仏教の教えは、たいへんむずかしいもののように思われています。その大きな原因のひとつは、仏教の経典がいかにもとっつきにくい外見をしているからだと思います。それも無理はありません。三千年近くも前に、インドのことばで書かれたものが、むかしの中国のことばである漢文に訳され、それがそのまま日本に伝わって現代におよんでいるからです。

仏教の経典のうちで最もすぐれたものが「妙法蓮華経(法華経)」であることは、もはや動かすことのできない定説になっていますが、いまわたしどもの手もとにあるかなまじりのものでも、むずかしい漢字が多く、たいへんいかめしい感じです。その解説書にしても、おおむね原典そのままのわけを書いてあるにすぎません。そして「法華経」には、幻の世界のような場面があったり、おとぎ話のような物語があったり、かと思うと非常に含みの多い哲学的なことばが出てきたりして、なんだか現実の生活から離れた、不思議な、神秘的な教えのような気がします。それで、たいていの人が「とても『法華経』は深遠でわからない」とさじを投げたり、「いまの世には通用しない夢のようなものだ」と、あたまから問題にしなかったりするのです。

けれども、釈尊がお説きになった当時は、そんなわかりにくいものではなかったのです。釈尊は、神がかりになって一般の人に理解できないような神秘的なことをいいだされたものでもなければ、ひとりよがりの考えを押しつけられたものでもありません。釈尊は、「この世界とはどんなものか。人間とはどんなものか。だから、人間はこの世にどう生くべきであるか。人間どうしの社会はどうあらねばならないか」ということなどについて、長い間考えて考えぬき、そして「いつでも」「どこでも」「だれにも」当てはまる「普遍の真理」に達せられたのです。「いつでも、どこでも、だれにも当てはまること」が、そうむずかしいものであるはずはありません。たとえば、「一を三つに分けたものは三分の一である」ということのように、だれにも理解できることなのです。「これを拝めばかならず病気が治る」というような、理性ではわからない、ただ信ずるほかはない教えとは、まるっきりちがうのです。

ところが、「一を三つに分けたものは三分の一である」というようなことでも、わかるときがこないとほんとうにはわからないものです。立教大学の教授で、有名な数学者である吉田洋一氏が、こんな思い出話を書いておられます。───小学校三年生か四年生で小数をならって、1÷3=0.3333······といつまでも割り切れない計算にぶつかった。しかし、実際に紙を三つに折ってみるとキッチリ三つに折れる。さぁ、わからない、りくつでは割り切れないのに、実際は割り切れる。さすがに後日数学者になる人だけあって、真剣に「不思議だなぁ」と考えていた。すると、五年生か六年生になって、分数というものをならった。「三分の一」という新しいものの見かたを教わった。これが1を3で割った答えだときかされて、はじめはなんだかバカにされたような気がした。しかし、その分数というのがたいへん気に入って、「三分の一」というものをひとつの数として考えようと、とても努力した。おかげで、実際に紙を三つに折ることができるのはちっとも不思議ではないことがわかった───というのです。

仏教も、ちょうどこのようなものです。もともとだれにも必ずわかるはずのものだが、あるところへ達するまでは、ほんのひと息というところでわからない。数学でも、初めから分数のような進んだ考えを教えたらよさそうなものだけれども、まだ小学一年生や二年生に一足飛びにそれを教えてもかえってわからないから、まず一とかニとかいう整数から始め、次に小数を教える。あるいは、三分の一という頭のうえだけの「考え」を教えないで、まず紙を三つに折ってこれが三分の一だよという「実際」を教える、釈尊が当時の人びとを教えられたのも、ちょうどそのように、相手の理解力に応じ、理解の程度に応じて、いろいろさまざまな説きかたをされたのです。たとえ話をされたり、因縁話をされたりしたのです。それで、当時の人びとにはよくわかったのです。「法華経」の文章に現われている表面だけを見て、「実際にはありそうにもない幻のような世界が説かれている、とても信じられない」などと考えるのは、じつに浅い読みかたであって、その精神を読めば、非常に近代的な、科学的な、人間的な真理に満ちているのに驚かざるをえないでしょう。

