あ~蒼が明朝 38.8の発熱
そのわりに 意外と元気なんで少し安心
様子をみて 病院に連絡するかどうか考えます
でも 明日は祝日
そうなると 時間外で診てもらうことになるのかな?
下がってほしいもんです
今日で 福岡西方沖地震から丸2年がたちました。
この日は 蒼が退院して1ヶ月後の出来事であり
この地震の後に 旦那が脳内出で倒れました
そういう意味では 嬉しい事・心配事の耐えない年でした
今朝 テレビでこの特集を見ている時に 一帆が言いました
「オレ 今でもあの時のこと覚えてるよ 時間までしっかり・・・
それだけ怖かったってことだよね・・・」と
忘れたくても 忘れられない経験だと一帆は言いました
私もはっきりと覚えています
ほんと 怖かったです
あの時私はちょうど台所で洗い物をしていて
お湯を沸かしていました
いきなりゆれ始め 慌てて火を止め ガスレンジの元栓を締め
子供達の元に行きました
行くと風と蒼が私にしがみついてきて
一帆は机の前で イスに座ったまま
ほんの数秒・数分の揺れが 何十分にも感じられた長い時間でした
揺れが止まった瞬間 「こわかったぁ~」と火がついたように大泣きしはじめる蒼
一帆と風も固まった状態です
幸い 我が家の中はビデオテープが数本落ちたくらいですみ
食器とかは 落ちそうな手前でとどまってくれてました
少し落ち着くと 子供達にもしもの時の家の避難場所(とりあえず、ここなら安心)とか色々指示を出し
すぐに外に出れるように コートや帽子などの防寒具 貴重品をまとめる準備開始
一帆は私の指示した場所から 離れようとしませんでした
蒼は 私から離れません
風はというと 彼女はたくましく「お母さん 風2階の様子見てくるね・・・」と言ったり
色んな準備におわれていた私の変わりに 家の中の点検をしてくれました
この日 旦那は出張で佐世保にいました
ニュースで速報を見て 慌てて電話をしたらしいけど
もちろんつながりません
この時はまだ 携帯同士の方が繋がりやすく
私の携帯にかけてきて何とか繋がり 我が家の状況説明
旦那は 非常食となりそうな物と水etcを買い込み
一路福岡へ
高速は使えなかった為 下道を使うも
もちろん 大渋滞
それでも 何とか6~7時の間で帰ってきてくれました
その間も 頻繁に余震は続き 恐怖が蘇ります
一番怖かったのが夜寝る時でした
子供達も不安がって中々眠れない様子
枕元に懐中電灯とラジオを用意 もちろん 貴重品等etc・・・も
この夜は 旦那が寝ずの番をしてくれ
寝ている時にも余震があり その度に目が覚めました
学校が始まってからも一帆は不安がってました
「学校にいる時に また地震がきたらどうなるの・・・」と
「その時は、学校の体育館にみんな避難する状態になるだろうから
かえって一帆は安心だから 心配せんでいいよ
風は幼稚園の先生達がついてくれてるから
もしもの時にもみんなの居場所はわかるから」
と伝え 不安な数ヶ月を過ごした日々を今でも覚えています
私は元々北海道生まれで 5歳まで北海道の釧路で育ちました
北海道はみなさんもご存知の通り 地震の多い地で
しょっちゅう 揺れていたような気がします
それが日常茶飯事だった事もあり 怖さなど微塵もありませんでした
私がいた時には 大きな地震の経験もなかったせいもあると思いますが
「あっ また揺れてる・・・」程度で
地震とはあまり縁のない この地で
まさかこんな経験をするとは思いませんでした
でも今朝の新聞に こんな記事が載ってました
『福岡市中心部を通る警固断層が 30年以内にマグニチュード(M)7・2程度の
地震を起こす確立は最大6%で 全国の活断層の中でも高い部類に入ると・・・
05年3月の西方沖地震の影響を考えると この確立はさらに高まりそうだという
見方もあり 注意が必要だ・・・』 と
考えただけでも 怖い話です
でも よくよく考えると 日本列島・地震国ですもんね
この地・福岡は地震がおこりにくい地だと言っても
地震国の中にあるわけだから まったくないわけじゃないんですよね
もしもの時には 2年前の教訓をしっかりいかせたら・・・と思います
でも できることなら もう~あんな経験は2度としたくないです
一番被害が酷かった玄海島も ちゃくちゃくと復興されていってました