私にとって福田氏は週刊SPA!で時事放談している人くらいの認識だったのだが、本当はとんでもない方だったのだと見直してしまった。「奇妙な廃墟」も大学の図書館で借りて読んでいるところ。

 

 第一章小説論のキーワードは「くらさ」「くらし」。

 欧米思想を急激に取り込んだ結果、私たちにとって日本とは何かが行方不明になってしまった。

 日本は詩歌中心だったわけで、大正、昭和ともなると自分たちは小説という形式でいったい何を書いているのか、何を読まされているのか分からなくなっていく。福田氏はそれを<彷徨>と表現する。

 一つの回答かもしれないのが「ミコト」と「鳥居」。

 「ミコト」は御言のミで尊い言(コト)葉。それを伝達するのが鳥だった。その鳥が居留するところが「鳥居」。

 鳥居があって、そこにミコトが伝わり、くらしが始まる。福田氏は「小説を書くことは鳥居を建てるに等しい」という。

 

 第三章は批評論だが第一章と繋がっていると思う。キーワードは「空虚」。

 近代合理主義が行き着くところまで行きつき、あらゆるものが解体してしまった。

 その後に共同体をつくろうとしても人工的なものにしかならない(それがファシズムで、福田氏によればファシズムは愛国的熱狂でなく計算づくで組み立てられたもの)。

 幻のドイツやイタリア、あるいは日本を見つけようとしても、そこには何もない。

 

 第二章の古典論が個人的にはもっとも読み応えを感じた。

 キーワードは「みやび」。「みや」は神霊が宿るところ(み=や)で、「みやこ」は「みや」のある場所の意味だという。

 そして「みやび」と「花・華」と「歌」が結びつけられる。

 「みや」から「はな」れた地域が「ひな」であり、そのような場所を「ひなび」た場所という。

 「みやび」であるとは、ある種の趣向をもつということであり、趣向は道徳性と一致する必要がない。

 だから「みやび」は実は危うさを抱えている(例に出されるのが秀次)。

 ところが「みやび」は後水尾院から変質した。

 さらに宣長は萬葉集というテクストの存在を信じて、人工的な”伝統”の中で自身を囲い込み、生成と逆の方向の国学を生んだ。

 本来、「みやび」は性質を替えないまま、註の積み重ねで新たなものを生成していく運動だった。

 福田氏は「新しい国学を作る」ことを提唱する。それは「みやび」の生成運動を取り戻すことなのだろう。

 

 この批評を30代に書いてしまう知の巨人がかつていたのだ。

 今、お元気だったらどのような評論をなさるのだろうか。

 

 

福田和也:日本の家郷 講談社文芸文庫、2026、東京