重ねて申しますが、釈尊の教えは当時の人びとにはとてもよくのみこめたのです。よくのみこめたから、当時の人びとの人生をすばらしいものに一変させたのです。そうでなければ、五十年の短いあいだに、あれだけ多くの人びとが心から帰依するはずがありません。しかも、釈尊の教団は、「きたる者は拒まず、去る者は追わず」というきわめて自由なものだったといいます。「法華経」の「方便品第二」にでてくる「五千起去」もその例で、五千人もの弟子が一時に法座から立ち去っていっても、釈尊はそれをお止めにならなかったのです。こうして、無理に引っぱっていくことも、押しとどめることも一切されなかったにもかかわらず、みるみるうちに帰依者の数が何十万となっていったことは、釈尊その人のならぶものもない感化力や説得力にもよったことはもちろんですが、何よりも教えそのものが尊く、そしてだれにもよく解ったからほかなりません。

ところが、釈尊のこの徹底した自由主義は、その入滅後に一時ちょっとこまった状態をひきおこしました。というのは、入滅されるときの遺言も、ただ「すべての現象は移りかわるものだ。怠らず努めるがよい」という一言だけで、だれがどんなふうに教団をまとめていけよというようなことは、一言もおっしゃらなかったのです。残された弟子たちは、地区ごとに自然なまとまりをもって、釈尊の教えを守っていました。しかし、教義の統制ということがなかったために、広いインドのそれぞれの地区で、あるいはそれぞれのグループで、教えに対する解釈がすこしずつちがっていたのです。

そのちがいを大づかみにいえば、釈尊が自らよくお出かけになって説法なさったところでは、法の解釈も正しく伝えられていましたが、釈尊から直接に説法をきかず教えだけが伝わっていったような場所では、伝える人の考えかたが加わって、かなりちがった形式で伝えられたようです。これは、場所や人の問題だけでなく、時間的にもそういうことがいえるので、釈尊ご在世中や入滅後しばらくのあいだは血のかよった生きた教えだったのが、だんだん年月がたつうちに、ほんとうの精神が失われて、形だけしか伝えられないという結果になったのは、ご存知のとおりです。

さきに「一時ちょっとこまった状態をひきおこした」と書いた「一時」というのは、けっして百年や二百年のことだけではなく、二千数百年たった今日までのことをいったのです。人類永遠の生命のうえから考えれば、二千数百年などほんの「一時」なのです。中国から日本へ伝わった仏教は、高僧・名僧の出るごとに、一時は潮が満ちてくるように生き生きした力をもったこともありましたが、その潮もしばらくのうちにスーッと引いていってしまうのでした。日蓮聖人は、日本の仏教に生命を吹きこまれた最もすぐれたお方であると信じていますが、その入寂後年月がたつうちに、やはりその教えもゆがめられたり、形だけのものになってしまったのです。

さて、釈尊が入寂されたすぐあとのインドでも、前にも述べましたように、場所により、弟子たちのグループによって、教えの解釈がちがってきました。ことに出家の人びとは、在家の人びとのできないようなことを行なったり、説いたりして、出家の権威をつくろうとしました。ご在世中は、「法華経」の中にも毎度でてきますように、比丘(男の出家)、比丘尼(女の出家)、優婆塞(男の在家修行者)、優婆夷(女の在家修行者)たちがみんないっしょに説法をきき、修行し、なかよく法の弘通につとめたのが、いつのまにか出家と在家とのあいだにみぞができてきました。

どんなみぞができたかといえば、出家の一部の人びとは、「なぜ戒律(仏教者の生活の戒め)を守らなければならないか」という根本精神よりも、ただ「戒律を守ること」だけを重んずるようになりました。すなわち形式主義です。

また、もともと生きた人間のための、人間生活のための教えであったのを、当時インドにあったほかの教えや学問に対抗するために、わざわざひどくむずかしい哲学につくりあげてしまった出家たちもあります。

