第十三章

プラシャーンティ ニラヤム(その三)

 

私たちに再び皆と一緒に座った時、ババは空中で手を動かして、写真と住所の入った小さな名刺を八枚物質化し、それを全員に一枚ずつ手渡した。そして、ババはいつも私たちと一緒にいると言い、励ましと愛を十分に注いでから、私たちにヴィブーティの包みを配った。

いつものように、インタビュー中の物質化は印象深かったが、ババが私たち一人ひとりのことを正確に知っていたことと、肉体的にはその場にいなくても、文字どおりいつも私たちと共にいることを示すババの能力に、私は大きな衝撃を受けた。この愛に満ちた存在が遍在であることに関する、こうした具体的な体験───私たちの生涯を通じて続き、深い安心と安全の感覚で人生を満たしてくれるこの体験こそが、最も奇跡的な贈り物であった!

今回の旅によって、いくつもの疑問に答えが与えられた。たとえば、偉大で力に満ちているとされているババが、どうして自身のアシュラムに、不快な生活条件が存在していることを許すのだろうか。それは最初、私を当惑させたが、私はこの疑問を次のように解決した。おそらく、あの時点でアシュラムのコンディションを判断するのは公平ではなかっただろう。というのも、私たちは、建設工事が進められている最中にそこにいたからである。そうした状況では、人々の快適さを妨げる状況が数多く存在するのは普通のことだ。そうした事態でも、誰もそのせいでそこを立ち去った者はいなかったし、全員が無料でその場に滞在していたのである。

また、世界には苦痛に満ちた経験が蔓延していたが、私の考えでは、これは神の存在を否定するという主張にはつながらなかった。過ちよりも正しいものを、悪よりも善を選ぶのは自分自身の責任であることや、私たちがいる状況が、今生や前世における、自分自身の行為の結果であることは、今の私にとっては明らかだ。自分自身に仕え、自分自身を癒やすことは、私たち自身の責任である。

私は、カルマの概念の価値を認めた。私たちは、自分が播いたものを刈り取り、自分が行った善や悪のお返しを、同じような形で受けるのだ。自分が作り出した混乱の中から自分自身を救い出す責任は百パーセント私たち自身にあり、その責任を誰かに転嫁することは愚かで不毛なことである。

何が本当かということに関する私たちの考え方を修正したり、それまで自分が誤って信じていたことに加えられるさまざまな打撃を経たりしてババに夢中になるあまり、霊的なレベルのみならず、物質的なレベルにおいても、ババがすべてのことを私たちの望みどおりに面倒を見てくれるという感覚に陥るのは、珍しいことではない。何が本当かということに関する私たちの古い道標が取り除かれたとき、多くの人々はまったく道を見失った感じになって狼狽し、方向性を求めて神にしがみついていこうとする。この段階において、人々は大局観と責任感を失いがちになる。そして、たとえて言えば、ババがアシュラムの掃除をする責任を負って、魔法の杖をふるってあらゆるものをきれいで美しいものに変えることを期待してしまうような傾向がある。

ババが地上に出現したのは、人々に、高次の実在が存在することを信じさせ、霊的な法則が真実であることを伝えることにより、私たちに、正しい生き方を求める強さを与え、自分たちが置かれている状況を改善するために着実な努力を続ける力を与えるためであることを、今の私は、より明らかに認識できるようになっている。もし、何らかの大いなる力が働いて、あらゆる病と貧困を癒したとしても、私たちの現在の意識レベルが変わらないままであれば、たちまち互いに激しくいがみ合い、世界は、今と同じ混沌とした状態に戻ることだろう。

私は、ヨーガによってもたらされる力(シッディ。超常能力)に関して多くのことを学んでいる。ババも含めた多くのヨーギ(ヨーガ行者)たちは、これらの力のために霊性の道を誤る人が多いと言っている。私はこれまでに、人々がそれらの力に魅了されて、神との融合という最終目標を見失うのを見てきた。ババは、霊的求道者ばかりでなく、霊的な指導者たちでさえも、この誘惑の餌食になる可能性があることを指摘している。

