唯一の真のグル〔導師〕とは、この幻想の世界を超越している唯一者のことであり、この世の中に現れるどのような人でもありません。唯一者はいつも私たちと共にいます。というのも、唯一者は私たちであり、決して自分の心よりも遠くはないのですから。
しかし、無形である唯一者とかかわるのは難しいこともあるため、少なくとも初めは、私たちのほとんどがかかわることのできる霊性の教師を必要とするでしょう。ですから、唯一者は時々アヴァターの姿をとって化身するのです。アヴァターは、超越的な唯一者の反映、もしくは顕現であり、純粋な愛です。アヴァターは化身した導師たちの中の最高レベルです。次のレベルは真我を実現した導師たち、すなわち、偽りの自己との同一視も執着もない人々です。サイ ババはこうした導師たちの資格について、「本当のグルとは、自らの真我を悟った人のことです」と語っています。三番目のレベルは、まだ偽りの自己への執着がいくぶん残っている導師です。
どのレベルの導師も、偽りの自己への執着を手放し、愛を実現する上で重要です。なぜなら、唯一者は、必要不可欠なものとして、すべてのレベルの導師たちを介して働くからです。けれども、偽りの自己から解放されるためには、事実上、私たちのだれもが、いずれかの時点で、アヴァターもしくは自己実現をした自由である導師を必要とするでしょう。このような導師は、自らが本性でいることによって、私たちが自分の本性に気づくきっかけをもたらす愛の触媒です。
いつの時代でも、一時期にはただ一人のアヴァター(現在はサイ・ババ)と少数の自己実現した導師しか存在しません。この希少性のゆえに、私たちは導師を見出すことは難問だと思うかもしれません。そんなことはありません。二元的な意味において、唯一者は各人に、三つのレベルすべての導師を含め、まさに私たちが必要とする経験を提供します。これまで見てきたように、私たちが心を開いていなかった何か、もしくはだれかは、愛の教師です。アヴァターや自己実現した導師の教えが必要であるのなら、私がサイ・ババへと引き寄せられたように、私たちはだれかへと引き寄せられるでしょう。
以前私は、自己実現には到っていなくても、まさに私が必要としていた経験を提供するに完璧だった他の導師たちへと引き寄せられました。覚醒の過程で、私たちは、まだ偽りの自己への執着がいくぶんか残っていても、まさに私たちが必要とする教えを差し出す多くの導師たちに巡り会うかもしれません。そうした導師たちには、その教えが純粋である分野と、教えが幻想への執着によって汚染されている他の分野があるでしょう。しかし、それさえも問題とされるような問題ではありません。というのも、唯一者はつねに、「完璧でない」導師さえも含め、私たちが愛へと目覚める必要のある経験を厳密に私たちに提供しているのですから。
完璧ではなかった導師の完璧だった一例があります。それはある女性が自分のグルについて私に語った話です。彼女は、そのグルが移動するときにはいつも、どのように彼女に街から街へと動くことを命じ、どのように彼女を愛情のないやり方で扱ったかを語りました。今回再び、グルは自分の移動に合わせて、彼女に仕事を辞めて引っ越すようにと言っていました。彼女は怒り、虐待されていると感じました。彼女が執着していた「悟り」の約束の見返りに、それが自分を操る、愛情のない行為だと感じられても、彼女は何でもグルが言ったことを喜んでしてきました。
グルがしたことを彼女が語るにつれて、私にはそのグルが偽りの自己から行動していたことは明らかでした。彼女は、私がグルを完璧な導師だと思うかどうか、また、彼女はグルのもとに留まるべきかどうかを知りたがりました。私は、明らかにそのグルは自分を偽りの自己と同一視しているけれども、そのグルについての彼女の経験は、悟りを開くという考えへの執着によって引き起こされた苦しみを、どのように解き放つかについての完璧な教えを差し出していると言いました。そのグルは彼女のために、彼女が自分を操って虐げていた彼女の側面を映し出し、それによって、彼女が愛情のない自己へと開き、求めていた愛を見出すための完璧な機会を差し出していたのです。
アヴァター、もしくは、自己実現した導師は、私たちを変えようとするのではなく、私たちがすでにそれであるものを実現する手助けをするのです。このような導師は、自分が教える人々に対して一切何も求めたり、要求したりしません───金銭、財産、性、承認、好意、その他何でもです。アヴァターや自己実現した導師の行動は、二元性の理解のレベルを超えたところから発していますから、偽りの自己には理解さえされないかもしれません。自己実現した導師たちは、どのようにも決して偽りの自己に効力を与えたり、結託したりすることはありません。
