不安や落胆など、精神的な不快感への執着を解く練習法はすでに解説しましたから、ここでは身体的な病気についての執着を解く練習方法に焦点を当てます。あらゆる病気についての練習方法に応用するために、病気への執着を解く練習の代表的な範例をいくつか考えましょう。

病気を追放するためにではなく、心を閉ざす執着を解放するために、私たちは病気に対して執着を解く練習をします。練習を始めるに当たって、その病気に関連してどのような執着があるのかを見極めてください。練習を始める際にほとんどつねにある執着は、病気を取り除く類の執着です。病気の除去への執着を解き放つには、病気を問題もしくは敵と見なすことを手放し、病気が現状とは違っていることを求めずに、存在させる必要があります。
したがって、病気への執着を解く練習をする意図は、病気またはその症状を追い払うことではなく、病気との関係を、執着から無執着へと、拒絶から心を開いた受容へと変えることです。病気に対して心を開くことは、病気に反映されているあなたの一部ーあなたが心を閉ざしていたあなたの一部ーに対して心を開くことです。要するに、病気の除去への執着を手放すことは、病気が分け与えるためにやって来た愛の教えをあなたが受け取るように、病気に対して心を閉ざすことから、開くことへのシフトです。

偽りの自己はその心を病気へと開くことに賛同しそうにありません。代わりに、通常は、病気を攻撃し、克服し、除去すべき敵として見ます。偽りの自己は、私たちが自分の現実を創り出すこと、あるいは、病気が私たちの思考と何らかのかかわりがあることを信じないので、病気に反映されている、心を閉ざす思考や行動を続ける一方で、病気を取り除こうとします。これは、画像を生じさせているフィルム (思考、信念、行動) を変えることなく、画面上の画像 (病気) を変えようとするようなものです。

病気が今世での、もしくは過去世からの、心を閉ざす思考や行動の反映であることは、病気を自分のせいにすべきだという意味ではありません。まったく反対です。病気は、私たちが極端に感謝することになるかもしれない愛の教えを差し出すために来たのです。加えて、私たちのだれも、それと知りながら病気を引き起こそうとするわけではないのですから、非難はただ、私たちが自己同一視をやめる必要のある、もう一つの心を閉ざす思考であるにすぎません。非難は偽りの自己への執着を反映していて、無執着の対極にあります。非難やその他すべての心を閉ざす思考への執着を解く練習をすることにより、愛へと心を開かせましょう。



病気が取る特定の形は偶然ではなく、あなたが心を閉ざしている状態の特性を反映していて、病気はそのことに気づくようにと、あなたに教えようとしているのです。たとえば、風邪の症状には、喉の腫れ、鼻詰まり、洞への圧迫などが含まれるかもしれません。こうした症状がどのようにあなたの鏡であるかを見てください。それは、あなたが何かに苛だっていたり、人生に行き詰まっていると感じたり、自分に圧力を掛けたりしていることかもしれません。風邪の症状が反映している自分の実態を認識したなら、あなたを苛だたせ、行き詰まらせ、圧力を感じさせている心を閉ざす思考への執着を解く練習をしてください。
いったんその原因を理解してしまえば、病気の症状は決まって意味をなし、自分が心を閉ざした実態を適切に反映していると思えるでしょう。しかし、同じ症状でも人によって異なる心の閉ざし具合を反映しているかもしれません。ですから、特定の症状や病気は、どれも同じ心を閉ざす思考を反映し、同じ愛の教えを差し出すと、決して決めつけてはなりません。

私の経験は、病気の教えを受け取る過程を物語っています。私の主治医は、どうやら私の血圧が高くなったことに気づきました。主治医は、食事療法と運動と投薬で治療したいと思いました。私は主治医の治療法を試してその効果を見るために、家で血圧の記録をとり始めました。主治医の処方は、ほとんど効果がないことがわかりました。私の血圧はいつも主治医の診察室での数値よりも低かったのですが、それでも時々高いことがありました。それで、私は対症療法をやめ、症状がどのように私の鏡なのかを見つけだすことによって、その原因を探ることにしました。やってみると、答えは明らかでした。私には、生産的であるように自分に強いて、すべてを迅速に、効率的に、上手くやろうとする性癖があったのです。主治医の診察室においてさえ、効率よくしようと自分に圧力をかけていました。私の精神が身体にストレスを与えていたのです。徐々に私は自分の強制的な思考から離れ、もっと思いやりと愛をもって自分に対処することを学びました。自分に強くプレッシャーをかけることをやめると、私の血圧もまた降下しました。



