自分を同一視し、あたかもこのアイデンティティが本当であるかのように行動することで再びそれを装うことにより、偽りの自己を生活に呼び戻すのです。そのことを実感することなく、あなたは過去にあなたであった人物についての記憶や逸話の膨大な貯蔵庫から、一瞬ごとに自分と自分の世界を再び創り出しているのです。

偽りの自己の幻想はひとえに思考によって維持されているのですから、思考が停止するならば、幻想は崩れ、愛のみが存在するでしょう。

「一体性が経験されるとき、頭はまったく存在しません。この状態においては、プレーマ(愛)のための場所があるのみです」〔サイ・ババ、1996)。

したがって、心を浄化するためには、頭との自己同一視をやめなければなりません。これはよく、頭のコントロールを学ぶこととして言及されています。けれども、これは頭をコントロールするという問題ではなく、頭にコントロールされることから解放されるという問題です。もし頭をコントロールしようとするなら、だれがその作業を取り仕切るのでしょう?もちろん頭です。頭が征服されるためには、頭への執着を解き、頭との自己同一視をやめなければなりません。自分を頭と同一視して執着したままでいる限り、頭は私たちをコントロールして、偽りの自己であるという幻想を長引かせ、それによって私たちを愛から隔て続けるでしょう。サイ・ババは次のように記述しています。

 

頭がある限り、欲望は去らないと知ることは重要です。

欲望がある限り、

「私」や「私のもの」という偽りの観念が消えることはないでしょう。

「私」や「私のもの」という感覚がある限り、

アハムカーラ───身体との誤った自己同一視───が消えることはないでしょう。

アハムカーラが消えない限り、

アグニャーナ、すなわち、無知も、また消えることはないでしょう。

要するに、

アートマ グニャーナ、すなわち、真我の知識、

アートマ ダルシャン、すなわち、真我のヴィジョン、

アートマーナンダ、すなわち、真我の至福、

など、どのような呼び方を選ぼうが、

それを手に入れるには、

頭の撲滅の他には方法がないことを意味しています。(1990)

 

サイ・ババは、愛である真我を知るためには、「頭を根絶」しなければならないと言っています。どのように頭を根絶するのでしょう?

「愛だけを通して、頭を根絶することができます」(サイ・ババ、2000)

 

十五世紀のグニャーニ〔無知を克服した人〕、カビールは、頭の根絶をより詩的に表現しています。

 

頭は、落ち着きのない鳥のように、

欲望の荒野を飛び続け、

激情の樹にとまり続ける───

愛の鷹が上から襲い掛かってこない限りは (カビール、1984)

 

サイ・ババは、仏陀が次のように語ったことに言及しています。

「私と真我の悟りの間に立ちはだかったのは頭だった。今日、私は頭の束縛から自由である。それが私の至福の原因である。頭がないときには、至福がある」(1999)

しかしながら、頭が支配していなければ真我の悟りや至福や愛が起きてくることを、偽りの自己は決して信じようとしないでしょう。ですから、偽りの自己は、頭から解放されることは悪い考えであるか、気違い沙汰であるか、上手くいかないか、あるいは、不可能だとあなたを説得しようとして、おそらくあらゆる類の疑惑や恐れや懸念を生み出すでしょう。偽りの自己は、頭を失ったり、ふがいない怠け者になってしまうという思考を使って、あなたを怯えさせるでしょう。偽りの自己は自分を頭と同一視していて、自分は頭であると信じているかもしれません。それで、頭なしには自分は存在しないだろうと恐れるのです。これは本当です。頭は個別の自己がいるという幻想の源ですから、頭の壊滅は偽りの自己の破壊を意味します。このために、偽りの自己は、思考との自己同一視を解く練習に反対するでしょう。

 

ラメーシュ・バルセカール〔現ムンバイ在住の不二一元論者で元インド銀行頭取〕は、自らが「思考するマインド」と「行為するマインド」と呼ぶものの間に有用な区別をしています(1992)が、これは、あなたが練習をすることができるように、偽りの自己の恐れを和らげる役に立つかもしれません。