偽りの自己は他人の反応の中に承認を探し、通常はそれを手に入れます。というのも、ほとんどの人々は、偽りの自己の見方が本当であるかのように行動することで、互いにその見方を強化しているからです。けれども、アヴァターや自己実現した導師が目の前にいる場合など、偽りの自己の幻想が持続的に強化されないときには、執着はむしろ速やかに現れる傾向にあり、私たちに執着を解放して、本当の自己である愛を解き放つ機会を提供してくれます。自己実現した導師は、偽りの自己に対する私たちの執着を映す完璧な鏡となります。なぜなら、自己実現した導師には、鏡に映るものを汚す偽りの自己との同一視がないのですから。
サイ・ババについての私の経験は、アヴァターの愛の教え方を語っています。私が初めてサイ・ババのことを聞き及んだのは一九七七年のことでした。それは、小さなバスケットから奇跡的にいくつものオレンジを創り出して群衆に分け与えたインドの霊性の導師についての話を、だれかが私にした時でした。
一九八一年、私はサイ・ババに引き寄せられているように感じ始め、内なるヴィジョンの中で、燦然と輝く太陽───最初は一瞬しか耐えることのできなかった巨大で強烈なエネルギー───としてババを経験し始めました。その本質は無条件の慈悲と愛でした。
二、三年にわたって、私は徐々にババの眩さに向き合うことができるようになり、ついには、その威力に耐えることができるまでになりました。それ以降、その純粋な愛を必要と感じたときにはいつも、私はその愛へと開いて、交流の状態にいるようになったのです。私は今やサイ・ババが自分の導師だと感じましたが、いつでも一瞬にして心の中にババが現れましたから、インドまでババに会いに行く必要はありませんでした。けれども、一九八七年にそれが変わりました。私はババと共にいたいと感じました。
出発前に、私はサイ・ババが手で特定の動きを示した夢を見ました。それは、私の本性が唯一者であることの悟りの後で気づいた「エネルギーの署名」と同じ形だったので、私はすぐにその動きを認識しました。サイ・ババは、自分がこの経験を生じさせたと言っていたのです。サイ・ババは、自分が現れる夢は、(もちろん、二元性の幻想において)事実上の訪問であり、夢自体で生じたものではないと言っています。インドにいた時に、この手のしぐさは、サイ・ババが何もないところから何かを物質化するときに使うものと同じであることを発見しました。
インドに到着すると、サイ・ババは、ウータカムンド、すなわち、ウーティとして知られているところにいました。私はババを見たときに、何か非常にパワフルなことが起きるだろうと期待していました。これまでずっと、内なるヴィジョンでのサイ・ババの経験はとても圧倒的だったので、いかにもババと共にいることはもっとすごいだろうと思ったのです。私は何らかの手段でサイ・ババに私との関係を認めてほしいと思い、もう一つの深遠なる経験を望んでいました。
日記に記した通り、私は、「いつも愛することができるように、エゴから解放される」ことを願っていました。その執着に気づいてはいたのですが、私はそれを手放すことができませんでした。ですから、初めてダルシャン(聖人を直接経験すること)に行ったとき、私がサイ・ババとの間に築いた特別な関係を認める何か重大なことが、どうにかして起こるのではないかと期待していました。
サイ・ババの姿が見えました。何も起こりませんでした。サイ・ババは私のほうを見ましたが、それでも何も起きませんでした。サイ・ババは私から二フィート〔六十センチ〕と離れていないところを通り過ぎ、まったく私を無視しました。私は何が起きても覚悟はできていると思っていたのですが、自分の執着のゆえにとても失望しました。サイ・ババは、偽りの自己への私たちの執着を呼び起こして、私たちに気づかせる達人です。
その山岳地ではほんの数百人の人々しかいなかったため、サイ・ババが日に二度与えるダルシャンで最前列に座ることは容易でした。ダルシャンでは、人々はサイ・ババに手紙を差し出したり、心配事や願望を伝えるために話しかけたり、あるいは、ダルシャンの後で行われる個人インタビューを求めたりします。特にインドの人々は御足に触れたがりますが、それは信愛と崇拝と尊敬の証です。