医学的治療は病気を攻撃して除去することに焦点を当てますが、一方、執着を解く練習は、病気に対して心を開くことを目指します。この違いは問題のように見えるかもしれませんが、そうではありません。まだ、身体に執着し、身体と自己同一視している私たちは、おそらく、まず病気や怪我の医学療法、もしくは、それに代わる治療法に着目するでしょう。執着を解く練習に移ることができるのは、恐れと懸念が十分に減衰してからです。最初にどのような医学療法もしくは代替の治療法を選んでも、私たちはいつでも、その後で執着を解く練習をするか、あるいは、両方を同時に併行することに移行できます。
唯一の問題は、教えを受け取ることができる前に、病気の症状が治療で取り除かれてしまったら、ということかもしれません。たとえその場合でも、症状やその影響を思い出しながら記憶で練習することによって、教えを受け取ることは可能かもしれません。



病気や怪我に頻繁に伴う症状は痛みです。私たちの本能的な反応は、通常、痛みを消そうとしますから、痛みの除去への執着を解くことは、非常に難しいプロセスであり得ます。けれども痛みを抑圧したり避けたりしても、その原因が癒されないだけでなく、痛みを長引かせたり、悪化させたりさえする傾向があるかもしれません。
一例として、医療の処置を必要としない普通の頭痛を感じているとしましょう。痛みを避けることをやめ、頭痛を感じていることを痛みそのものから解放し、まさしく経験している通りに完全に痛みと向き合うことによって、執着を解く練習をしてください。痛みに対して意識を開き、あるがままに痛みを迎え入れてください。頭痛の特徴や微妙な特徴を感じ取ることにより、完全にその痛みを知ってください。その痛みを愛の教えを差し出すために来たものとして見てください。
痛みと向き合うことができたなら、フラストレーション、プレッシャー、怒り、悲しみなど、痛みに関連した感じ方、もしくは、炎、爆発、無力さのようなイメージに気が付くかもしれません。このような感覚やイメージへの執着を解く練習をし、それらに反映されている思考を探してください。
頭痛を引き起こしている思考が明らかになったなら、すぐに思考レベルへと練習をシフトしてください。痛みが前面にある限り、練習を続けてください。ひとたび痛みを避けたり、否認したりすることをやめてしまえば、あなたは執着を減らし、そうすることによって痛みに対して心を開いたのですから、痛みについてのあなたの経験は変わるでしょう。痛みを和らげることへの執着を解けば、痛みは変容し、あなたはその痛みを違うふうに経験するか、あるいは、まったく経験しなくなるでしょう。痛みの変容が起きるまでは、これを信じることは困難です。ひとたびそれが起きれば、練習はより容易になります。

病気そのものへの執着を解く練習をすることにより、病気に映し出されている、心を閉ざす特定の思考や信念を見つけることができます。
一例をあげると、ある女性の歯茎が腫れて、痛みが生じました。歯科治療では痛みを軽減できなかったので、彼女は痛みを取り除くことに執着するよりも、むしろ避けたり減衰させたりせずに、痛みを迎え入れることへと開き始めました。
これをするうちに、押しつぶされて痛みに苦しんでいる歯のイメージが浮かびました。そこで、その歯がどのように自分の反映であり得るかを考えていると、彼女は圧倒的な悲しみを感じました。その悲しみを追いやることによって避けようとすると、悲しみは爆発的なエネルギーへと変容しました。彼女はその拡大したエネルギーへと開いて歓迎することを恐れました。なぜなら、彼女は遥かに自分を凌いで「あまりに大きく」なり、恥ずかしくなったからです。彼女は、父親が何度も、彼女はあまりに大きくて大声だと言ったこと、また、そのために彼女を拒絶したことを思い出しました。彼女はこの侮蔑的な、心を閉ざす信念を取り入れて、自分に重ね合わせていたことを実感しました。この信念が彼女の症状の原因でした。彼女は、自分があまりに大きくてパワフルすぎることを恐れていたために、自分がどのように自分のはつらつ感を押しつぶしているか、そして、歯に感じた「圧迫と締めつけ」がどのようにそれを反映しているのかを理解しました。彼女は自分の拡大した自己とこれが引き起こした悲しみのどちらも拒絶していました。この心を閉ざしたことが、歯茎の腫れに映し出されていたのです。
彼女は自分の悲しみへと開いて受け入れる練習をし、それによって悲しみを抑圧することへの執着を解き、続いて起きた、強められたはつらつ感を徐々に探りました。同時に思考レベルでも、心を閉ざし、自分を矮小化し、自信を揺らがせた侮蔑的な思考の流れとの自己同一視をやめる練習をしました。心が開くにつれて、歯茎の腫れの症状は収まり始めました。自分の存在を制限することへの執着を解放するように彼女を促す必要が、もはやなくなったからです。