思考するマインドとは、判断、質問、比較、疑惑、恐れ、分析、分類、思索、欲求、心配、考察、想像など、要するに、基本的にあらゆる思考活動をする概念化のマインドです。思考するマインドは、あらゆる心を閉ざす思考の源泉です。これはサイ・ババが「モンキー・マインド」と呼ぶものです。思考するマインドは、偽りの自己の幻想、つまり、私や自分という感覚を維持するものです。したがって、あなたを愛から隔てるのは思考するマインドです。

 

一方、行為するマインドは記憶を使いますが、現在の瞬間に自らが携わっていることに全面的に没入していて、過去や未来の結果には無関心です。行為するマインドには、私もしくは自分が何かをしているという感覚がありません。ただ行為していることが起きているだけです。行為するマインドにはつねに時がなく、絶対的に現在です。たとえば、今起きていることに完全に没頭していて、起きていることとの分離を自覚していないときのように、「行為していること」がひとりでに起きているように思えるとき、私たちは皆、行為するマインドを経験していたのです。時は存在していません。

アスリートたちは、自分が行為していることを意識していないとき、つまり、「ハイな状態にいる」ときに最高の結果が出ると言います。思考するマインドの介入なしにこの種の自発的な発生があるとき、思考するマインドが現在から分かれて起きていることに気づくまでは、自分が行為者であるという感覚はありません。

私は運転中に、自分と存在するものすべてとの間の分離が消え、自分は存在せず、ただ一体性のみがあったときのことを覚えています。この状態は、私の思考するマインドが起きていることに気づいて隷属し、それにより私の「自意識」と二元性を復活させて一体性を終わらせることによって、私を現在から分かつまで続きました。心を浄化するプロセスを教えるとき、私は思考するマインドが邪魔しないように、思考するマインドとの自己同一視をやめます。すると、行為するマインドが、起きていることへの思惑なしに自発的に呼応して、時々私を驚かせます。「私の」最上の仕事はこのようにして起こります。私はこれを、サイ・ババに仕事をさせることだと考えています。

 

私たちは確かに物事のやり方を学ぶために頭を使ってきましたが、一方で、思考するマインドが存在しないときに、私たちは最も技巧的で、生産的で、創造的です。

数例をあげれば、数学者のアンリ・ポワンカレのフックス関数に関する悟り、リヒャルト・ワーグナーの『ラインの黄金』〔四部作のオペラ『ニーベルングの指環』の一作目である前夜劇〕の音楽への目覚め、アマデウス・モーツァルトの音楽が完成作品として一瞬に閃いたこと、ニコラ・テスラの電子の発明、アウグスト・ケクレの分子構造の理解〔有機化合物のベンゼン環を発見〕、それに、ロングフェロー、シェリー、ゲーテの著作がそれぞれ自らに「閃いた」ことの経験などです。“Higher Creativity”〔高次の創造性の意〕(ハーマン/ラインゴールド、1984)という本には、こうした事例が数多く記述されています。

より深い霊的理解は、私が啓示されたことについて考えていないときや、繋がってさえいる何かをしているときにやって来ます。運転しているか、散歩しているか、瞑想しているとき、つまり、思考するマインドで何かを理解しようとしている以外ほとんど何でもしているときのように、私の思考するマインドが不在のときにそれは起こります。私の本性を啓示した経験を引き起こしたのは、私の思考するマインドではないことはわかっています。思い返せば、人生での多くのターニング・ポイントは、自分が生じさせたから起きたのではなく、頻繁に自分が想像もできなかった成り行きで、ただ起きたのです。思考するマインドと偽りの自己が起きることを生じさせているのでなければ、だれが、もしくは、何が、それをしているのでしょう?もちろん、唯一者です。これまでに起きたことを決定してきたのは、決して偽りの自己ではなかったことを考えてみてください。

偽りの自己から自由になるには、思考するマインド、および、その概念的思考との自己同一視をやめなければなりません。思考するマインドは二元性の大要です。思考するマインドと自己同一視することは、頭の撲滅と愛の実現を妨げます。思考するマインドが存在しているときにはつねに私もしくは自分という感覚があり、一方、行為するマインドにはその感覚がないので、自分でわかります。