初日に無視された後、次回は私が欲しいものを願う手紙をババに渡すようにと、友人が示唆しました。それはサイ・ババとの関係を否認することのように思えたので、私は気が進みませんでした。私は手紙ではなく直接のコミュニケーションに頼ろうとしました。けれども、それが、特別な関係であるという私の感じ方への執着をどのように反映しているのかわかりました。それで、私は、サイ・ババが厳しい教師であることを認識し、ババに感謝する手紙を手渡すことに決めました。
ババが現れるのを待つうちに、手紙はただサイ・ババに私を認知させるもう一つの手段にすぎないことに気づきました。私の偽りの自己は、サイ・ババが厳しい教師だと実感していることの承認を欲していたのです。いずれにせよ、手紙は差し出すことにしました。サイ・ババは無視しました。
私は、サイ・ババが本当に私が思っていた通りの人であることを、何か明白なやり方で証明してほしかったのだと気づきました。また、私は未だに、自分が特別で、霊的に進んでいるように扱われたかったのです。逆説的に、私の手紙を受け取ったり、私を特別扱いしたりするならば、サイ・ババは私が考えていたような人物ではないとわかっていました。私の偽りの自己はどこにでもいて、四方八方から私を映し返しているようでした。日記に書いたように、私の偽りの自己は「私が考えたか、行動したすべてを吸収する多頭怪物」でした。私は、ただ偽りの自己を静観するように心掛けました。自分の執着を解くのは難しい作業になることがわかりました。
サイ・ババは私を無視し続けましたが、いつも私の内なる意識の中にいてくれていたので、決して拒絶されているとは感じませんでした。外面的にはサイ・ババは私に何の認知もしてくれず、ダルシャンのたびに選ばれた人々をインタビューに呼ぶときに、私を呼んでくれませんでした。
三日目の朝の四時ごろ、自室にいたとき、認知されないことの苦悶は頂点に達しました。私は絶望し、立ち去ることさえ考えていました。突然、サイ・ババが物質化する聖なる灰ヴィブーティの、間違えようのない芳香が漂いました。二フィート〔六十センチ〕ほど離れたところに、封をした小さな包みが置いてあったので、私はそれかもしれないと思ったのですが、鼻を近づけても匂いはしませんでした。私は涙を浮かべてババに感謝しましたが、私の偽りの自己は疑惑を浮上させました。その時、またジャスミンの香りが漂いました。再び私は疑い、包みを嗅ぎました。その後、また芳香がして、私は信じました。私はサイ・ババの存在と慈悲と気遣いをはっきりと感じました。ちょうど米国にいたときのように、ババの愛はいつも私と共にあることを知りました。私はおおいに勇気づけられて安堵し、何が起ころうとも、予定していた丸三週間、ずっと留まることを決意しました。
翌朝、私はヴィブーティの包みを買い求めました。サイ・ババが近づいてきたとき、その慈悲と愛への返礼として、祝福してもらうために心を込めて包みを差し出しました。ババは包みを祝福してくれました。
サイ ババはウーティからブリンダーヴァンへと移り、二日間滞在しました。そこでダルシャンを待っている間に、私は心の中で、ババの愛情深い存在のパワフルな感覚を経験しました。そのとき、ババはその物理的な姿形ではなく普通の実体を超越していることを、私はかつてないほど深く知りました。
サイ ババがいないところはどこにもありません。ババはあらゆる人や物の中にババを見る練習を、私にさせていたのだと感じました。私は日記に、「私は自分のエゴをすべてと引き換えることも、あるいは、それにしがみついて限られた人生を送ることもできる。自分のエゴをあきらめることなど、すべてのためにはたいしたことではないように思える」と書きました。
翌日、サイ・ババは、プッタパルティのアシュラムへと発ちました。ウーティとは対照的に、そこには何千もの人々がいました。私はいつもババが共にいたので、最初はインタビューへの欲求を感じませんでした。けれども、他の西洋人たちのインタビューを求める欲望に影響されて、私もインタビューを欲し始めました。私はルームメイトともう一人を加えてグループを作りました。慣行では、グループの一人がインタビューに選ばれたなら、グループの全員が行くことができるのです。私の頭の中は、私たちが選ばれたときにババに聞く質問でいっぱいでした。