また一方では、「とても釈尊のいわれるようにすべての人びとを仏の境地まで導くことはできない。われわれも、とうてい仏のようなえらい人にはなれない。ただ、自分がこの世の苦しみや悩みから解脱すればいいのだ」という、利己的な考えに落ちこんだ人たちもあります。

こうしてゆがめられ、生き生きした力を失ってゆく仏法を見て、「このままにしておいてはいけない。どうしても釈尊のほんとうのお心にかえさねばならぬ」という熱烈な願いが、主として在家信者のあいだに起こってきました。そうしてできた新興グループが、大乗仏法の教団なのです。大乗というのは、「よい乗りもの」という意味で、仏の世界に達するためのよい乗りものであるというわけです。そして、いままでの古い教団の考えかたを「小乗」(いやしい乗りもの)といって軽蔑しましたので、古い教団でも負けてはいず、「おまえたちのいうのはほんとうの仏教ではない」とやり返し、両方ははげしく対立しました。

そのとき、「いや、仏の教えに大乗も小乗もない。ただ一乗しかないのだ。みんな仲間どうしのけんかはやめて、この一乗に従おうではないか。釈尊が『これこそ、いちばんすぐれたものだ』といってお説きになった最高の教え、真実の教えは、この法門だったのだよ」といって書きあらわされたのが、ほかならぬ「法華経」だったのです。

それは仏滅後七百年ぐらいたった頃のことだといわれていますが、わたしは、その七百年間における仏教の移り変わりが、現在にいたる二千数百年の移り変わりとそっくりの、いわばひな型のようなものだということに、大きな意味を感じるのです。仏教が形だけの、そして現在生きている人間を救う力のない仏教になってしまった二十世紀に、ほんとうの釈尊の教えにかえろうという運動が、在家の帰依者のあいだから起こり、在家の人びとを中心として日本じゅうにひろがろうとしている事実は、まことにおろそかに考えてはならぬ深い深い仏意によるものだと信じます。

日本国じゅうだけではありません。仏の教えを新しく見直そうという動きは、いまや世界全体に潮のように起こっています。欧米の進歩的な人びとには、一神教にも、無神論にも、唯物主義にもあきたらず、最後に仏教に解決を求めようとする人が少なくありません。共産主義国である中華人民共和国でさえも、新しい倫理(人間のふみ行なうべき道)の原理として、仏教の教えをとりあげているときいています。

ほんとうに、いまこそ大切なときです。いまのうちに地球上の人間が仏の教えにたちかえって、「人間の尊厳」ということをしっかりと考え、「自分と他人をともに生かす」という生きかたにもどらないかぎり、人類はいっぺんに滅びてしまうことにもなりかねないのです。

このときにあたって、わたしがいちばん残念に思うのは、仏の教えのこめられた「法華経」の見かけが、いかにもむずかしそうであることです。そして限られた人たちだけの研究物か、宗教専門家たちの占有物のようになっていることです。そのために、日本中の人びと、いな地球上全体の人びとにほんとうに親しまれず、理解されず、したがって人びとの生活の中へ浸みとおってゆきにくいということです。

わたしがこの本を書こうと考えた趣意の第一は、ここにあるのです。あくまでも「法華経」の元の形は尊重しますけれども、何よりも大切なその精神が、現代の人びとに理解され、共感されるようにということを本意として、解説してみようと考えたわけです。

「法華経」は、一部分だけ読んだのでは理解されるものではありません。「法華経」は、深い教えであると同時に、すばらしい芸術作品であるともいわれておりますとおり、お経の全体がひとつの劇のようにあらわされています。だから、初めから終わりまで読みとおさなければ、ほんとうの意味をつかむことはできません。ところが、あのむずかしいことばの多いお経を初めから終わりまで読みとおして、その意味をつかむのは、容易なことではないのです。どうしても、現代人の頭で理解できるような解説が必要なのです。わたしがこの本を書こうとした第二の趣意はここにあるのです。