動くことができないほどの痛みを背中の下部に感じていたある女性が、取り除こうとする代わりに、その痛みへと意識を開き始めました。すると、その痛みが、「痛いわ、注視と思いやりと愛が欲しいの。私に触れて、抱き締めて」と彼女に「話し」かけたのです。彼女は、自分の背中のイメージは、自分からの理解や憐れみや支持がないと感じている小さな子どものようだと思いました。その女性は背中の痛みを「嫌なもの」と見なし、それが他人から何かを求める必要を生じさせたなら、彼女はその痛みを「弱くて恥ずべきもの」と拒絶したので、この「子ども」は見捨てられたと感じ、痛みに泣いていました。
この子どもの自己がどのように自分の鏡なのかを見ようとしたとき、彼女は、自分がこの子どもの気持ちを共有していることを認識しました。彼女が何かを必要としたか、病気だったとき、母親はいつも愛情を示してくれなかったので、母親が自分に心を閉ざさないように、彼女はあらゆる病気や怪我や困窮を無視して否認することを学んだことを思い出しました。その後に痛みのある拒絶が続くことを恐れていたので、その拒絶を避けるために、彼女は決して二度とだれの荷物にもなるまいと決意したのでした。彼女は母親が愛情を示さないことへの感受性を鈍らせていたため、自分に同じことをしたとき、結果となるはずの痛みや悲しみを感じませんでした。彼女の子どもの自己は、痛みや要求を露呈すれば、彼女に裏切られて見放されることを恐れていたため、彼女を信頼していなかったのです。それは、母親が彼女にしたことの反映でした。
彼女は子どもの自己へと意識を開いて、その子が必要とすることに応える練習をし、それによって痛みと恐れからの逃避に対する執着を解放しました。彼女は、介護と注視を必要とすれば自分は愛されないだろうと考え、自分の必要に対して心を閉ざしていた実態を実感しました。この信念が彼女の苦しみの原因でした。けれども今、彼女は動くことができないので、他人に頼り、もっとも恐れていたことー他人の「荷物」ーになり、そのために、見捨てられて愛されないことを余儀なくされました。奇跡的に、人々は彼女を拒絶しませんでした。
だれかから何かを必要とするならば自分は愛されないだろうと信じ、その信念が引き起こした痛みと悲しみに心を閉ざしたことで、彼女は自分に対してどれほど残酷だったかがわかりました。彼女の心は、背中の痛みが映し出していた、自分の苦しんでいる自己に対して軟化し始めました。彼女は、自分の背中が教えている通りに、自分を労わろうと決意しました。
新しく見出した慈悲の心を維持できるように、彼女は痛みとして現れていた、中核の心を閉ざす思考ー「人々から何かを必要とすれば、その人たちは私を荷物だと思って拒絶するだろうから、決して何も頼まない」ーとの自己同一視をやめる練習をしました。この信念は深く刻みこまれていたので、解放するのは困難でした。練習を続けるうちに、歩くことさえままならなくさせていた背中の症状は、徐々に消えて行きました。彼女は仕事に復帰し、より信頼と愛情のある姿勢で人生を送ることができるようになりました。今は、彼女が自分に心を閉ざし始めると、愛の練習をするよう警告するために、彼女の症状は再発し始めます。



