ジュネを読んだので再読。
昔、読んだときはピンとこなかったのだが、ジュネを読んで改めてなるほどと思った。
というか、読み方がいい加減だったのだろうと思う。
なにしろ、祖母や実母のことをアルトーがなぜしつこく書くのかもよく理解できなかったのだから。
ヘリオガバルスの母方は、今のシリア地方にあたる地域で信仰されていた異教(p36)の大司祭の娘だった。
太陽神を崇拝し、アルトーの描きっぷりだと女性性が前面にでている(p41)。
アルトーが第一章で描くシリアは、へリオガバルスその人を予見するように、聖と汚辱がまじりあった地として描写される。
当然、祖母も実母も叔母もそのような人物として。
第二章では、彼女たちの宗教が一つの原理によってまとまっているものではなく、様々な原理--男性原理や女性原理、精神と物質など―-が乖離したままと説明される。
こうしてへリオガルバスは、太陽神の化身(祭司)にしてローマ皇帝(p126、137-142)、男にして女(p152)、一者であり二者、人間にして神(p153)とイメージされ、自らもそのようなものとして形作ることになる。
アルトーがいう「アナーキー」である(p154)。
それはローマの多神教的無政府状態への反逆であり、ローマ君主制への反逆でもあった(p187)。
アルトーがいうアナーキーは逆説的に統一をも意味する(p159 一つの秩序への忠誠p175)。
様々な原理が排除されることなく並存する。
男性性、女性性。聖、汚濁。精神、肉体。
へリオガバルスは、宗教性一つとっても異質なものを混交した。
ローマ=ギリシャが本来信仰していた多神教に対して、彼は太陽神エル=ガバル崇拝という一神教を持ち込んだ。
また石への崇拝という偶像崇拝的な要素も入り込んだ。
それまでローマ、ギリシャでは神話という言説、つまり非身体性で支えられていた。
ところが、ヘリオガバルスは女性性/身体性、物質性をも取り込む。
混乱した秩序。
秩序という名の無構造。
なるほど「統一」はある原理以外の、オルタナティブな諸原理を排除することを意味する。
それも暴力ではないか。
ヘリオガバルスの治世も暴力的だった。
しかし、様々な原理のうちの「一つ以外」を排除することなく、裂開があるままにした。
そのような「別の統一」の在り方もまたありえるのだとアルトーは主張したいのだろう。
Artaud, A: Héliogabale ou l'anarchiste couronné. Denoël , Paris, 1934
鈴木創士:ヘリオガバルス あるいは載冠せるアナーキスト 河出文庫、東京、2016