こういう仏の教えを感得して、行者の心はいよいよ喜びに満ちるのですが、と同時に、また、もっともっと懺悔しなければならぬことがあるのではないか───という心の声がひびきわたります。そして、こんどは身体と心の罪について懺悔するのです。

身体はどんな罪をおかしているかといえば、殺生・偸盗・邪淫などです。心の罪とは、いろいろな善くないことを考えることです。身体と心は一体で離れることのできないものですから、両方がいっしょになって十悪業や五無間(父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏身を傷つける、仏弟子の和合を破る······の五大悪逆で、無間地獄へ落ちる)の大罪を犯かすのです。

そういう身と心の罪は、まるで猿が枝から枝へ飛びうつるように、またとりもちがあちこちにくっつくように、やり始めたらもうきりがなくなって、つぎからつぎへと罪をつくるようになるもので、六根のすべてにそういう毒気が沁みわたってしまうのです。その毒気は六根から出た枝葉の先(心の小さな動き)までひろがり、三界のいたるところへ、そして三界のありとあらゆるものへ悪影響を及ぼし、またいくら生まれ変わっても(一切の生処に)ついてまわるのであります。

そして「十二因縁」の法門で教えられた十二の苦しみをつのらせ、八邪・八難というよくないことがつぎからつぎへと起こってくるというのです。八邪・八難というのはあまり専門的になるのでくわしくは説明しませんが、八邪というのは八つのまちがった心と行ない、八難というのは仏の教えにはいることのできないような八つのよくない境遇のことをいいます。

こういう身と心の悪業を懺悔しなければならないぞ───という空中の声(心の奥にひびく声)を聞いた行者は、その空中の声に対して、どういう心の持ちかたで(何れの処にしてか)懺悔の法を行じたらいいのでしょうかと、真剣に問いかけます。すると、空中の声はつぎのように教えてくれるのです。

「応身の釈迦牟尼仏は、じつは久遠実成の法身(毗盧遮那仏)であられて、つねに一切の所にあまねくおいでになることを深く自覚すること」、これが懺悔の最終の、そして最高の段階であるというのです。

その仏のいらっしゃる所は、常に平和な光に満ちている世界です。そして、その世界は、無常なものへの執着から離れて常住のものをしっかりとつかまえる修行(常波羅蜜)によって出来上がったものであり、ものごとがどんなに変化しても動くことのない絶対の存在である仏を信ずること(我波羅蜜)によって安立した世界であり、浄らかな心で自他の差別(有相)を捨てきったところ(浄波羅蜜)に実現する世界であり、真の心の平和を得る修行(楽波羅蜜)によってつくりあげられた世界であり、その世界にはいることができれば、現在の心身の相がどうであろうとも、そのままで平和な心境でおられるのです。また、その世界は、差別(有)とか無差別(無)さえ超越した、まことに寂かな、一切の迷いや苦しみから解脱した世界であり、諸法実相の智慧(般若波羅蜜)の成就された世界です。

この仏の世界(是の色)は、変化することのない絶対の存在(常住の法)でありますから、十方の仏の世界をこのように観じ、ひたすらこの仏の世界に達したいと願うことが、最大の懺悔であるわけであります。

それで、こう観ずるとき、十方の仏は右のみ手をのべて行者の頭をなでておほめくださるのです。そのおほめのことばがつぎに述べられているのですが、ここもたいへんむずかしいことばが多いので、一通り通釈することにします。何度もよく原文を引きあわせながら読めば、かならずその真意を会得することができると思います。

大乗経を読んで心が菩薩行に決定したからこそ、諸仏は懺悔の法を説きたもうのであって、このことが大切な出発点となるわけです。その菩薩の行を行なうには、まず結使(煩悩)の起こりやすい世界に住んでいながら、しかも煩悩の海に没していないということが大切です。凡夫の心を観じてみると、定まった心というものがなく(心なし)、いつもグラグラ動揺しています。それはものの見かたが顛倒しているために起こるものであり、このような心(差別相の心)は、自分中心のまちがった考え(妄想)から起こるのです。自分中心であるから、自分の利害や感情によってクルクル変わり、まるで風のようにとどまるところのないものです。そして、このような心のはたらき(法相)は、生ずるかと思うと消え、消えたかと思うと生じて、まことに定まりがないのです。

何を罪とし、何を福とするのか?自分の心がこのように仮りの世界をさまよう定めないもの(この場合の「空」はこの意味)であれば、これが罪であり、これが福であると定めることもできない。一切のものごとは、このように頼りないものである───こう懺悔して、われわれの心というものをよくよく観察してみると、これが心だと思っていたのは、ほんとうの心ではなくて迷いの雲に過ぎず、また世の中のすべてのものごと(法)も、ほんとうにしっかりした実在ではない(法の中に住ぜず)ということがわかってくるのです。