しかしババは私たちに、そうした低次の傾向に屈する可能性のある霊的な求道者とババを誤って取り違えてはならない、と戒めている。ババによれば、ババは二元性を超え、カルマや悪や、時間・空間、その他あらゆる区分を超えたアヴァター(神の化身)であるために、ババの超人的な業は、自らの本性の一部なのだという。ババの力は、彼自身が、いついかなる時も、あらゆる場所において、万物に融合しているという現実の、単なる外的な表現にすぎないのである。

何千万もの人々が奇跡と呼ぶ自らの「超人的な業」について、ババは、次のように言っている。「それらは、神の持つ自然な無限の力に属しているもので、ヨーギたちの使う超常能力(シッディ)の産物でもなければ、魔術師の使うマジックの産物でもありません。創造能力は、工夫して身につけたり、育てたりすることは一切できない。自然なものにほかなりません。スワミは、宇宙を創造した時とまったく同じ方法で、物品を物質化します。また、ある種の品物は、それが置かれている場所から持ってこられます。スワミを助けて品々を運んでくるような目に見えない存在がいるわけではありません。スワミのサンカルパ(神の意志)が、瞬時にして物品を運んでくるのです。スワミはあらゆる場所にいます」

超常能力を持っている人々の多くは自分の限界を知っている。彼らの力の範囲は規定できる。通常彼らは、自分が高次の実体の通路、もしくはその実体に接触している媒体であると感じている。また、自分がそうした実体に使われているように感じており、そのような関係によって謙虚になっていることが多い。対照的に、ババの力は無限のものであるように思われる。ババは、実在に関する別の次元や、いくつもの意識レベル(それらは、大いなる意識に至る道である)が存在するのみならず、実は彼自身が、こうした別の次元や意識レベルに至る道そのものなのだと言っている。ババとこうしたさまざまな次元やレベルとの間にはいかなる隔たりも存在せず、あなたや私とババの間にも、何の隔たりも存在しないのである。

これほど途方もない力を持っているにもかかわらず、ババには、いかなる大げさなショー的な要素も、イメージ作り的な行為も見られず、ババはただ、与え、教え、愛するのみである。人間に関する、私の個人的・専門的なあらゆる経験と、動機に関する私のすべての知識の中で、私は、このような行動をする人間には誰も会ったことがない。ババの振る舞いこそが、私が目の当たりにした、最も感動的な奇跡である。

私はまた、サンスクリット語でマーヤーと呼ばれるものの本性(すなわち、「私たちが実体だと考えているもの」の持つ、偽物だが本物のように見える特質・・・いかに、私たちの感覚器官を通した知覚や、思いや、感情が、私たちをまったくの幻影の世界へと駆り立てるものであるか・・・)にも気づき始めている。感覚と感情が、私たちの視界をぼかしたり、狭めたりして、私たちを誘惑し、霊的求道から外れさせる独特のやり方を持っているものであることに、私は具体的な体験によって気づかされた。肉体的不快感や、病気、貧困、プッタパルティの原始的状況といったものに対する私自身の反応に、私はあやうく躓きそうになり、サイババの偉大さを正しく評価できなくなるところだった。

ババのところに来る多くの人々は、苦しい試練を通らされ、それによって彼らは、欲しがることの不毛さと、それがもたらす欲求不満について学ぶのである。中には深く傷ついて、ババに対して怒りを抱き、ババから離れる者もいる。しかしながら、自分の欲望を手放すか、サイババを手放すかという選択を迫られた時、ほとんどの人々にとって、手放すべきは自分の欲望であってババではないことは明らかである。

 

SAI RAM NEWS  No.126  2009年 5・6月号  

(Sathya Sai Organization Japan)