概念的思考は、自分以外の目に見える実在について概念化している個別の自己を想定しますから、概念的な考え方は、偽りの自己が自らのアイデンティティを保護して維持する、お気に入りの手段です。概念的な考え方にふけっているときには、描写するか、名づけるか、分析するか、定義するか、比較するか、分類するか、思い出すか、想像するか、解釈するか、判断するか、もしくは理解するために、一体性から分かれてしまっているので、私たちは本当の意味で存在していません。完全に存在することによってのみ愛は顕現することができるのに、これは本当の意味で私たちが今ここにいることを妨げます。概念的な考え方にふけっている限り、私たちは愛である唯一者を覆い隠しています。ですから、愛を知るためには、頭を静めなければなりません。

 

 

あなたは精神を静めることが可能であることを疑っているかもしれません。アルジュナもまた疑っていました。

「いかにも、精神は強情で、強力で、俊敏で、変わりやすいものです。クリシュナよ、精神は風ほどにも打ち破り難いと思います」

クリシュナは、

「確かに、無類の勇者よ、精神は屈服させ難く、落ち着くことがない。しかし、クンティーの息子よ、訓練によって、また、世俗の物事への関心を断ち切ることによって、精神を制御することができるのだ」(バガヴァッド・ギーター六章三十四節、三十五節)と応じます。

サイ・ババは、「体系的な訓練(アビヤーサ)によって、また、厳格な探求と無執着(ヴァイラーギャ)によって───精神は征服することができます」(1996)と同意しています。

二人のアヴァターが、精神の征服は可能だと請け合っていることを知るのは、勇気づけられます。精神を征服するためには、思考するマインドへの無執着(ヴァイラーギャ)を練習しなければなりません。

「神を実現するためには、神の名の復唱のような修行はほとんど役に立ちません。不可欠なことはアマナスカ(精神を静めること)です」(サイ・ババ、1999)。

 

私たちはもちろん、直接マインドを静めることはできません。では、それをするのはだれでしょう?もちろん、偽りの自己です。偽りの自己は、そのような作業のすべてを取り仕切り、支配し続けるでしょう。ですから、偽りの自己と精神から自由になるために私たちができる行為は何もありません。代わりに、私たちは思考との自己同一視をやめることによって、行為することをやめなければなりません。というのも、偽りの自己が実在だという幻想は、思考が維持しているのですから。

偽りの自己が何かをすることを要求する霊的な訓練は、私たちがこの自己と同一視し続けることを確実にします。したがって、私たちは一切の行為をやめ、ただあるものを静観しなければなりません。偽りの自己を維持する思考との自己同一視をやめれば、そのような思考や偽りの自己は徐々に衰退し、愛のみが残るでしょう。

 

精神を静めることは、思考や信念への執着の度合いに応じて難しく、思考や信念が創り出したものに対して残っている執着によって妨害されるでしょう。したがって、もし思考の発現に対して続いている執着が練習の邪魔になるのであれば、執着の源泉である思考での練習を再開できるほど十分に執着が衰退するまで、執着を解き放つことに焦点を当ててください。

それでもまだ思考との自己同一視をやめることができないのであれば、そのときは、精神は完全に静めることができるはずだという判断や要求をせず、あるがままの状況を受け入れてください。思考や偽りの自己への執着を解くためには、「モンキー・マインド」も含めて、たとえそれが何であろうと、判断も、比較も、同一視も、拒絶もすることなく、何であれ今あるものをあるがままに迎え入れることにオープンになることは不可欠です。ただ冷静な静観者でいてください。何でも現状とは異なっていることに執着しなくなるにつれて、思考を静観する能力は着実に向上し、思考は徐々に衰退することがわかるでしょう。

たとえば、音楽を聴いているときには、鑑賞者という感覚が消えて音楽だけがあるように、究極的には、思考するマインドや静観者の感覚さえも後退し、もはや個別の静観者は存在せず、ただ静観することだけが進行しているでしょう。思考や偽りの自己の関与はありません。思考するマインドは消え、私が「純粋意識」と呼ぶものだけがあります。

 

 

偽りの自己が存在し、偽りの自己は実在であるという信念は、その他すべての概念的思考の基礎ですから、精神が静まるには、この信念を維持する思考との自己同一視をやめなければなりません。ですから、私たちは、偽りの自己概念との自己同一視をやめる方法を考えることから始めましょう。