私はサイ・ババが私や他のだれかに求めるものは、心を開くことを学ぶことだけだとわかりました。ババは決してだれにも何か金品を求めたりしません。そこで、愛を深めることに成功すればババは私を認知するだろうと考えて、私はそれに努めました。当初私は、自分の偽りの自己がこの試みを支配していることが見えていませんでした。それで、私がババとの特別な関係と見なしていたものを認知してもらう欲望への執着を解く練習をし、ほとんどのインド人たちがそうしていると見えたように、愛と帰依の心でただそこにいようと努めました。
しかし私はそれでも、ババは私が考えた通りの導師であることの確認が欲しかったのです。その時までは、私は決してババを本当に自分の導師として受け入れたことがなく、ほとんどのテストは計画的ではありませんでしたが、ババを試していたことは明らかでした。私はババに手紙を差し出し、インタビューを求め、後にそれらが無視されて私の偽りの自己が傷ついたときに、ババが私のエゴの欲したことをしていたなら、ババは私が信じたような人ではないだろうと解釈したのです。ババは決して私のどの「テスト」にも失敗することはなく、それぞれが私の執着への気づきを鮮明にしました。
私の頭は質問で溢れていました。今あるものが解決すると次の質問がやって来て、終わりのない行列に加わりました。私の頭は静まることがなく、何をするか捻り出そうとすることをやめませんでした。私は明らかに頭に執着していました。
サイ・ババと一つになることができるように、私は自分が特別であるという知覚と、認知の欲求をあきらめることができるかどうか疑問でした。ババを一人の人間として見ている限り、私は二元性に捕らわれていることがわかりました。これまでに私がババに差し出したものは、私の偽りの自己が欲したことをババにさせるためのさまざまな策略だけでした。自分の執着に固執することは私を苦しめただけでした。私は質問だらけの頭の代わりに、ただ純粋な帰依心と愛をもちたいと思いました。私は日記に、「神と一つになるために、この特別であるという知覚を捨てることができるだろうか?」と書きました。それから、もし本当に自分の偽りの自己を手放して全面的に唯一者へと明け渡したなら、何が起きるのかと心配しました。私はいくつもの反応と執着から成る一つの巨大な固まりで、そのすべてが偽りの自己を反映しているようでした。「私のエゴは水銀のようだ。掬い上げれば消えるが、また形を変えるだけ」だったのです。私の偽りの自己は脅威を感じて、狂ったように質問を提起したり、何が起きているのかを理解しようとしたり、特別だと認められることへの執着を続けたりすることにより、命がけでしがみついていました。同時に、私は、自分が経験していることが完璧な教訓であるとわかっていました。とはいえ、この「完璧性」をあまり楽しんではいませんでしたが。
この一部始終を通して、ババはいつものように私の意識の中で傍にいてくれましたが、物理的な姿ではありませんでした。私が心を意識していたときにはババはそこにいました。私が頭を意識していたときでもババはまだそこにいましたが、もっと遠くでした。私の偽りの自己を認めたり、認知したりしないことにかけては、ババは完璧でした。それでも、私はいつもババの無条件の慈悲を感じていました。
何が焦点となっているのかはわかっていました───「自分」として同一視していたすべてを明け渡すことでした。自分の頭とその思考への執着をやめることの他には、私にできることは何もありませんでした。ですから私は、自分の思考に注意を払わないこと、またそれにかかわらないことによって、思考をつかむことをやめました。これをする上でババの手助けを願いました。
すると精妙な変化が起こり、私の頭はずっと静かになりました。私にできるのは、自分をババの心へと明け渡すだけであることがわかりました。私の偽りの自己は恐れました。全面的に明け渡すことは、私個人の自己への執着をすべて解き放ち、愛へと溶け込むことを意味していたのです。ババは私の最奥の執着を前面に押し出していました。