しかし、高度の芸術作品であるだけに、あくまでも元の形は尊重しなければなりません。また、芸術作品であるだけに、その経典(かなまじり訳でもよい)には、わたしたちの魂に浸みこんでくるような、なんともいえぬ力強さがあります。それで、この本を読まれるときに、経典を参照しながら読まれると、なおいっそうよく理解できることと思います。その参考のために、平楽寺書店版の『訓訳法華経並開結』によって、経典の何頁何行目にあるかということを、傍注によって示しておきました。もちろん、それは、特別に深く研究しようと思う人のためであって、「法華経」の精神はこの本だけでも十分会得できるはずです。

そうして、この本によって「法華経」全体の精神を理解したうえで、要所要所を経典によって朝夕読誦されるならば、その精神はますます強く魂の底に植えつけられ、それはかならず日常生活の行ないのうえに現われ、そしてあなたの前には新しい人生が開けてくるでしょう。それを念じ、それを信じて、この本を書く次第であります。

 

「法華経」がどうして生まれたものであるかについては、前にあらまし書きましたが、もうすこし詳しく、そしてそれが日本に伝わるまでの成りゆきも、述べてみましょう。

釈尊ご在世のころのインドには、まだ文字がありませんでした。それで、釈尊の説法は、耳で覚えて口づてに伝えられました。ものを聞いたら頭に覚えるよりしかたがなかったころの人たちは、今ではちょっと想像できないほど記憶力がたしかでした。また、その頃は、生活も今日のように複雑なセカセカしたものではなかったし、しかも、頭がよくて心の澄みきった大弟子たちが、師と仰ぐ釈尊の一語一語をかみしめるように聞いていたのですから、まず聞きまちがいはなかったことと思われます。そのうえ、仏弟子たちは、釈尊が入滅されたのち、自分たちの記憶にまちがいはないかと、なんども大会議を開いて、それをたしかめたり、訂正しあったりして、ひとつにまとめました。ですから、耳で聞き、口で伝えたにしても、釈尊のおっしゃったことは正しく残されていったわけです。

とはいえ、広い北インドの土地を五十年間も、足の裏の土踏まずが板のようになるまで歩きまわって説かれた、数知れないほどの説法ですし、前にも述べましたように、その人その人の理解力に応じていろいろな説きかたをされましたので、地区により、グループによって、受け取りかたがちがってきましたし、時代の移り変わりによって、解釈のしかたや、行ないのうえに表現するやりかたがちがってきたことは、やむをえません。

しかし、釈尊の教えそのものは、前に述べたような仏弟子たちの努力によって、正しく伝えられました。ですから、どのお経だって尊くないものはありません。「阿含経」にしても、「般若経」にしても、「阿弥陀経」にしても、その他のお経にしても、それぞれに尊い教えが説かれています。ただ「法華経」には、そういう釈尊ご一代のすべての教えの根本精神がはじめてはっきりと発表され、またすべての教えの精神がよくかみくだかれて、ここに統一されているのです。いいかえますと、釈尊が「これこそわたしの教えの神髄であるぞ」とおっしゃったその神髄が、わかりやすい、そして感動に満ちた表現であますところなく述べられているのです。

よく、あるお経とあるお経との優劣を論じたり、それを釈尊の教えの優劣のように錯覚したりする人がありますが、それはとんでもないまちがいです。どの経典も、釈尊ご自身が編集されたものではありません。釈尊は、鹿野園で五人の修行者に最初の説法をなさってから八十歳で入滅されるまでの五十年間に、数知れぬ人たちにむかって、数知れぬほどの説法をされただけなのです。その数知れぬほどの説法のうち、それぞれのグループの弟子・孫弟子たちが、自分たちが聞いた、あるいは聞き伝えた説法を、思い思いに本にまとめたのが、いろいろな経典なのです。釈尊ご自身は、どのお経を通じて仰いでも、同じ光でわれわれを照らしてくださる尊いお方であることに変わりはないのです。ですから、「法華経」が最高の教えであることにはまちがいないのですけれど、それを讃えるためにはほかの経典をけなしたりするのは、心得違いといわなければなりません。