自己概念は、個性、身体的外見、能力、履歴、人生での役割、職業、人間関係、信条など、偽りの自己について学んだあらゆる表現や定義から成り立っています。私たちは、自分がだれであるかについてのこうした基本的信念の周りに、自分の人生を構築してきました。自分の自己概念が自分の真の姿であると信じるとき、その信念がそのイメージ通りに私たちの世界を創り上げ、それによって、その信念を「確認」して、永続させるのです。私たちの自己概念は、実のところ、自分の思考が与えるものの他には何の現実性もないのです。

 

あなたが自分の概念に執着したままでいるかもしれない一つの理由は、あなたがそれを本当だと信じているからです。自己概念をあきらめることは自分の「自己」を失うことを意味すると思っているからです。

自己概念への執着を解く練習をするには、まず、自己概念の本質を構成している信念に気づく必要があります。そうした信念はつねにあなたの思考や行動に投影されているのですが、あなたはそれに気づいていないかもしれません。その信念を見つけだす一つの方法は、自分のアイデンティティを構成しているもっとも重要な性質や特徴、つまり、自分らしさを列挙することです。中でももっとも基本的なものは、「私は身体である」、もしくは、「私は個別の自己である」という思考や信念であり、自分または自分のものと見なすその他すべてが後に続きます。自己概念を反映するか肯定するあらゆる思考との自己同一視をやめることにより、自分の自己概念への執着を解く練習をしてください。

 

また自己概念への執着に焦点が当たる機会は、だれか、もしくは何かが、その執着に疑問を呈するときです。あなたが否認か擁護、あるいは怒りをもって反応するなら、それはあなたがそれに執着していることの確かな証です。たとえば、あなたの自己概念の一部が「私はだれとでも上手くやれる」ことであるとき、だれかがそれに矛盾することを指摘したなら、あなたはその意見を拒絶し、何らかの手段で自分の見解を擁護するか、言いわけするでしょう。「私は特別だ」という信念は、あなたがその意見を尊重するだれかが、あなたを期待通りに扱わないときに真偽を問われるのです。

いったん自分が執着していることを認識したなら、何のために自分の自己概念のその特定要因に固執し続けているのかを突き止めてください。たとえば、あなたは正直だと見られることに執着しているのであれば、おそらく、欺瞞的に見られることは受け入れられないことを意味するでしょう。そこで、あなたは、自分は正直だと見なされていないという思考への執着を解く練習をするのです。まず、なぜ正直に見られなければならないのかを突き止めてください。それは、「私が正直だと見なされないなら、だれも私を好きになってくれないだろう。私は好かれる必要がある」といった、その根底にある信念のせいかもしれません。

この必要性は、たとえば、孤立無援になることなど、あなたが好かれなければどうなるのか、についての恐れの反映です。その恐れを見つけだし、その恐れに反応しなくなるまで執着を解く練習をしてください。その恐れへの執着が消えてしまえば、正直者に見られる必要性への執着は、ずっと簡単に解消するでしょう。

 

ある男性が私に、自分はパワフルな知性そのものであり、知性なしには自分は「何者」でもないと言いました。彼は何者でもないこと以下のことは想像できませんでした。それは人生の終わりを意味していたのでしょう。したがって、彼の焦点は、何者でもないことと、自分の人生が終わるという思考へと開いて受け入れることでした。これには、彼がその思考を歓迎し、心がその思考へと開くことができるまで、避けることなくその思考と完全に向き合うことを学ばなければなりませんでした。

自分は、自分が創り出した現実に反応しているのであり、その現実は自分の思考が与える以上の実体はないと実感することは、握っている手を緩めて、執着を解放することを容易にします。

 

自己概念への執着を解く練習をするうちに、あなたは、その自己を要約するか定義する一つの基本的な信念があることに気づき始めるかもしれません。あなたはこの中核の信念に気づいてさえいないかもしれませんが、その信念はあなたの行動の全般───あなたの態度、人間関係、人生に対する姿勢───にわたって反映されるでしょう。中核の信念はあなたが吸う空気のようにいつもそこにあるのですが、気づかれることはありません。