ほんとうの実在(諸法)というものは、そういう目前の現象の迷いから解脱したところに見いだされるものであり、あらゆる煩悩を滅し去ったところ(滅諦)に存在するものであり、それこそ不変(寂静)のものであります。

このことをしっかりと考えるのが大懺悔であるというのです。変化するものにとらわれる心をなげうって、不変のものを一心に心に念ずることです。それこそ大懺悔であり、大荘厳懺悔(最も美しい懺悔)であり、無罪相懺悔(ほんとうに罪をなくしてしまう懺悔)であります。そして、それは「破壊心識」と名づけることもできます。「破壊心識」というのは、いいかげんなところで、もう十分だと自分と妥協する気持をうち破っていく力であります。

こういう懺悔をつづけていけば、その人の身も心もすっかり清浄になり、この世のさまざまなできごと(法)にとらわれず、精神が自由自在なことは流れる水のようになることでしょう。そして、いつも普賢菩薩および十方の諸仏と共にあるという心持を、実感としてはっきり感ずるようになるのです。

そうなりますと、仏の智慧の極致である無相の法(諸法の実相はすべて「空」であること)がはっきり会得できるようになります。すなわち、「空」ということの第一の意味(宇宙の万物はその根本においては平等であること)を心の奥底につかむことができるのです。およそ常識とは逆に見えるこのことがたしかに真理だとわかっても、もうその人は驚くことも恐れることもありません。時がくれば菩薩として恥ずかしくない境地(菩薩の正位)に達する資格を、身につけているからです。

そこで、仏は阿難にむかって、懺悔というのは、ただ罪の告白をするだけではない。仏の心に完全に一致するまで、自分の仏性の表面にコビリついた汚れを磨き落としていって、最後には、仏とおなじ大慈悲をもってあらゆる衆生を平等に見、平等に救っていこうという心を持つようになること、これが真の懺悔である───とお説きになります。そして、つづいてつぎのようにお教えになるのです。

「仏の滅後において仏の教えを信ずるものが自分の悪業を懺悔しようと思うならば何よりも大乗の経典を読誦することが大切なのです。大乗の教えは諸法の眼であります。すなわちこの法によって諸法は肉限・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五眼を具えて、あらゆるものごとの実相を見通されたのです。

また、仏の本体(法身)も、その現われである報身・応身も、大乗の教えによってこそ知ることができるのです。まことに、大乗の教えは仏教の大眼目であって、涅槃(ほんとうの魂の安らぎ)のひろびろとした世界を教えるものです。仏はその涅槃の世界から生まれるもので、人間界・天上界のものに福を与えてくださる、最も感謝申しあげねばならないお方であります。ですから、大乗の中から生まれ変わるといっていいでしょう。」

こうお説きになった世尊は、偈を説いて重ねてお教えになります。この偈はとくに大切な偈ですから、ずっと一通り解説することにしましょう。

「もし心の迷いと業障によってものの見かたが誤っていることに気がついたならば、一心に大乗の教えを誦し、一切衆生を救おうという仏のみ心にかなうことを念じなければならない。これが眼の懺悔であって、よくない行ないを消滅し尽くすものである。

また、乱れた心でものを聞いて人間関係に不和を生じ、悪感情が悪感情を生んではてしなく循環するような状態になったならば、ただ大乗の教えを誦して、すべての人は平等に仏性をもっていることを深く思わなければならない。そのことを悟れば、すべてのものごとが正しく耳にはいってくるようになるであろう。

またもし、心が快楽に執着すれば、それに引かれて(染に随って)、さまざまのまちがった感情(触)を起こし、その感情によっていろいろな迷い(塵)が生ずるのである。そのとき大乗経を誦し、仏の窮極の悟り(法の如実際)である諸法の実相を思えば、すべての悪業が消滅して、ふたたび生ずることはないであろう。

舌は五種の不善業を起こすもとである。それを調えて正しいことばを出すようにしたいと思うならばつねに「人のため」ということを念じていなければならない。そして、世の中の真実の道理(真)をわきまえ、差別や変化を離れたほんとうの相(寂)すなわち万人に具わっている仏性というものを見つめ、人を分けへだて(分別)する小さな心を捨ててしまうことである。これが舌の悪業を除くただ一つの道である。

