大変、参考になった。
痛みの評価は、一番痛いのを10にしたら、今いくつですか?と尋ねるのが通例。NRSとかカルテに書かれている。
いつも疑問だったのが、同じ質問をされても私は答えられないんだけど、他の方はどう思うのか?、これでいいとお考えか?だった。
で、当事者の頭木さんは、やはり「戸惑う」とお書きになっている(p23、79)。
ですよねー。
といっても代替案はないけど。
本書は代替案として文学が使えないかと提案なさっていて(p107、308-310、第5章、第11章など)、子規やジッドなどが挙げられる。
なるほど。
オノマトペや比喩などを検討し、結果として頭木さんは言語化はやはり無理ではないか・・・とおっしゃっている。
この件で面白かったのが安部公房のエッセイ(「都市への回路」)。
「言語による概念は多様で精密」だが「五官」は「単純」としているらしい(p125)。
言葉や概念への信頼、なんだか安部公房っぽい。
五官に比べると言葉は粗雑すぎると私は思うけど・・・・
以下、痛みについて頭木さんがお書きになったことで面白かったことをランダムに。
痛みは我慢すると褒められる、なぜか?(p25、第7章)
頭木さんはマッチョイムズと結び付けていらっしゃる。
そうかもしれない。
私の個人的な意見は、痛みを訴えられても聞いている側は無力感で居心地が悪くなり、それに耐えられず、「痛いというな」=「痛いと言わないのはエライ」になるのだと思う。
共感を考えるうえで興味深いのが、「あの痛みをわかってもらえた」というだけで全く見知らぬ人と一緒に号泣したという逸話(p63)。
痛みで時に人はつながる、共鳴する(p65)。
しかし、逆に痛みを乗り越えたと考えている人は、逆に「それくらい我慢しろ」になることもある(p73)。
同じ体験をしていることが必ずしも共感的態度と結びつかない。
関連して、痛みがありきたりな型にはめられて理解されることがあり、それは余計に苦痛(ウルフ、カミュの著作が引用される)。
とはいえ、当事者が型にはまろうとしてしまうこともある(p91)。
どのように応じるかも難しい。
「色々大変でしたね」と福祉関係者から応じられた方の想いが記されている。
「そんな程度の苦しみと思われているのか」と傷ついたという(p89)。
面接者側が「いろいろ」という言葉にどれだけ万感の思いを込めることができたかという要素もあるかもしれない。
さらっと言われると、そんなに雑にまとめるなと確かに感じるだろうなと思う。
痛みの性質。
後になると思い出せなくなることがある(うちの家内。よく3人の子供を生んでくれたと思う。感謝。 第6章)。
痛みの苦しみには、持続性かどうかという要素も大きい(p145)。なるほど出口なしの苦痛は地獄だ。
痛みは人に「目を開かせる」こともある(シオラン p197)。
苦しみの一つには感覚自体だけでなく、そこに理由がないことの恐怖が重なることもある(p299 ヨブ記のテーマ)。
人はどうしても理由を求めたくなる。そして納得したい。
驚いたのがかつて「リウマチ気質」という概念があったらしい(p291)。
かつて「てんかん気質」というものがあったが同じ匂いがする(どちらが原因で結果なのかわからないこと)。
なるほどと思ったのが「かゆみの哲学」がないこと(p304-306)。
ただし、藤田尚志先生という方が「現代の皮膚感覚をさぐる」で論じているらしい。フローべールや百閒は痒みに苦しんでいたという。
勉強になったのが腸閉塞時に当事者さんがどうしていたか(p37)。
ある方との話し合いで、昨日、さっそく参考になった。
それからチェーホフの「せつない」は読んでみたい。
さすが医師のチェーホフ!
頭木弘樹:痛いところから見えるもの 文藝春秋、東京、2025