数例をあげると、「だれも完全には信用できない」、「他人に好かれるように、いつも人の機嫌を取らなければならない」、「世界は私の楽しみのためにある」、「私は価値がない」、「だれも私の面倒を見てくれないから、自分で見なければ」、および、「私は特別だ」などです。このような基本的な信念、もしくは、人生に対する姿勢が自分にあるかどうかを見極め、そこから、その信念と、それに付随するあらゆる行動との自己同一視をやめる練習をしてください。自分の自己概念が有効だと思い、あたかもそれが本当であるかのように行動することによって、その自己概念を裏付けることを拒否してください。代わりに、あなたは愛である唯一者なのだと思ってください。

 

 

サイ・ババがインドで私に教えてくれたように、霊的概念の追求は、愛を知ることを妨げます。霊的概念を思索したり、理解したりしようとすることは、すべての霊的求道者たちが陥る罠です。たとえば、悟り、神、真我、イエス、愛、サイ・ババ、あるいは、その他の霊的な謎を理解する試みといった霊的な疑問を考えているとき、その罠はいつも飛び出してきます。

私は、どうして神が定期的に起こる残酷で心無い行動を許しておくことができるのかと不思議に思って、非常に動揺したことを思い出します。別の折には、ラマナ・マハルシが勧めていたと思われる通りに、「思考の源泉」への行き方を理解しようとしました。偽りの自己が実在ではないとわかったとき、私の頭は、実在ではないという経験の引き出し方を解明しようとしました。

こうしたすべての精神活動は、私たちを思考するマインドや偽りの自己と同一視させ続け、それによって、精神が静まっているときにのみ起こり得る本当の理解(グニャーナ)を妨げます。

 

霊的な思考から抜け出すことを可能とするには、本質的な霊的疑問は、精神では答えられないことを覚えておくと役に立ちます。精神は知らないし、知ることができません。答えは、精神のレベルを超えることによってのみ、知られ得るのです。偽りの自己は、愛すなわち真我が何かを知ることができないのですから、何であれ偽りの自己が真我だと想像するものは、真我ではありません。

愛はすべての概念的思考を超えています。概念的精神が静かなときにのみ、私たちは求める真理を見出すにすぎないのです。ですから、私たちは霊的概念を思索することをやめ、それに引き込まれてはなりません。霊的な「問題」は偽りの自己の反映にすぎないのですから、霊的概念を手放すことができたとき、その問題は消えるでしょう。すべての霊的ジレンマは、愛である意識の中で解決されるのです。

 

 

私たちが世の中で活動的に仕事をしていようと、

引退していようと、

もっとも重要なことは、

私たちがしたり、しなかったりする仕事ではなく、

私たちの心に隠れているヴァーサナ(根深い傾向)を

どれほど効果的に引き抜いて、

根絶させることができたか否かを検討することです

非常に奥深く根づいているこうした不純性の除去が、

すべてのサーダナ、すなわち、霊的修養の主要な目標です。(サイ・ババ、1997)

 

ヴァーサナとは、私たちが深く自分と同一視し、執着している、衝動、欲望、精神的傾向などの形を取る思考のことです。いったん自分をそのような思考と同一視してしまうと、ヴァーサナは行動へとつながります。

「ヴァーサナは心の領域を侵略し、終わりのない揉めごとを引き起こします。ヴァーサナは過去の経験の記憶を呼び起こして快楽を想起させますから、あなたはまたその快楽を欲しがり始めるのです」(サイ・ババ、1984)

ヴァーサナは、物質的所有物、権力、金銭、偉大さ、地位、感覚的快楽、および、その他の魅力ある対象への衝動や欲望となることがあります。

「モークシャ、すなわち、解放とは、この言葉の本当の意味において、ヴァーサナの束縛からの解放です」(サイ・ババ、1984)

 

あなたが人生の大半で格闘してきたどのような傾向も、おそらくヴァーサナです。あなたはその傾向への執着を解く上で進歩したかもしれませんが、未だにそれは起こり、あなたは、「ああ、まただ!いつになったらなくなるんだろう?」と思います。

「根深いヴァーサナよりも、山のほうが速く崩れ去り得ます。けれども、意志の力と熱意があれば、ヴァーサナは信仰に支えられて短期間で克服され得ます」(サイ・ババ、1984)

 

