頑張って仕事を早く終えて、日仏会館まで。
監督はヨラム・ロンという方でイスラエルの人。
イスラエル、ユダヤ方面からレヴィナスをみた映画でもある。
なので、イスラエルの哲学出身の政治家さん、大学の哲学の先生が出てくるのだが、驚いたのが「イスラエルでレヴィナスが研究されるようになったのは2000年代から」なのだという。
当日、講演くださった渡名喜先生によれば「ユダヤの人々からすると彼の思想はヨーロッパ寄りに見えるのだろう」とのこと。
映画冒頭でJ=L マリオンが、ベルグソンとレヴィナスが問うたことで開かれた問題があるといった主旨の発言をするが、なるほどなあと思う。
それからレヴィナスは若い頃、ドストエフスキーを好み、文学者の集まるカフェなどによく行っていたらしい。
他に印象に残ったのは、誰の発言か忘れたが、レヴィナスがハイデガーに惹かれたのは「哲学用語で身近なものを語れることへの驚き」だったという指摘。
アウシュビッツ後に神の正当性が担保されるのかと議論された中、レヴィナスは聖書の発想でもある「不在の神」、神は隠れていて見ることができないという考えを追求した。
渡名喜先生によればレヴィナスはある論文で、人間の罪は人間しか贖うことができない、神は何もしない、神は<顔>を通じて顕現するだけであると論じているらしい(ここは私の記憶が不正確で渡名喜先生のご発言とずれているかもしれない。それからキルケゴールを比較にに出されて、レヴィナスが罪や神の問題を対面で論じた一方、キルケゴールなら自分の内面にどんどん向かうだろうと指摘なさっていた)。
私たちは自分たちで罪を背負うしかない。神は肩代わりなどしてくれない。
神が<顔>を通じて顕現するというと、各人の顔に神を見るみたいな議論になりそうだが、もちろんそのようなことではない。
レヴィナスの<顔>は物理的なこの顔のことではないから。
だから見ることができない。
<顔>は、誰かに呼びかけられたり触れたりした時、「何?」と振り向いたり反応することそのもの、関係性を意味する。
渡名喜先生によれば、そういう意味でレヴィナスの思想は視覚でなく聴覚優位ともいえるという。
キリスト教もユダヤ教も、神との直接的な関係は神を「見る」のでなく神の声を「聴く」と表現する。
言い換えれば受動性優位。聴くことは受動的でどうしても「聴こえてしまう」側面がある。
一方、見ることは「見ること」も「見ないこと」もできる能動的な性格を持ちコントロール可能。
<顔>が語りかけてくる「汝殺すなかれ」は、他者をカテゴライズしたり、感情移入して分かった気になったりすることで他性を消してしまうのを退けることを意味する。
レヴィナスが中東戦争の際(?1980年代?)に発言した「パレスチナ人は私のいう他者ではない」を文字通りに受け取ると誤解することになると渡名喜先生はおっしゃる。
レヴィナスにとって他者は対面している顔、絶対的な他として現れる。
しかし、”パレスチナ人”は総称あるいはカテゴリーに過ぎず、そう名付けることで「分かった気になる」観念的なものでしかない。レヴィナスはそういう風に他者を定義していない。
なるほど。
映画ではミカエルも登場する。
渡名喜先生によれば現代フランス音楽界隈ではかなり有名らしい(クラシック・ファンは私みたいなオタクしか知らないと思う。多分)。
で、レヴィナスは息子にリズムと造形(映画ではplastiqueと言っていた)に注意しろと言っていたらしい。
ご尊顔を初めて拝見したがお父さんのような丸顔でなくて細面だった。どうでもいいけど。
あと、シュシャーニの本が出ていた(Facinant Chouchani. Sandrine Szwarc著 自宅で検索したらYoutubeで講演が!)ことに驚いた。
レヴィナスの語り口で印象に残ったのが、やたらとn'est ce pas?と語尾につけること。
相手に理解してもらったかを確認せずにはいられない人だったのかもしれない。
日仏会館 ドキュメンタリー映画と講演 エマニュエル・レヴィナス──不在の神:他者のヒューマニズム 2026年3月18日
映画:Absent God Yoram Ron監督 2014年 ちなみにこれもYoutubeで視聴できる!