唯一者の中へと消えることを阻止するために、私の偽りの自己は知っていたあらゆるトリックを駆使していました。特に、特別であることに執着すること、認知を求めること、インタビューを得ることでした。これらを望むことによって、私は自分を偽りの自己と同一視したままで留まり、愛を避けていたのです。インタビューの確率を高めるためにグループに入っていることは、サイ・ババに私を認知させるために私の偽りの自己が仕組んだもう一つの策略であることに気が付きました。それで、他の人たちは首を傾げていましたが、私はグループを抜けました。ババは、私が特別であるという意識を強めはしても、偽りの自己は手付かずで残すであろう「ビック・バン」のごとき経験を欲しがる偽りの自己の欲望に操られる代わりに、まさに私が必要としていた無執着の教えを私に与えてくれていることがわかりました。すべてが完璧でした。
翌朝は私が抜けたグループのうちの一人が発つことになっていたのですが、彼がインタビューに呼ばれました。私のルームメイトは一緒に行きましたが、私は動かずにいました。私は、だれもが欲しているようなことを放棄するとは、自分はおかしいのかとも思いましたが、行かないほうが正しいとわかっていました。私は、行くことにも行かないことにも執着を感じませんでした。私は頭への執着を解く練習を続けました。私は、ババがとても慈悲深く優しいしぐさで指を自分の唇に当て、気を楽にするようにと言いながら私の頭を静めてくれたと感じました。
翌日のダルシャンで、私は、その内容には執着がないと思った手紙を携えていました。私は七列目にいたので、差し出すには遅すぎました。私はババからの分離を感じて悲しく思い、また、ルームメイトからも距離を感じていることを意識し始めました。
ここに着いて以来、ルームメイトが沈黙のうちに私を批判していたことはわかっていました。この分離の痛みはついに耐え難くなり、ルームメイトの顔を見たとき、私に不満があるのか、また、私が何か気分を損ねたのかと聞きました。ルームメイトは、私が何でも自分勝手にしたがること、部屋を適切に共有しないこと、彼がダルシャンですべきだと思ったことを私がしないこと等など、私がいかに思慮に欠けるかを長々と挙げ列ねました。それは彼本人の反映であることはわかっていましたが、その本質は私についても言えることに気づきました。私の心はルームメイトに対して完全には開いていませんでした。私は、彼がアシュラムでの適切な振る舞い方を私に指図し、私が「その通り」しなかったことを過ちとしたことに反応していたのです。これが偶然ではないことはわかっていたので、私は、なぜ彼が私のルームメイトなのか不思議に思っていました。今私は、ルームメイトに反映されているものを見ることで、私自身の批判的性質をもっと自覚させるために、ババが彼を送ったのだとわかりました。
いったんルームメイトが自分の鏡であることを認識すると、私の心は、私が感じた彼からの分離を癒したがりました。私はババに集中するあまり、ルームメイトもババであることを見ていなかったのです。私の心はどちらに対しても無条件に開いてはいませんでした。
この認識を得ると、心がルームメイトへと開くのを感じ、私はダルシャンの後、彼と話をしに行きました。彼を見つけたとき、彼は他の人と一緒にいました。私は彼への愛以外に何も感じませんでした。私の心はようやく開いたのです。彼に話をしたいと告げると、彼の不安が感じ取られました。私たちはしばらくしてから会い、私は、自分が彼にとっていかに付き合いにくい相手であったかがわかったと言いました。私が感じているのは彼への愛だけだと言いました。彼はババほどにも大切な教師であることがわかったと、また、私に教訓を与えるためにババが彼を送ってくれたと思っていると言いました。彼はあっけに取られていました。私は日記に、「彼(ルームメイト)は完璧だった───何もかもが愛しがたかった」と書きました。
ルームメイトに対して私の心が開いたとき、それが偽りの自己から心の中へのシフトの頂点でした。私の心はルームメイトに対してだけでなく、サイ・ババにも、また、自分の偽りの自己を含めて他のだれに対しても開きました。私の頭は、今は静まっていました。終わりのない疑問は消えていました。認知への欲求はありませんでした。いかに慈悲と愛だけが本当に重要なことのすべてであるかを知るパワフルな経験をして、私は、愛のみが実在だというサイ・ババの先の教えを再確認したのです。私は本当に特別ではなく、また、私に限らず他のだれも特別ではないことがわかりました。慈悲深い唯一者は、私たちをだれでもまったく同じように包み込んでいるのです。
サイ・ババを見たらただ感謝の念を伝えるだけのつもりだったのですが、私は教えに感謝する手紙を手にして最前列にいました。ババは私の正面で立ち止まり、私を見ませんでした。手紙は忘れ去られました。私がしたかったのは、ババの御足に触れ、その愛を感じることだけでした。私はそれをして、歩み去るババにありがとうと呟きました。私には愛と帰依心しかありませんでした。