ヴァーサナを克服するには、本書の欲望に関するセクションで前述されたやり方で、執着を解き、衝動や欲望の思考との自己同一視をやめなければなりません。

たとえば、金持ちの権力者になることに執着しているのであれば、その欲望との自己同一視をやめることから始め、それから、その欲望を支えている根底の信念へと移ります。その信念は、「もし私が金持ちで権力があるなら、人々は私を賞賛し、尊敬するだろう」といったものかもしれません。この場合、あなたは自分を「賞賛する」どころか、尊敬に値しないと判断している状況という鏡を認識することにより、人々に自分を賞賛させる必要性への執着を解く練習をします。

この判断への執着を解くことができなければ、心を閉ざすこの自己拒絶が生じさせた気持ちへとシフトしてください。そのような気持ちを完全に意識して、無条件に受け入れることができたとき、あなたの心はその気持ちと、それを感じている内なる自己に対して開くでしょう。あるがままの自分自身を愛情をもって受け入れることは、富や権力への欲望の原因を取り除きますから、その欲望は消えるでしょう。

深く根づいた衝動や傾向を見つけだして執着を解くことは不可欠です。さもなければ、それらは私たちを偽りの自己と同一視させ続けるのですから。

 

世の中での経験を、偽りの自己の鏡としてではなく実在として見ている限り、ヴァーサナへの執着を解くことは困難かもしれません。したがって、ヴァーサナをなくすためには、おそらく、私たちが経験することは自分の偽りの自己の反映にすぎず、この意味において現実ではないと認識する必要があるでしょう。

「あらゆる感覚的経験は現実ではないという確信が、守備よく本当に確立されるとき、精神はもはや気を散らせる力として機能せず、現存しない手足として無力に横たわるでしょう」(サイ・ババ、1970)

たとえば、世の中のドラマや見えているものにかかわることなどによって、自分を偽りの自己の何らかの要因やその世界と同一視している限り、私たちは残っている根深い傾向に影響されやすい状態にあります。

「この世が現実だという考えを捨てない限り、精神はつねに世の中を追いかけるだろう。存在しているのは実在だけなのだが、見えているものを現実と取るのなら、あなたは決して実在そのものを知ることはないだろう」(ラマナ・マハルシ、1988)

 

偽りの自己、その経験、および、世の中を現実として扱うことをやめるには、前述の章で説明したやり方で、それらとの自己同一視をやめなければなりません。これをする上での鍵は、自分が反応する世の中を創り出しているのは自分の思考なのだと認識することです。世の中には独立した存在はなく、世の中は自分の偽りの自己の鏡にすぎません。あなたが偽りの自己、もしくは偽りの自己の世界と自己同一視するように引き込まれ始めたなら、それから離れて、それは自分の思考の産物にすぎないことを思い出してください。思考するマインドを静めることによって、あなたはヴァーサナと偽りの自己から解放されるでしょう。

 

〔練習〕

ここで時間を取って、念頭にある何らかの思考に気づいてください。あらゆる概念的思考は、偽りの自己に基づいていて、それゆえ、私たちを愛から隔てる幻想を支えています。ですから、浮上するすべての思考一つひとつとの自己同一視をやめる練習をしてください。どのようにも興味をもったり、かかわったりすることなく、冷静にすべての思考を静観してください。固執や拒絶によって干渉することなしに、ただその思考を存在させてください。あなたはすでに、特定の種類の思考への執着を解く練習をしました。今度は、そのすべてとの自己同一視をやめてください。思考の所有者であるとさえ思わないでください。というのも、想定される所有者はだれでしょう?もちろん、偽りの自己であり、この想定は、この幻想との間違った自己同一視を永続させるだけです。ですから、「私」がいるという思考さえも含めて、すべての思考との同一視をやめてください。思考にかかわることをやめれば、思考は減衰し、やがては止まります。ラマナ・マハルシが言ったように、「それは、無視されれば次第に足が遠のく、招かれざる客のようなものです」(バルセカール著、1992)

偽りの自己の幻想を維持する思考をなくすことでしか、私たちは愛である自分の真我を知ることができないのです。

 