心は枝から枝へ飛びうつる猿のように、しばらくもじっとしているものではない。もしその悪を押さえて正しい道へ引き入れ(折伏)ようと思うならば、つとめて大乗の教えを誦し、天地万物をつらぬく真理を悟られ(大覚)、すべてのものを救う力を具え、なにものにも動かされることのない(無畏の)仏の相を心に思い浮かべることが第一である。

また、人間の身体は、いろいろなはたらきをするものであるが、そのはたらきは周囲の事情によってどうにでも変化することは、まるで塵が風によって飛ばされるようなものである。身体の中には六根のわがままな欲望(六賊)が、思うぞんぶん暴れまわっているのである。この六根のあやまった欲望を滅して、いろいろな迷い(塵労)から離れ、身も魂もほんとうに平和で、安らかで、他人に求めることのない心(憺怕)でいたいと思うならば、ひたすら大乗経を誦して、仏の慈悲(菩薩の母)を念じなければならない。

世の中のためにつくす非常にすぐれた方法(勝方便)というものは、こうして大乗の教えによって諸法の実相を思うことから限りなく生まれてくるものであって、いま説いた六つの法則が、人間の心のはたらき(六情根)を正しくする方法にほかならないのである。

これをひっくるめていえば、一切の業障はみな妄想から起こるのである。であるから、もし自分の業障を懺悔しようと思うならば、静かにすわって、諸法の実相を深く考えることである。すなわち、十如是を思い、三法印を思うことである。

罪というものは、もともと存在するものではなく、人間の迷いから生じた仮の現われであって、ちょうど霜や露のようなものである。智慧の太陽が射せばたちまち消え失せてしまうものである。であるから、ひたすら実相を思うことによって、六情根を洗い清めなければならないのである。」

この「若し懺悔せんと欲せば  端坐して実相を思え  衆罪は霜露の如し  慧日能く消除す」という一句は、短かいことばの中に仏教の神髄を尽くしたもので、ほんとうに尊いものであります。かならず暗誦して、胸に刻みつけておくべき句であります。

この偈を説き終わられた世尊は、仏の滅後において大乗の教えを持ち、説きひろめることの功徳をお説きになり、また懺悔の功徳についてつぎのようにお説きになります。

「わたしも、菩薩というものと、仏というものと、そして大乗の教えの真実の意味を知りえたために、長い間つくった罪をすべて消滅させることができました。そして、このすぐれた懺悔の法によって、仏となることができたのです。ですから、みんなも、まっすぐに阿耨多羅三藐三菩提に達しようと思うならば、またそのままの身で十方の諸仏や普賢菩薩と共にあるという自覚を得たいならば、身を清めて静かに大乗の教えを学び、その意味を深く考えることです。」

そうして、これが懺悔というものに対する正しい考えかたであって、ほかの考えはまちがっていることを、ふたたび強くお教えになります。すなわち、昼夜六時に十方の仏を礼し、大乗経を誦し、仏のお悟りになった最高の悟りである「空(すべてのものの仏性の平等)」をしっかりと考えれば、どうしてもすべてのものの仏性を拝み、それを引き出してあげたいという願いが湧いてくる、その慈悲の願いが生ずれば、指を一度はじくぐらいの短かい間に、長い間つくってきた罪を消滅することができるのである───と、お説きになります。

そして、この懺悔をなすものこそ、ほんとうの仏の子である、ただ仏の教えがわかったというだけでは、まだほんものではない。懺悔によってすべての人の仏性を見ることができ、それを引き出す慈悲の行の実行を決心したとき、はじめて仏の子といえるのである───と、お説きになります。

そういう人に対しては、十方の諸仏や菩薩が「和上」となるとあります。「和上」というのは、新しく出家したものが受戒するときに、かならず仏の教えを守りますという誓いを立てるのですが、その場合導師としてその誓いを受ける人のことをいいます。その和上の役を仏ご自身がつとめてやるとおおせられているのです。

また、あとに「羯磨」ということばがありますが、これは受戒の儀式のときに、いままでの身と心の経歴を告白した文章を書いて読みあげるものです。そういう告白文は書かなくても、まえに述べたような懺悔をしさえすれば、すでに菩薩戒を受けたと同様であるというのです。