この経験の後でさえも、私の偽りの自己は居座っていただけでなく、私の心がルームメイトに対してしたことを自らの功績にしようとし始めました。これは、私の偽りの自己が愛に脅威を感じていたので、私の中での縄張りを再び主張し、私が感じた拡大しつつある愛と一体性を妨害する術を見出そうとしていたためだとわかりました。偽りの自己は、容易には降伏しようとしませんでした。
その夜、ババは私に冗談を仕掛けました。ルームメイトは、前回アシュラムにいたとき排水管を伝ってゴキブリが上がってきたので、夜間浴室のドアを閉めることに固執していました。ドアが閉じていても、床とドアの間にはどのようなゴキブリでも通るに十分な一インチ〔約二・五センチ〕ほどの隙間が空いていたので、私はそれを馬鹿げていると思いました。ですから私は、日中何度かドアを閉め忘れたことがあり、これが私に対する彼の不満の種の一つになっていたのです。
私は何か動くもので目が覚め、それは私の上を走りました。私は飛び起き、目覚めたルームメイトが灯りを点けました。それはルームメイトが恐れていた類の巨大なゴキブリでした。私は彼の恐れを軽視し、その結果をこうむっていたのです。私は、ゴキブリを送ったのも、ゴキブリであるのも、共にババであることがわかりました。私は内なるヴィジョンで、この小さな教訓を思い出して愉快に笑っているババを経験したのです。ババが冗談好きであることは頻繁に経験していましたが、これはババが私に冗談を仕掛けた最初の経験でした。
私は翌朝、発たなければなりませんでした。最終日にはダルシャンで最前列に座ることができた〔当時の慣行〕のですが、私はその選択肢を放棄して自分の可能性に賭け、七列目の結果となりました。私はババの祝福を願い、私の愛と帰依を伝える手紙を持っていました。私はババにその愛の象徴を受け入れてほしかったのです。ババに手紙を手渡すには遠すぎることはわかっていましたが、それは問題ではないように思えました。私は注意深く道筋を選び、ババが近づいたら立ち上がって、前に出るつもりでした。通常は従者たちがだれにもこれをさせないのですが、私はやってみようと決めていました。
ババに近づくにつれてエネルギーが満ちてくるのを感じました。機を見計らって私は立ち上がり、前に歩き始めました。ババは私を見て、手招きし、私の手紙と心を受け入れてくれました。私は愛に満たされ、歩み去るババに感謝しました。それ以上、何も望みませんでした。欲しかったすべては手に入りました。
ダルシャンの後、居残っていると、インド人の男性が、ババが私をインタビューに呼んでいたと私に言いました。私は関心がなかったか、あるいは気がつきませんでした。行くには遅すぎました。私の一部は何かを逃したことを悔いていた一方で、他の部分はそれで完璧なのだと知っていました。ババを一人の人物として見る偽りの自己への執着が私には未だにいくぶんか残っていることを、ババは私に見せていたのです。インタビューはこの幻想を強化することになったでしょう。その後で私は、「インタビューは些細なものです。インタビューはあなたを分かちます」という文章を読みました。再びババは、完璧ではあっても難しい教え───私とは別人としてのババへのあらゆる執着を手放さなければならないという教え───を私に与えてくれたのです。目に涙を浮かべて、私は別れを告げました。
アシュラム滞在中ずっと、ババは私が心から差し出したものだけを受け入れました───他には何も受け入れませんでした。そうすることで、ババは一度として私の偽りの自己を支持も肯定もしないことにより、私の執着を際立たせたのです。それに対して、私の偽りの自己は、私がそうした執着を手放し、心を開くことができるまで、その執着によって煽られたあらゆる類の画策をやってのけました。その間ずっと、私はサイ・ババを揺るぎない慈悲と愛───分離という幻想を超えた真我の鏡として経験しました。
この訪問以来、サイ・ババはいつも私がいるところにいるので、私はインドに戻る必要を感じたことはありません。ババの意識は、愛のみが実在であることを私に教え続けていて、それにより、私の偽りの自己が衰退し、私の本性が顕現するように促しています。
Purifying the Heart
心を浄化する方法
(サティヤ・サイ出版協会)