〔偽りの自己はどのように練習を妨害するのか〕

執着を解く練習は予想以上に困難だとわかり、これほど単純に見えることがなぜこんなに難しいのかと、あなたは首を傾げているかもしれません。あなたはおそらく、自分が愛へと心を開きたがっているものと思い込んでいたのです。不運にも、偽りの自己はその熱意を共有しないだけでなく、真っ向からそれに反対します。この反対の理由を見つけることは難しくはありません。愛でいることは、あなたが自分だと信じていた偽りの自己───あなたがあれほど注力し、懸命に努力して、創り上げ、育み、守ってきた自己───との同一視をやめることを要求します。愛によってその存在が脅かされているとき、偽りの自己はのんびりと構えてはいないでしょう。ですから、おそらく偽りの自己は思考を生み出して、あなたが自分をその思考と同一視したときに愛を排し、あなたの以前のアイデンティティの感覚を肯定していたのです。無条件に心を開くことほど、偽りの自己にとって脅威であるものはありません。なぜなら、これは偽りの自己をその拠りどころから緩め、愛の海での漂流へと放り出すのですから。

 

サイ・ババの愛の教えは偽りの自己を徐々に衰退させるため、偽りの自己は自分という感覚が危険に晒されていると感じるときにはいつも、執着を解く練習を阻害したり妨げたりして、ババの教えを無効にしようとするでしょう。偽りの自己は、協力しているように見せかけながらも、密かに霊的修養を妨害するために、私たちの意識を混乱させたり、曇らせたりする達人です。

したがって、成功裡に練習を続けるには、執着を解く練習を避けるか妨害するために偽りの自己が使う、思考の種類に気づくことが必要です。偽りの自己は、私たちがもっとも捕らわれやすいまさにその思考を紡ぎ出して、私たちをそれと自己同一視するように誘うことにかけては驚くほど長けています。

よくある思考の数例は、「今は時間がない」、「あまりに疲れている」、「上手くいくとは思わない」、「まず生活をきちんとしなくては」、「正しくやれない」、および、「後にしよう」などです。偽りの自己が霊的修養を避けるもう一つの手段は、やるべきことに時間を割り振ってしまい、練習のための時間がなくなってしまうことです。「行うこと」が「在ること」に対する防衛手段になってしまうのです。このような策略はすべて、「今はだめ、後で」と言うことにより、愛を先延ばしにする手段です。偽りの自己はつねにこのような考えを正当化して明らかに妥当なものとしますから、私たちは往々にしてそうした考えの意味するところを意識的に認識してはいません。自分を欺いて偽りの自己を信じるなら、私たちは中途半端に練習するか、あるいは、まったく練習をしなくなるでしょう。

 

継続的に練習することができるようになったなら、次に主な障害となるのは、偽りの自己は二元性の幻想(マーヤー)が現実だという信念に執着しているために、偽りの自己が経験する世の中が自らの鏡であることを決して信じようとしないことです。クリシュナも、「神とは、いかにも、この私の幻想であり、それを超えていくことは難しい」(バガヴァッド・ギーター第七章十四節)と認めているように、二元性の幻想は非常に説得力があります。あなたは自分が経験する世の中が自分の反映だと信じることを拒否するでしょうから、幻想を信じる度合いに応じて、あなたは練習をしないでしょう。ラマナ・マハルシが言ったように、「自らこの世を創り出した精神に、どうして世の中を非実在として受け入れることなどできるだろう」。

ですから、あなたが経験する世の中はあなた自身の反映であることを実感しやすくするために、意識的に自分の不信を留保する決意をし、実験をするつもりで練習をして、何を見出すか見てください。

 

あなたは、自分が経験する世の中は自分の鏡かもしれないと考えることに好意的であっても、自分が経験する不快なものや受け入れがたいことのいずれも自分の反映であり得ることを認めたくないかもしれません。これは、偽りの自己はその自己イメージを損なうかもしれないものは何でも否認したり、回避したり、合理化したりすることに傾注しているからです。

偽りの自己は自らの心を閉ざす思考や行動を認めたがらず、自らの反映を認識してその愛情のなさの責任を取る代わりに、むしろ他のだれか、もしくは何かを非難することを好みます。したがって、偽りの自己から自由になるためには、見かけの世の中であなたが経験するものは、自分の反映であることを受け入れる勇気をもつことが不可欠です。これは、心を閉ざす執着を手放すプロセスにおいて、決定的なステップです。

 