さて、その「法華経」は、当時の大衆によく理解できるように、戯曲のような形で編集されました。また、形のない、あたまのうえだけの考えというものは、そういうような学問をした人でなければのみこみにくいものですから、「法華経」の編集者は、形のない思想をある形に現わして、のみこませようと努力しました。

たとえば、お釈迦さまの眉間から光が出て東方一万八千の世界をハッキリと照らしだすと、どこにも仏や仏の弟子たちがおられるのが見えたことが「序品第一」にありますが、それはつまり、この地球上ばかりでなく、どの星にも、どの天体にも、すなわち、宇宙全体どこにでも仏はいらっしゃるのだということを、こういう表現でいいあらわしたのです。

地が震動するのも、花の雨が降るのも、みなそうです。現代の文章にも「くやしくて、全身の血が逆流した」とか「おかしくて、笑いころげた」などという表現がよく使われています。だれしも、これを読んで、うそだとは思いません。ところが、よく考えてみると、いくらくやしくても、全身の血は逆流などしませんし、笑いころげたといっても、せいぜいおなかをかかえて、頭を畳へつけるかつけないかぐらいでしょう。しかし、「全身の血が逆流した」とか「笑いころげた」という表現は、「事実」ではなくても、書いた人の心持の「真実」をよく伝えてくれます。

ここのところが「法華経」を理解するひとつの鍵なのです。大切なのは、「事実」でなく、「真実」です。仏がわたしたちに教えてくださろうとする「真実」なのです。ですから、どんなに実際にはありそうもないことが書いてあっても、その文字の、その文章の表面をつき抜けた奥にある「真実」、仏が教えてくださろうとする「真実」をこそ、しっかとつかまねばならないのです。

その「法華経」を中国に伝え、中国語に訳した人はいろいろありますが、現在用いられているのは鳩摩羅什という人の手になったものです。この人のお父さんはもとインドの名門の出ですが、インドと中国のあいだにある亀茲という国に行き、ここの国王の妹と結婚しました。そして生まれたのが鳩摩羅什です。この国もたいへん仏教の盛んな国で、鳩摩羅什も七歳のときお母さんと共に出家し、インドに留学して大乗仏教を学びました。その才能・人格が万人にすぐれていることを見極めた師の須梨耶蘇摩は、羅什が帰国するときに、「妙法蓮華経」を授け、その頭をなでながら、「仏日西に入りて、遺耀まさに東におよばんとす。この経典は東北に縁あり。なんじ慎んで伝弘せよ。」と、いわれたとあります。「東北に縁あり」ということばは、いまからふりかえってみると、たいそう意味深いものであって、後日、さらに東北にある日本においてほんとうにその生命の花が開いた事実に、無量の感を覚えざるをえません。

さて、羅什は師のことばに従って、東北のほうにある中国へいってこのお経をひろめようという一大決心をしましたが、そのころの中国には戦乱があいつぎ、国が滅びたり興ったりして、なかなか思うようにいきませんでした。しかし、羅什の名声はあまねくひびきわたっていましたので、ついに姚秦という国ができたとき、その国王の招きを受けて国都長安に行きました。そのときすでに六十二歳におよんでおりましたが、その後八年間、七十歳でなくなるまで、国師の待遇を受けながら、いろいろな経典を中国語に訳しました。

なかんずく「法華経」が最も重要なものであったことはもちろんです。それまでの中国語訳には、誤りがたくさんありましたので、羅什は非常に慎重な態度で、しかも命をかけた真剣さで、その仕事にうちこみました。すなわち、羅什はインド語も中国語も自由自在だったのですけれども、自分一人で訳述するようなことをせず、やはり両国語に通じた大ぜいの学者を集め、国王や信徒なども列席のもとに、「法華経」の講義をしました。学者たちはその筆記をもとにして、それぞれ中国語の訳をつくり、それを持ちよって研究に研究を重ね、厳重な討議をして、ようやく定本をつくりあげたのです。それに従事した人は、およそ二千人にもおよんだといわれています。ですから、インドのことばから中国語に訳されても、釈尊の教えはほとんど誤りなく伝えられていると断じてさしつかえないわけです。

