悲しみの基本的原因は、愛である自分の本性との接触を失ってしまったことです。そうなると私たちは、自分が他人や自然や物質に満ちた世の中にいる個別の自己であると信じて、この幻想の何らかの要素に執着するようになり、それを手に入れることができないか、それを失ったときに、悲しみをもって反応します。悲しみというこの基本的原因の症状は、もちろん、些細な失望から、愛する者を失った深い悲嘆までの全範囲にわたって無数にあります。
悲しみは不快な感情なので、自分が悲しいことを認めることさえしたくないかもしれません。私たちは、思考の防御手段を使って悲しみへの気づきを避けることができます。たとえば、否認(「私は悲しくない」)、合理化(「私には何も悲しむべきことはない」)、自己拒絶(「悲しみは弱いし恥ずかしい」)、自己操縦(「私は強くて、へこたれないはずだ」)、あるいは、「他人はどう思うだろう?」)、恐れ(「私は圧倒されてしまうだろう」)、あるいは、「私はとても傷つくだろう」)などです。こうした手段で悲しみをあまり深く感じないことにより、また/あるいは、それを他人に見せないことにより、私たちは自分を守ろうとします。このような悲しみを避ける思考を認識して執着を解くことは重要です。なぜなら、執着を解くことは悲しみそのものに対して心が開くことを可能にし、心が開くことが悲しみを癒し、変容させるからです。
いつものように、できるなら思考レベルから、自分の悲しみの原因である思考を見つける練習を始めてください。通常その思考は、考えると悲しくなりますから、明らかです。失ったものか手に入れることができないもの、また、それがないことによって想定される影響についての悲しみを誘発する思考から離れて、その思考を観察する練習をしてください。
その思考を手放すことができなければ、二番目のレベルーその思考が生み出した悲しみの感情ーに移ってください。時に、人は悲しみを固持することに執着していることがあります。なぜなら、これには、たとえば注目されることのような、何らかの利点があるからです。けれども、より一般的には、プロザック〔薬品名〕やその他の向精神薬の飛躍的な売り上げが証明している通り、執着は悲しみを避けるか排除することに対するものです。押し退けたり、否認したり、薬で意識を鈍らせたりすることによって悲しみから逃れようとするよりも、むしろあらゆる忌避の手段をやめ、完全に踏み止まって、あるがままの自分の悲しみに気づくことにより、執着を解く練習をしてください。心痛、喪失感、空虚感、痛み、悲嘆へと向いて、心の底からそれらを受け入れてください。拒絶するよりは、むしろ迎え入れてください。苦しみや涙、孤独や痛みを深く知ってください。
覚えておいてください。何かに執着しなくなれば、私たちの心はその対象に対して開き、変容をもたらすのです。悲しみも例外ではありません。
避けようとすれば、悲嘆は尽きることがなさそうに思えるかもしれませんが、避けることをやめるなら、悲嘆は断続的に変化します。
悲嘆を避けることへの執着を解く練習は、自分に対してなし得るもっとも優しい行為です。それはあるがままの自分に対して心を開くことであり、その愛を通して心は癒されるでしょう。今自分に悲しみがあるかどうかを見て、もしあるならば、その悲しみへの執着を解く練習をしてください。
私が執着を解く練習を教えていたある男性は、自分の妻に怒っていました。彼は妻を非常に批判的で思いやりがなく、自分を冷たく馬鹿にすると思っていました。彼は怒りを爆発させては、自らを拒絶し、罪悪感を持ち、妻がしたように、夫婦間の摩擦を自分のせいにしていたものです。彼は、妻が自分を苦しめていると知覚したように、罪悪感に苛まれては、非常に悲しくなるのが常でした。
自分の感じ方に対する執着を解く練習をすると、彼の悲しみは、愛されずに孤独で悲しいと感じている内なる子どもような自己イメージの形を取りました。初めて彼は慈悲と理解をもって自分を見たのです。彼の心は軟化し始めました。彼は自分の悲しみへと意識を開いて、あらゆる判断や忌避を手放し、ただ喜んでその悲しみと向き合っているところを思い描きました。これをするうちに、彼の心は自分に対して心を閉ざすことの悲しみと、それが引き起こした苦しみへと開きました。すると、彼の怒りと悲しみは衰退し始めました。彼がどのように自分を蔑んでいるかの鏡だった妻は、以前ほど批判的には見えなくなり始めました。彼がもう自分の悲しみから距離を置く必要がなくなると、彼の心は妻の悲しみに対しても開きました。悲しみを避けることへの執着を解けば、それは頻繁に憐れみへと変容します。
いずれかの時点で、私たちは悲しみの本当の根源ー真の自己から分かれている感覚ーに気づくようになるかもしれません。これは認識され、受け容れられる必要があります。この悲しみは、何かが欠けているという感覚、だれかを亡くしたような気持ち、あるいは、全体性と平和と愛への深い切望として現れるかもしれません。その悲しみが真我との合一への熱望を反映していることを認識するまでは、このような感じ方は根拠がないか、不相応に思えるかもしれません。この基本的な悲しみを避けることへの執着を解く練習をすることは不可欠です。
Purifying the Heart
心を浄化する方法
(サティヤ・サイ出版協会)