偽りの自己を脅かす超越的な霊的経験が起きたとき、偽りの自己はその経験の信憑性を問う疑惑の思考を使い、それにより自らのアイデンティティにしがみつくことによって、自らを擁護するかもしれません。偽りの自己は、そのような経験はあなたの想像だと示唆するか、あるいは、その経験が現実ならば、それは精神の喪失か、分裂か、故障の兆候だと脅すかもしれません。

偽りの自己はまた、「私が愛になれば、すべては変わってしまうだろう。私は仕事を失い、だれもが私を変人か気違いだと思うだろう」のような恐れを誘発する思考を生み出して、愛から自らを守ります。

もう一つのお気に入りは、「どうやってお金を工面すればいいんだろう?」という思考です。一つでもこうした思考を信じようものなら、それは私たちを偽りの自己の世界という罠にはめ、霊的修養を阻害するに十分なこともあります。私は悟りの経験の後で、もし人生についての新たな理解に従って生きるなら、私には養うべき家族がいるのに、ほとんど、あるいは、まったく収入を失うことになりかねないと思ったことを覚えています。唯一の答え(二元的な意味での)は、唯一者を信頼することです。私はそうしました。そして、つねに十分な資金が手に入りました。もちろん、私たちは源泉と分かれてはいないと知ることは役に立ちます。

 

愛が差し迫っているときには、愛へと溶けることを阻止するために、偽りの自己は恐れを使うかもしれません。私がもっと無条件に心を開くことを教えていた女性は、玄関の隙間から眩い光が差し込んで来る家の中にいるメンタル・イメージが浮かびました。ドアをノックする音が聞こえ、彼女はドアを開けて、愛を中に入れるよう強力に誘引されたのですが、ドアを開ければ、自分は光の中へと消え失せ、存在しなくなることに気づきました。自らの切望にもかかわらず、彼女はドアを開けるように自分を仕向けることができませんでした。永遠に自分を失ってしまうという思考はあまりに恐ろしすぎたのです。

このような思考を信じるなら、私たちは愛の代わりに恐れを選んでしまいます。心は閉じ、私たちは分離という恐ろしい偽りの自己の世界に嵌ってしまいます。けれども、私たちが作り上げる自分の死去という恐ろしいイメージは、偽りの自己を反映しているにすぎないのですから、つねに正しくありません。偽りの自己は、真我、すなわち、愛を理解することができないので、恐ろしい未来、もしくは、どのような未来もないことを想像しては恐れをもって反応し、そうすることで私たちのこの自己との同一視を強化することによって、空白を埋めているのです。

 

偽りの自己は、何であれ私たちを愛から引き止めると信じる思考を作り上げます。けれども、偽りの自己が想像するものは偽りの自己の反映にすぎず、本当の自己ではないのですから、騙されないでください。そのような思考は練習を邪魔するか、妨害する目的で考案されていることを認識してしまえば、私たちはそれを信じ込むように惑わされることはなく、したがって、もっと容易にその思考への執着を解く練習をすることができるでしょう。

偽りの自己の脅し戦術は、初めは効を奏するかもしれませんが、その思考は愛へと消滅することについての偽りの自己の懸念を反映しているにすぎないことに気づいてしまえば、その思考との自己同一視をやめることは大幅に可能になるでしょう。

 

偽りの自己がいかに愛を避けることに長けているかを認識した後では、あなたは偽りの自己から解放され得ることを疑っているかもしれません。恐れてはなりません。サイ・ババが明らかにしているように、愛は選ばれた少数の人々だけに実現されるものではないのです。

 

あなたはモークシャ(解脱)を求めたり、

モークシャを得たりする人々のことを聞いたはずです。

モークシャは、少数の人だけが手に入れる稀な栄誉か、

選ばれた人の楽園や入植地のようなところか、

あるいは、英雄的な魂のみが到達できる高みだという印象を

大勢の人がもっているかもしれません。

それは違います。

その人が英雄的であろうとなかろうと、

モークシャは、だれもが達成しなければならないものです。

モークシャを否認する人々でさえも、

モークシャを実現することによって終わらなければなりません。

(サイ・ババ、ヒスロップ著、1978)

 

 

Purifying the Heart

心を浄化する方法

(サティヤ・サイ出版協会)