そのことが解れば、つぎに、菩薩戒を身に具えようと願う行者はこう念ぜよと教えられてあることばも、ほぼ理解できることと思います。すなわち、

諸仏世尊は常に世に住在したもう。我業障の故に方等を信ずと雖も仏を見たてまつること了かならず。今仏に帰依したてまつる。唯願わくは釈迦牟尼仏正遍知世尊、我が和上と為りたまえ。文殊師利具大悲者、願わくは智慧を以て我に清浄の諸の菩薩の法を授けたまえ。弥勒菩薩勝大慈日、我を憐愍するが故に亦我が菩薩の法を受くることを聴したもうべし。十方の諸仏、現じて我が証と為りたまえ。諸大菩薩各其の名を称して、是の勝大士、衆生を覆護し我等を助護したまえ。今日方等経典を受持したてまつる、乃至失命し設い地獄に墜ちて無量の苦を受くとも、終に諸仏の正法を毀謗せじ。是の因縁・功徳力を以ての故に、今釈迦牟尼仏、我が和上と為りたまえ。文殊師利、我が阿闍梨と為りたまえ。当来の弥勒、願わくは我に法を授けたまえ。十方の諸仏、願わくは我を証知したまえ。大徳の諸の菩薩、願わくは我が伴と為りたまえ。我今大乗経典甚深の妙義に依って仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依すと、

このように三たび説けと教えられてあります。まことに、仏教徒の信仰と願望をいい尽くしたことばです。「我が証と為りたまえ」および「我を証知したまえ」というのは、「わたくしがこの誓いを実行するかしないか、証人としてごらんになっていてください」という意味です。「勝大士」とは、すぐれた大士すなわち菩薩のことです。

ここに、「まかりまちがって地獄に落ちるようなことがあっても、仏の正法をそしりません」ということばがありますが、これでこそほんとうの信仰といえましょう。宿業が深いために信仰の功徳が急に現われてこないと、すぐ「神も仏もあるものか」などと謗法のことばを吐く人がありますが、それはみずから救いの綱を手放す人です。正法を信じて地獄に落ちることは万が一にもあるはずがないのですけれども、たとえそんなことがあったとしても、あくまで正法を信ずるという気持こそ、ほんとうに純粋な信仰心であって、そういうひとこそ、そのまま救われる人であります。

「阿闍梨」というのは、受戒の儀式のとき「和上」の助手として受戒者にいろいろと指図をする役目の人です。「当来の弥勒うんぬん」というのは、これから後の世に仏にかわって娑婆に出てこられるといわれている弥勒菩薩に、どうぞ教えを授けてくださいと願うのです。「我が伴と為りたまえ」というのは、信仰の道連れとしてわたしを指導してくださいという意味です。

三宝に帰依することを誓ったら、こんどは自分の行ないについて、六重の誓いを立て、また一切の衆生を救おうという心(曠済の心)をもって八重の誓いを立てるとあります。六重というのは「1殺生をしない、2盗みをしない、3邪淫を行なわない、4うそをつかない、5酒を飲まない、6人のあやまちをいいふらさない」の六つの戒めを守ること、八重というのはそれに「7自分のあやまちをかくすようなことをしない、8他人のわるいところだけをとりあげて非難するようなことをしない」の二つの戒めを加えたものです。

この誓いを立てたら、静かな場所で諸仏・諸菩薩・大乗の教えを供養して、「わたしはいま、仏の智慧を成就したいという志を起こしました。願わくはこの志が一切の人びとを救うことに役立ちますように」と念ぜよ───とあります。これが菩薩の誓いです。

そうして、諸仏・諸菩薩を礼し、大乗の教えを念じながら一日ないし三七日一心に行ずれば、出家・在家にかかわらず、そして和上や阿闍梨その他の指導者はなくても、告白文は書かなくても、大乗の教えの力により、また普賢菩薩の助けによって、戒・定・慧・解脱・解脱知見の五つの大きな力を成就することができる。諸仏如来も、はじめから仏であったのではなく、すべて大乗の教えによって仏になられたのであることを、ここで改めて思い出してみることである───と教えられてあります。

そのつぎに、沙門(僧侶)の懺悔と、刹利・居士(普通一般人と解していい)の懺悔に分けて、さらにくわしく説かれてありますが、僧侶のほうのことはこの本の読者には直接の関係がありませんから省略することとして、普通一般人の懺悔についての教えのみを解説することにしましょう。

第一に、正しい心をもって、「仏」と「仏の教え」と「仏法を信ずる教団」の三宝を重んじ、それに背くことがあってはいけない。出家の人びとの修行の障りになるようなことをしてはならない。まして梵行人(出家)に対して迫害を加えるようなことがあってはならない。いつも六つの大切なものを念ずることを忘れてはいけない。その六つのものとは、仏・法・僧・戒・施・天のことです。天というのは、ここでは「世の汚れから離れる」という意味に解すればいいでしょう。そして、大乗の教えを持つものが不自由をしないように面倒を見(供給し)、感謝をささげ、かならず礼拝しなければならない。また、大乗の深い教えである第一義空をつねに心に思っていなければならない。これが、普通人の第一の懺悔の法である───とあります。