病気を恐れているときには、病気を攻撃して除去することへの執着を解くのは、不可能でなければ困難かもしれません。けれども、執着を解く練習は、つねに今あるものを対象としますから、それは問題ではありません。したがって、恐れが意識を満たしているときには、そこが焦点を当てる対象です。
恐れに対して練習を始めるには、恐れの経験へと意識を開いてください。恐れている自己を敬い、その恐れと完全に向き合ってください。恐れへと開いて、恐れを軽減することに執着せずにいてください。身体障害や死など、今、あなたが自分を怯えさせている将来についての思考となる、恐れの根源を見つけだしてください。
たとえば、あなたは脚を負傷していて、二度と歩くことができないことと、それに伴う損失を恐れているとしましょう。恐ろしい思考には、他人への依存、仕事の喪失、ダンスやスポーツといった大切にしている活動をすることができないこと、あるいは、自分を「不具合」だと思うことに対する嫌悪感などが含まれるかもしれません。執着を解く練習をして、こうした恐ろしい思考と、その思考に対する怯えた反応との自己同一視を解放してください。それから、その怪我があなたの側面を反映している実態を見つけだすことにより、怪我の教えを受け取ることへと焦点を移してください。それは、あなたが、自分は世の中に歩み出ることができないと考えていることかもしれません。あるいは、多分あなたは、自分のためになる行動を取ることを妨げたげんなりする思考で、自分を不具にしてしまったのかもしれません。
脚の負傷が反映している思考を見つけたなら、その思考に対して執着を解く練習をしてください。恐ろしい思考は心を閉ざしますが、恐れの減少はつねに愛する能力の拡大を意味します。したがって、癒しがあるのです。



偽りの自己は死すべき身体と自己同一視しているため、存在しないことの恐れは偽りの自己に固有のものです。ですから、命を脅かす病気は、必然的にこの恐れを呼び起こします。身体との自己同一視のゆえに、命にかかわる病気を攻撃することへの執着を解くのは、極端に難しいかもしれません。この点については、命にかかわる病気は、今世もしくは過去世での自分の心を閉ざす思考や行動の反映であり、心を開く術についての教えを差し出すためにやって来たという認識が、おおいに役に立ちます。
決定的なシフトは、命にかかわる病気を敵と見なすことから、愛の教師として受け入れることです。これは、イエスが「汝の敵を愛せ」という言葉で私たちに求めることと、同じシフトです。

恐れに圧倒されているときにこのシフトを起こすのは、最初は困難か不可能でしょう。癌はほとんどの人々に周知の、命にかかわる病気ですから、このシフトを起こす過程を説明するために、癌を考えましょう。
大方の人々は恐れをもって癌に反応します。そのような恐れに直面すると、偽りの自己は死の脅威ー癌ーを除去したがります。命にかかわる病気を攻撃することに執着している限り、その教えを受け取るために必要なシフトを起こすことはできないでしょう。
したがって、まず、執着を解く練習を始めることができるまで、何であれ恐れや懸念を十分に減じる治療法を用いることに焦点を当てます。癌の治療は通常時間がかかりますから、癌は愛の教師になり得るという視点への抵抗をなくすことに、その時間を充てることができます。

この視点へとシフトするためには、癌を攻撃することへの執着を解かなければなりません。これには偽りの自己の中核への執着ー身体との自己同一視ーを緩める必要があります。身体への執着を解くやり方は、身体の死を考えるときに起こる思考を避けることへの執着を解放することです。思考と、思考が呼び起こす反応から逃げる代わりに、本当に歓迎して無条件に向き合うことができるようになるまで、思考およびその反応へと意識を開いて、全面的に向き合う練習をしてください。そのような思考には、家族や友人との大切な関係を失う悲しみや、自分が執着している人生の他の要因からの惜別の悲しみなどが含まれるかもしれません。
何であれ死に関して起きてくる思考や感情へと開いて、それらを心の中で受け容れたなら、これは通常身体への執着を十分に減少させますから、癌の愛情ある教えを受け取ることに焦点を当て始められるでしょう。癌を教師として見なすことへのシフトができないようであれば、見つけだして解放すべき他の執着があります。いったん、病気は霊性の道で自分の役に立つためにここにある、という可能性へと意識を開くことができれば、病気を破滅としてではなく、むしろもっと無条件に心を開く方法を教える教師として見るかもしれません。

