だいすきリリーちゃん(愛犬)








人生の中でとことんがっかりした経験。
皆さんはありますか?







わたしの中にいくつかある
がっかりというかショックだった事件は



5歳くらいの頃
家の中で母親を探してみつけた母親が


ひとり部屋で泣いていた



というのはショックでした




記憶はうる覚えで
全然定かではないんだけど




衝動的に罪悪感にかられ



恐る恐る近づき



大丈夫?と下から覗き込んだ



そんな記憶。。。


美化されてるかもしれない。。。
けど、そんな感じでした。



そして自然と母親の頭をよしよしって
していたような。。




静かに泣いていたのが母親だったからか
わたしがピュアで幼かったからか




それはものすごく罪悪感という
得体の知れない恐怖を感じる経験だったように思う




それはわたしが初めて感じた
衝撃だった




でもここまで書いて思うことは

それは衝撃だったけど
がっかりという感覚とはちょっと違うな



がっかりという感覚は
自分が感じたこともあるし
自分の行動から他者が感じたものを
自分が感じ取ったものもある




例えばわたしが
大学受験に落ちたとき




わたしは能天気に
浪人しよう!
ってな感じで
むしろ楽しみ〜
な感じでもあった




でもそれこそ衝撃だったのが
合格者発表の
パソコンの前でボーッと放心する
母親の落ち込みよう




わたしは自分の結果よりも
そっちの方が衝撃でした




がっかりという気持ちは
もちろんわたしにもあったかと思うけど





大学に行った経験者の母親の方が
大学試験に落ちたという
これからの意味の絶望の方が深かったのかも知れない





わたしは大学に行ったことがないから
そこでどんな楽しいことがあるのか知らないし
どんな経験をするのか知らない





だから能天気でいられた




ただそこにはひとつ問題があったの
今は解決したけど。




それは母親の絶望、がっかり感が
わたしに憑依したこと。




わたしが憑依を許してしまったこと。





どんな憑依かというと
受験に落ちてごめんなさい
という母親への罪悪感です




罪悪感って
ちょっとおじゃま虫ですよね




というのも
自分の未来を曇らせる





わたしが大学受験に落ちても
なんとも思ってないのなら
それでいい




誰にも謝る必要はない




もしわたしが本当に大学へ行きたかったのなら
自分に謝る必要があるけど




わたしはそうじゃなかったから
それでいいの





そんな体験から



がっかりという気持ちは人に憑依するし
あるときは無価値感を感じさせてしまうこともある
恐ろしいもの




だとわたしは思っています




本当にその人のことを信じて応援していたから
という理由でがっかりするかも知れない




でもわたしはそれは違うなぁと思う




今話しているがっかりは
気軽ながっかりの話じゃなくて
本気のがっかりの話です





人から本気でがっかりされたら
悲しい気持ちになる





がっかりさせようと思って
今の自分を生きているわけではないし
今ベストだと思う選択を自分で選んで行動しているわけだから




がっかりされると
わたしのことを都合のいい存在として扱われている
そんな気持ちになって
悲しくなります





誰にだって
そうした意思があるし
なぜそうしたのか
なぜそれを選ぶのか
自分と対話をしながら
決めているわけで





かってに理想を押し付けて
そうならなかったら がっかりだよって
なんてかってなんだろうと思う





人のあり方について思うことは





誰もが自分のすることに
しっかりと夢中に生きていたら




他人に多大な期待をして
期待通りの結果が出なかったとき
本気でその結果を責めることにはならないと思う





なんで期待通り動かなかったんだなんて言葉は
自分の時間を大切に
自分の素直な気持ちを毎日大切に育んでいる人からは
出てこないものだと
わたしは思います




ある意味
他者は他者として
自分は自分として
爽やかなドライ感もあり





そこでかけられる言葉は
さらりと爽やかで
また前へ進もうと
かけられた側も思うことができる
そんな気持ち良さがあるんじゃないかと思います




人生にははっきり言って
間違えて死ぬような体験なんて
わたしの時間の中にはなかった




大学に行かなくても

希望していた就職先とそりが合わなくなって
話がなくなっても



やっぱりそれはわたし自身が残念だなって
念を残してしまったのも
ひとつのきっかけではあると思うけど




特に母親から
あのときは本気で寝込むかと思った
なんて言われたら




ギョッとしました(笑)




爽やかに前へ進ませてくれ
娘としてそう心から言いたい(笑)





それと今回ニュースであった
お父さんが女の子を虐待して
女の子が死んでしまった事件





これは本気で色々おかしいと思う
女の子を守る方法は必ずあったと思う



守れなかった経緯として
当時実際にそこに関わっていた人に対しての
疑問や不信感、残念だと思う気持ち




がっかりという気持ちは
わたしが母親から受けてきた
圧力のひとつでもあるように




わたしも今
社会に対して感じているものだと気付きました





そのどうして?という
自分自身への問いかけは
わたしのこれからの力に変える





つまり自分の中に
自分をがっかりさせている
それが毎日微量でも
無理をして我慢をして
積もっている




本当のことを言いたいのに
我慢をする





断りたいのに
笑顔で受け入れようとする





嫌だと言いたいのに
自分の中ではすでに大きな声で嫌だと言っているのに


いや、まだもう少し頑張れるだろう?
いやまだ、大丈夫。
あと少し。
あと少し。




そうやって優しい声で騙し騙し
結局いつまでも
素直な声は無視をする




そんなことをやっているから
女の子の命ひとつが
代償のように
わたしに事実を突きつける





嘘をついてはダメだ



素直な気持ちを伝えるんだ



自分であろう



それができる時代だから



ヒスったとしても
いいじゃない




それだって
そうなるくらい我慢しちゃったんだもん




爆発させればいいんだよ





そうなるときはしょうがないさ





大丈夫
私たちは強い





本当は爆発したくらいで
ヒステリーを起こしたくらいで
死なないよ





自分を発表していくとき





残酷な方法よりも
わたしは創造的なカラッと明るい南の島のような陽気な自分を表現する





世界ではこれからもたくさんの
ありえないと思われる
びっくりするような
ある意味人間的ではない
事件やニュースも起こるのかもしれない





でも大丈夫




自分という存在はものすごいパワーを持っていて
ひとりで100人ファンにできちゃうくらいの
吸引力だってもってるから





それはいつも最愛の自分という存在を
いつくしみ 育んでいく
毎日の自分のコツコツとした
なんでもない日常の中に
そのパワーはたまっていって




ちゃんと必要な時に
弾ける




言葉は魔法だというのは
本当にその通りで



自分をいじめることも
愛することもできる




過去に起こした自分への
とんでもない仕打ちがあったとしても

自分を
悲しませたとしても
無力だとしたとしても
責めたとしても
脅したとしても
騙したとしても
嘘をついたとしても
無視をしたとしても
殺すように生きたとしても




今ここから
前へ爽やかに
一緒に進もう





ごめんねといおう
ありがとうといおう
よろしくねといおう





自分と手をとって
歩き始める今





素直な自分が発する言葉を
今の自分が聞き
しっかり発信する


そうすることで
わたしの言葉は魔法になる



それは
目の前にないと思った
かぼちゃの馬車を
目の前に現す魔法



最愛の自分が現れる魔法




自分を愛そう






















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