第二の懺悔とは、父母に孝行を尽くし、師長を敬うこと。

第三の懺悔とは、正法をもって国を治め、まちがった考えで人民をわるいほうへ導かないこと。

第四の懺悔とは、これはインドの風習で、月に六度ある特別な精進日に、人びとに殺生を行なわしめないこと。これを日本の現実にあてはめれば、あらゆるものの生命を尊重する思想を人びとに植えつけること、といっていいでしょう。

第五の懺悔とは、まず因果の道理を深く思うことです。すなわち、よい種をまけばかならずよい実を結ぶ、わるい種をまけばかならずわるい結果が現われるという原理をしっかり理解することです。その結果の現われに早い遅いはあっても、いつかはそうなることにまちがいはないのです。このことを深く思えば、もうわるいことはできなくなります。

また、「一実の道を信じ」とあります。「一実」というのは、ただ一つの真理、すなわち目の前に現われるこの世のいろいろな現象は、すべて変化するものであって、変化しないものはただ一つの実在(真理・仏)だけであるということをたしかに悟り、信ずることです。そして、その仏はけっして滅するものではない、無始無終の存在であることを心の奥深く自覚することです。これが第五の懺悔でありますが、この第五が最も根本的なものであることは、いうまでもありません。

そこで、仏は阿難にむかって、最後のしめくくりのことばをお述べになります。

「阿難よ。もし末世において、このような懺悔の法を修習するものがあったならば、その人は自らを反省するというこの上もなく美しい徳を身につけ、諸仏に守り助けられて、長い年月を経ることなく阿耨多羅三藐三菩提を成ずることができるでありましょう。」

こうお説き終わりになりますと、多くの天子たちは、あらゆるものの生命に直接触れることのできる美しい心をもつようになって、それぞれの天下を平和に治め、人民を愛し育んでいこうという心を固めました。また、弥勒菩薩をはじめとする諸大菩薩、阿難をはじめとする声聞・縁覚の人びとも、心の底からの喜びを覚え、この教えをかならず実行しようという決心を起こして、世尊に無限の感謝をささげました。こうして、「観普賢教」の説法会は、大きな感銘をもって終わりとなったのであります。

このお経は、密度の高い、そして非常にむずかしいお経ですから、あるいは頭にはいりにくいことがあったかもしれませんが、まとめていえば、───懺悔とは、つまり大乗の教えを学び、実行することにある。そして、いいかげんなところで自分と妥協せず、あくまでも心の迷いや汚れを一つ一つぬぐい去って、自分の仏性を磨きあげていくところにある。また、自分の仏性を磨きあげていくばかりでなく、人のため世のためにつくす菩薩行にこそ、懺悔の実践があるのである───ということになります。

懺悔は、宗教生活にとって欠くことのできない大切なことがらです。このお経をくりかえしくりかえし読誦して、その神髄を悟り、日々実践してゆきたいものであります。

これで、「法華三部経」はすべて終わりました。全体をずっと学んできて、さてわが身をふりかえってみたとき、自分の現実が比べものにならないほどみすぼらしいことに、茫然たる思いをされるかもしれません。ある人が「法華経」を読んで、あまりの深遠さにこわくなってしまったと───告白したということも聞いています。

その気持には一切うなずけるものがありますが、しかし、ひっきょうそれは読みかたが足りないのであって、くりかえして深く読んでいるうちに、「法華三部経」は、その日その場からわれわれを救いへ導いてくださる教えであることがわかってくるはずです。そうして、その中のただ一つの教えからでもいい、ほんのささいなことからでもいいから、実行することがかんじんです。とうてい自分などが及びもつかない教えだ───などと思ってはならぬことは、「法華経」の中にも、何度も教えられてあります。

そのことについて、「百喩経」というお経の中にたいへん適切な例話が説かれていますから、それを紹介してこの本の結びのことばにかえましょう。

あるところに、たいへん愚かな人間がいました。のどが渇いてたまらないので、水を探してあちこち歩きまわっていると、幸いシンド河のほとりへ出ました。ところが、その男は川べに茫然とたたずんだまま、水を飲もうともしません。そばにいた人が不思議に思って、

「きみは、どうして水を飲まないのだい?」

と、たずねました。すると、その男は答えました。

「飲みたくてたまらないんだがあんまり水が多過ぎて、とても飲み尽くすことはできそうもない。だから、どうしようかと思っているんだ。」

「法華経」の教えに対しても、世のすべての人が、このような考えをもつことのないようにしていただきたいと、願ってやまないものであります。

 

法華経の新しい解釈(佼成出版社)