癌は愛のメッセージを差し出すためにやってきた、という視点へとシフトすることができたとき、そのメッセージを受け取ることができるでしょう。癌が映し出している自分の側面を見つけだすことへと開くことができたとき、教えは現れるでしょう。
教えを受け取るためには、病気の致命的で破壊的なエネルギーへと意識を開いて、そのエネルギーをどのように感じたり、経験したり、思い描いたりするかをすべて書き出してください。それから、自分がどのようにその書き出した各項目に当てはまるかを見つけてください。
たとえば、あなたは癌を、陰険に自分を食い尽くし、自分の身体を破壊することに熱中している悪党細胞どもの卑劣なマインドの軍団として思い描いているとしましょう。癌についてのあなたの経験は、どのようにあなたが自分を攻撃している状況の鏡であるのかを見つけだしてください。自分を攻撃している状況を特定するには、自己非難、自己嫌悪、怒りを疼かせること、許さないこと、解消されない悲嘆、もしくは、厳しい罪悪感や憤慨を反映する思考など、破壊的に自分を食い尽くしている心を閉ざす思考や信念の習慣的なパターンを探してください。こうした心を閉ざす思考は、往々にしてあまりに日常的であるために、あなたはその存在や破壊性を感じなくなっているか、あるいは、その致命的な影響を見くびっているかもしれません。ですから、その思考はすぐには明らかにはならないかもしれません。したがって、こうした「マインドの害毒」を探知して認識すること、および、自分をそれと同一視し、それを信じ、それを行動に移すことによって、どのように自分がその害毒を歓迎していたのかを理解することは重要です。

心が開くためには、このような思考や、その思考が引き起こした行動との自己同一視をやめて、その思考を手放さなければなりません。癌がこうした思考を反映していると想定することによって、その思考を見つけだし、反映されている状況を特定してください。たとえ心を閉ざす思考や行動が過去世で起きたことであっても、今世で何らかの名残があるでしょう。
心を閉ざす思考を見つけたら、その思考へと意識を開いて無条件に迎え入れることにより、その思考を放棄することへの執着を解放してください。判断したり逃げたりすることなく、思考や心を閉ざすインパクトと完全に向き合ってください。心から受け入れることができるまで、本当にそれらから離れずにいてください。
それができたとき、あなたの慈悲の心は、その痛みのあるインパクトを苦しんだ「あなた」と同じく、心を閉ざす破壊的な思考にふけったあなたの一部をも受け容れるでしょう。この愛へのシフトは間違えようがありません。あなたは教えを受け取ったのです。愛の教えは、自分自身だけでなく、他人に対してもあなたの心を開かせているでしょう。ですから、たとえば、許しなど、あなたの心が何か他人に表明すべきものがあるかどうかを見てください。
癌や他の病気が位置する特定の部位もまた、心を閉ざした思考や行動を適切に反映しています。病気の教えを理解したときに、その妥当性が明らかになるでしょう。覚えておいてください。どのような特定の病気の教えもつねに個人的なものであり、決して一般化すべきではないことを。したがって、教えは自分で見つけだし、その解釈を他のだれにも頼らないことが肝心です。
病気の教えを受け取って、病気に反映されていた思考や信念や行動への執着を解放したならば、心はさらに無条件に開いて、真我との一体性を深めるでしょう。執着を解く練習をするのは、愛へのこのシフトを容易にするためです。
命にかかわる病気への執着を解く練習法に関するこれまでの簡便な解説は、それが容易であることを意味するのではないことを肝に銘じてください。その執着を解くのは、身体への執着が強ければ強いほど困難でしょう。

命にかかわる病気の教えは、通常、偽りの自己に対する非常に強い執着の解放と、慈悲と愛を最優先にする、人生の包括的な方針変更の受容を要求します。往々にして私たちは、古い生き方を手放して、愛への癒しのシフトをすることにかなりの抵抗があるものです。ですから、私たちの注意を引いて、心を開くように促すために、時々命を脅かす病気が必要となるのです。心を開くことが簡単ならば、私たちはすでにそれをしているでしょう。