それについて、こういう話があります。国王は、羅什の人物や才能に深く心服していましたので、どうしてもその子供を残したくてしかたがありません。それで、無理に羅什に奥さんを持たせたのです。そういういきさつがありましたので、羅什は入寂するときに、

「わたしはやむをえず戒律を破って妻をもったが、わたしが口で述べたことだけは、けっして仏意にそむかなかったものと信じている。もしそのとおりだったら、わたしのからだを火葬したとき、舌だけは焼けのこることだろう。」

と、いい残しました。すると、入寂後火葬にしたところ、はたして舌だけが青蓮華の上に輝かしい光を放っていた、と伝えられています。

その後、中国の仏教の中心となったのはこの「法華経」であり、それも、小釈迦といわれた天台大師があらゆる大乗小乗の経典をきわめつくした結果「仏陀の真意はここにあり」と断じて、「法華玄義」(十巻)、「法華文句」(十巻)、「摩訶止観」(十巻)のようなすばらしい解説書をあらわされてから、ますます広く全中国にひろがり、まもなく朝鮮をへてわが国へも伝わってきました。

羅什訳の「法華経」が難波(いまの大阪)に着いたのが五七七年で、それから三十八年後には、聖徳太子のお手によって日本最初の解説書「法華経義疏」がつくられています。この「法華経義疏」こそ、現存している日本の書物のうちでいちばん古い書物なのです。

聖徳太子は、「法華経」の思想にもとづいて有名な「十七条の憲法」をつくられ、はじめて日本の「国と法」と「人間のふみ行なうべき法」をうちたてられました。このときから日本に「文明」が開けたといっても過言ではありません。わが日本の文明の夜明けが、ほかならぬ「法華経」の精神によってなされたという大事実を、われわれは忘れてはならないのです。そのとき以来、じつに千四百年、われわれの胸には、われわれの血には、「法華経」の精神が脈々と流れ続けているのです。

その後、このお経の教えの弘通に力をいれられた方は伝教大師(最澄)、承陽大師(道元)、その他数々ありましたが、とくに立正大師日蓮聖人が、身命をなげうってこれに新しい生命を吹き込み、広宣流布につとめられた偉業は、いまさら申すまでもありません。

それから七百年の年月がたちました。かつて釈尊入滅後その教えが次第に生き生きした力を失ってゆき、七百年後に「法華経」が生まれたことによってもとの生命をとりもどしました。不思議なことには、聖徳太子以後七百年のあいだにも同じようなことが起こり、そこで日蓮聖人が世に出られたわけですが、またその後の七百年の年月のあいだに、「法華経」のほんとうの精神はいつしか忘れられ、ぬけがらだけになってしまったのです。ただうちわ太鼓をたたいて「南無妙法蓮華経」をくり返して唱えれば救われるとか、「おまんだら」を拝みさえすれば願いがかなうとか、たいへん低い考えかたにさえ落ちこんでしまいました。

「法華経」は、その内容が尊いのです。その精神が尊いのです。そして、その教えを実行することが尊いのです。その教えを理解し、信じ、実行することによって、普通の社会生活をいとなみながらも、いろいろな悩みや苦しみにとらわれない心境へ次第に近づいてゆく。人と人とがなかよくし、人のためにつくさねばいられないような気持になってゆく。たとえ一日のうちの数時間でもそういった気持になってくれば、その人の健康も環境も自然に変わってくる───それがほんとうの救いなのです。世界じゅうの人間みんなが、そんな気持になり、みんなが平和に、幸せにくらしてゆくようになる───それが「法華経」の窮極の理想であり、願いなのです。

まことに、「法華経」は「人間尊重」の教えであり、「人間完成」の教えであり、「人類平和」の教えです。一言にしていえば、人間主義(ヒューマニズム)の教えなのです。日蓮聖人入滅後まさに七百年、いまこそわたしたちはこの教えの神髄にたちかえって、自分自身のため、家族のため、人のため、世のために、よりよい生活を築いていこうではありませんか。

 

法華経の新しい解釈(佼成出版社)