今日、結婚と子供が生まれた事を知った友達から連絡があった。


おめでとうという言葉ともっと早く教えろ!という俺の水臭さを笑うものだった。


イヤ、正確には昨晩の夜連絡をもらっていた。


結婚の事を知った友達で集まっていたので祝杯をあげようとしてくれていたみたいだった。


妻の実家で飲んでいて、電話に出られかったと詫びたが嘘だ。


昨晩は家でDVDをみていた。


飲みの誘いである事は予見できた。

あえて出なかった。


嫌だった。


顔を合わせたくなかった。


昨日から今日の午前中ずっとその事を思い煩っていた。


なぜ嫌だったのか?

瞑想したり深呼吸したり、htlの録音聞いたりしたがモヤモヤと罪悪感が募るばかりだった


醜く太ってしまった事を知られたくなかった?

しばらく顔を合わせないうちに10キロ以上太ってしまった

それもあるが何か違う気がする


水臭さを怒られるのが嫌だった?

多分これもあるが、理由の本体ではない気がする


なぜ早く言わなかったのか?


そう!その疑問に対する明確な答えが自分でもわからなかった。


電話を切ってから少しホッとした状態で思いを巡らしてみた結果だが、


正確には明確な答えに辿りつかないようにしていた。


明確な答えは二つ


祝福されなかったらどうしよう?


そして何よりそうゆう疑念を持っている矮小な自分を知られたくなかった。


友達だと思って打ち明けたけど


で、何?

何で俺に言うわけ?


そんなリアクション返されたて傷つきたくない

(今、冷静に考えればそんなリアクションとるはずないのは理解できる)


もう一つ


逆に祝福されたらどうしよう?

という謎の恐怖


いや謎なフリはやめよう


祝福しようと気を使って飲み会とか開かれたら?

そこにあまり人が来なかったら?


結局祝福されなかったらどうしよう?か(^^)



仮に祝福されなかったらどうなるのか?


確かにがっかりはしてしまうだろう。


だけど、現実には何が起こるというのか?


実際に俺は結婚も子供の誕生も身内以外には告げず、誰からの祝福も受けていない。


つまり現実には、祝福されていない現実は今すでに目の前に展開している


では何を恐れていたのか?


そこにある違いは

知ってるけど何もされなかった

知らなかったから何もされなかった


そう、祝福されない事に理由ができる


これで俺は自分を守れる


だって祝福されない事に知らなかったからという理由ができる

つまり、友達は俺の期待も裏切らず、俺もその事に傷つく事もない


ここまでわかったが罪悪感はさらに募る


祝ってくれようとした友達を自己中な葛藤で無視した事

そんな自分を呪う声

だからお前はダメなんだ

だからお前は孤独なんだ

だからお前には友達ができないんだ

他人を冷たいものだと見切ってしまう自分

そして結果的に他人に対してもっとも冷たい水臭い対応をしてしまう自分

他人をそんな風に思う自分が恥ずかしい

みっともない


そんな声が頭の中でこだまする。


そう、エゴキンマンの罪悪感ロックである



いや、その前段階にもう一つ


思い込みというエゴキンマンがいた


その思い込みとは

自分はいつも裏切られる

自分には友達はできない

というもの



俺には自分でもどうしようも無いと思っている習性がある


それは

一定以上仲良くなると自分からその縁を遠ざけようとする

というもの


遠ざけるというか完全に断絶してしまうのだ


だから子供の頃から続いているような仲の友達はいない。

周期的には5〜10年くらいで周りの人間の顔ぶれは総入れ替え状態になる



それは思い込みの証拠集めをしてきた自分に展開した人生だ



小学二年生の夏

一つの出来事があった



夏休み、親戚の家で二週間程過ごすことがあった。


そこで近所の子と仲良くなった。


その子とは毎日遊んだ。

何の気兼ねもなく毎日

当時そこまで仲の良い子は学校にもいなかった


ある日、その子とその友達とでプールに行った。

とても楽しみにしていたし、はしゃいでいた。


そこで詳しい状況は忘れてしまったが、仲間はずれにされてしまったのである。


小学二年生の話だし、もしかしたらその子達にそんなつもりもなかったのかもしれない。

ただ戯れていただけかも知れない。


ただ猛烈に悲しかったのは覚えている。


泣きながら一人でプールから歩いて帰った。


今にして思えば子供のどこにでもある他愛のない話かも知れない。


ただその時から胸に芽生えた小さな疑惑



仲良くなった人は裏切るものかも知れない


その時胸に刻まれた小さな疑惑はあらゆる所でその証拠を見せ始める



同じように急に仲間はずれにされたり

仲良くなった子に限って転校してしまったり



そう、今ならわかる


フォーカスした事により、その現実を自分で創造し始めたのだ



その証拠(その様にみえる現実)は着々と集まり思い込みをより強化していく



そして、小さな疑惑に過ぎなかったそれは人生そのものとなって目の前に展開し始めた。



大きな出来事としては


離婚

離職

親との不仲など



今回の事もその一つだろう


友達との別れ


その現実として目の前に展開し始めた。



ここで今までと違う所が一つある

これはhtlの成果だろう



これまで自動的に展開していた現実


これを

選び直す選択者としての視点だ


これまで通りの関係の断絶を望むのか?


それとも違う展開を望むのか?



もし何の制限もないとしたら何を望む?



この問いに対する答えは



もう、他人の好意や祝福を疑う存在ではいたくない



いやもう少し先がある



それは



自分自身を祝福する存在でありたい



目の前に展開するのが、自分自身の内側だとするのなら、誰より自分で自分を祝福する存在でありたい。



そしてこの無条件に祝福する存在が自分の内側にあると教えてくれた存在が過去からいたし、また最近現れてくれた。



それは、9年前に誕生してくれた我が子とつい最近誕生してくれた我が子だ。



この子達が如何なる存在であろうと全て肯定できる



これはsourceの視点そのものだろう



そしてこの視点で自分自身の事もみたい



それが望みだ。



そして小学二年生の時に胸に刻んだ疑惑にかわり



40年経った今、違う種を撒こう



自分は祝福される存在なのかも知れない



幸い目の前には

無条件に祝福できる事を絶えず思い出させてくれる我が子と受け取り上手な妻がいる



ちなみに妻は結婚と出産を友達、職場の人間、職場に通うお客さんからも山ほど祝福され、退職直前の1ケ月は毎日の様にお祝いのプレゼントや花束をもらってきていた。

その時にはなんて愛されているんだろうとただ感嘆していたが、妻はそれをニコニコと素直に受け取っていた。



そして、そんな存在になるには、タイトルにも書いた醜くて矮小な自分を受入れる事から始まるのだろう。



ずっとみたくなかったいじけた自分

傷つきたくなくて人を遠ざけようとする自分

自分をダメな事にして前を向かせない様にする自分

友達の嫌な部分を増幅させてみせる自分

裏切られる前に裏切って関係を終わらせる自分

そして

あの夏泣きながらプールから帰ってきた小学二年生の自分


それら全てが今の俺を構築している


決して切り離せない自分



それを受入れて生きていく自分になる



そう宣言した時



今日の午前中までモヤモヤが嘘の様に軽い



今日の午前中より心がホッとしている



【貴方の心が軽くなる】これ以上に大切な事は何もない

エイブラハムの言葉




これらに気づかせてくれた


友達

息子たち

今回の一連の葛藤


何より

いじけた自分

自分を守ろうとしたエゴキンマンに


感謝を