【病気への執着を解く練習のエクササイズ】
①あなたが患っている何らかの身体的な問題、病気、もしくは、障害のことを考えてください。その疾患には、どのようにしたらもっと完全に心が開くのかについて、あなたへの愛の教訓があるものと想定してください。その愛の教訓を受け取るには、自分と疾患との関係を攻撃することから受け入れることへ、また、疾患に対して心を閉ざすことから開くことへとシフトさせなければなりません。これなしには教訓を受け取ることができませんから、このシフトは決定的です。
病気との関係においてこのシフトを起こすためには、病気を除去しようとすることをやめて、病気へと意識を開くことを学び、あなたに大切な贈り物を運んで来ただれかを受け入れるように、病気の存在を受け入れる必要があります。これには、現状とは違う何かを手に入れることへの執着を手放す必要があり、この場合は疾患が消えることです。
病気はあなたのためであり、あなたに反してあるのではないと想定することから始めてください。病気は理由があってここにあるのであり、理由の発見がその愛の教えをあなたに明かすでしょう。教えを受け取ろうとするのであれば、病気に対して心を閉ざすことから病気へと心を開くこのシフトは不可欠です。
あなたがこのシフトが可能なことを疑っているのなら、それは構いません。結果がわからない実験をしていて、何が起きるかを見ることにオープンでいるときと同じ姿勢で、ただ病気を除去することに対して執着を解く練習をしてください。
病気や疾患を除去することへの執着を解き放つことが難しければ、その執着を手放すことに対して自分にどのような異議があるのかを見つけてください。それから、その異議を手放すことができるように、その異議に対して執着を解く練習をしてください。たとえばあなたは、病気は攻撃されなければならないとか、病気は決して治らないという信念に執着しているのかもしれません。あるいは、自分を苦しめている何かを受け入れることに抵抗があり、愛することなど論外なのかもしれません。

二元的な理性は、あなたを苦しめているものに対して心を開くことがよい考えだとは決して信じようとせず、それゆえ、つねに反対するでしょう。ですから、「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ」(ルカ六章二十七節〜二十九節)〔日本聖書協会、一九五五年訳版より〕と言うイエスの言葉に、人々はあれほどの困難を覚えるのです。愛情のない思考が引き起こした見かけの現実に心を開くことが、その「現実」が変わり、愛である唯一者からの分離という幻想を溶解させることのできる唯一の手段であることを、イエスは知っていたのです。
私たちが敵と見なす病気についても同じです。いったん病気に心を閉ざすことへの執着を解けば、もはや病気を排除すべき敵と見ることはなく、むしろ愛という贈り物を与えるためにやって来た友人として見るようになるでしょう。

②病気を拒絶することから、その存在を受け入れることへとシフトしたなら、その身体的問題や病気の特徴を列挙してください。つまり、あなたがその病気を感じたり、感知したり、経験したり、感じたり、思い描いたり、表現したりすることのすべてを挙げてください。

③次に、あなたが自分に心を閉ざしている状態を、その列挙した特徴がどのように反映しているのかを見出してください。それは、あなたが列挙した病気か身体的問題の表現の中に、映し出されているか象徴されている考え方、行動、態度の愛情のないパターンなどから見つけます。
たとえば、もしウィルスがこっそりとあなたを攻撃しているところを思い描いたのであれば、自分のためと自分を欺いている侮蔑的な批判によってなど、あなたがどのように似たような手段で自分を攻撃しているかを発見してください。
その愛情のないパターンは、あなたにそれを探させるために病気を必要としたのですから、見つけだすのは難しいかもしれません。困難であれば、その病気または身体的問題の中へと感じ入り、それが自分と話すことができると想像してください。マインドを静め、病気や疾患が何を言わんとしているのかを見てください。それでもまだ、病気がその反映である愛情のなさを見つけだすことができなければ、この章を再読してください。

④その愛情のなさのパターンを見つけだしたなら、あなたはその形態で自分に心を閉ざしていたことを深く認めてください。それを否認したり、避けたり、合理化したり、言いわけしたり、最小化したりしないでください。その愛情のなさに対して意識を開き、無条件にそれを受け入れることができるまで、完全に向き合っていてください。これは、その愛情のなさを容赦することを意味するのではなく、それを完全に認めることを意味します。
本当にこれができたときには、あなたの慈悲と理解の心は、病気に反映されていた自分の愛情のない側面へと自然に開くでしょう。あなたは自分がしていたことやそれがもたらすインパクトに気づいていなかったのですから、心を閉ざしていた理由を理解して、自分を許すことができるでしょう。ひとたび理解と許しの中で慈悲の心が開いたなら、より深く愛へと意識がシフトしたことを反映して、病気の経験は変容するでしょう。あなたは愛の教えを受け取ったのです。


【病気に対して心を開いた結果】
病気が教えている通りに心を浄化したなら、その症状はもう必要がないので消えるかもしれません。病気へと私たちの心が開いても、病気が存続し得る一つの理由は、ちょうど病気が発症するまでに時間がかかったかもしれないように、教えを受け取ってから症状が消えるまでにいくらかの時間がかかり得ることです。また、実現した心を開くシフトが症状なしでも維持され得るまでは、病気が続く必要があるのかもしれません。
症状があまりに早く消えてしまうと、病気という動機付けなしには、病気が反映していた以前の考え方や行動パターンに逆戻りする傾向はあり得ます。これが起きるリスクがあるときには、私たちを愛の道に留めておく上で、何らかの症状の持続が役に立つこともあるでしょう。病気はまた、私たちの心がまだ純粋になっていないために続いているのかもしれません。
加えて、一部の身体的症状はカルマに根源があり、過去世での心を閉ざす思考や行動を反映しているのかもしれません。たとえば、手のない身体で生まれるときは、今世ではなく、過去世での思考や行動の反映です。このような生まれながらの欠陥は、今世において過去を癒す機会を差し出しているのです。けれども、カルマによる原因が解消されるまでには、長期、もしくは一生涯にわたって、その症状に執着せずにいることが求められているのかもしれません。繰り返しますが、病気に対して心を開いても、必ずしも病気が消えるとは限りません。

症状はまた、死期が近づいている場合は、執着を解いた後も続くかもしれません。けれども、病気の症状にはまったく変化がなくても、病気とのかかわり方は全面的に異なり、もはや恐怖をもって、あるいは苦しみとして、病気を経験しなくなるでしょう。
意識がシフトすれば、意識が創り出す現実もまた変わりますから、病気の知覚は、他のあらゆる物事のように、病気に対して私たちの心が開いたときに変容します。事実、自分の人生を見直して、病気に反映されるに至った、心を閉ざす思考や信念や行動パターンへの執着を手放すようにと私たちを誘発し得たのは、唯一病気だけでした。ですから、私たちは病気を友人として見てもいいのです。

加えて、病気の症状はまた、どのように身体への執着を手放して心を開くのかを、他人に教えるために残ることがあるかもしれません。この範例としては、二人の高名なインドの霊性の導師、ラーマクリシュナとラマナ・マハルシが癌を患ったことがあげられます。
ラーマクリシュナは咽頭癌になり、食べ物を摂ることができなくなりました。弟子たちは救いを求めて祈るように、ラーマクリシュナに進言しました。ラーマクリシュナは、自分は何十億もの喉を通して食べているのだから、この一つの喉が食べ物を飲み込むことができないことをなぜ嘆くのかと応じたのです。
ラマナ・マハルシは、自分の健康を大変心配していた帰依者たちへの、「ああ、あなた方は、スワミ 〔霊的指導者〕 がどこかに行こうとしているかのように悲しんでいる。どこに行くのだね?どうやって?去来は身体には可能だが、どうして私たちにそれができるだろう?」という発言で、一体性の模範を示しました。この二人の導師は、身体への無執着と唯一者との調和の生ける模範です。
より一般的な範例は、命にかかわる病気に直面して、人々が身体との自己同一視を手放し、愛へと開くことを学ぶところです。そのような人々は、私たち皆にとって教師の役割を果たしています。


Purifying the Heart
心を浄化する方法
(サティヤ・サイ出版協会)