最後がロラン・バルト。

 面白いキーワードがidiorrythmie。個別のidiosとリズムrhuthmosの造語。

 各自固有のリズム(p185-186)。独居と共住の中間の共同体について生まれた(フーリエに呼応している p186)

 

 バルトは、人が共に生きる際、絶対的孤独を前提にしなければ(そのような共生がidiorrythmie)、言説の内なる権力の発生を抑制できないと考えた。バルトにとって共生に必要なのは、よく言われる相互理解や共感ではない(p191)

 

 またバルトは、あらゆる体系化はイデオロギー性(支配性)を帯びると考え、それを避けた(p187)

 そしてバルトは方法という形で学問を考えない。

 (ドゥルーズの「ニーチェと哲学」にある方法と教養の対比を、バルトは参照している)。

 方法と教養についてのバルトの文章は難解。石井先生のまとめは以下。

 方法は、結果を目指す合理的過程で、目的を特権化し、様々な可能性を排除する求心的意志。

 教養(paideiaに対応)は、如何なる目的にも収れんせず、様々な可能性の合間を不安定に揺れ動き彷徨する遠心的運動(p189)

 つまり、バルトは、方法ではなく教養で、なにがしかの権力の側に立たないことを目指した(p190)

 

 言語学には単語の交換性=範列(paradigme)と、単語の統合関係=連辞または統辞(syntagme)がある。

 「私」は「明日」「学校」に「行く」なら、「私」でも「おれ」でも「あっし」でも交換可能。これが範列。

 「私」の次に「明日」「学校」がつながること、これが統辞になる。

 この範列を、失敗させる、逃れる、裏をかくdéjouerものを、中性le neutreとバルトは呼ぶ(p192-194)

 さらにバルトは範列を「二項対立」とも言い換えている(p194)

 つまり、二者択一で選択が避けられない状況で、どちらかを選ぶことで発話主体の社会的感情的立場があらわになることを強いられること、これがバルトにとっての範列で、権力と言い換えてもよい(p196)

 したがって、その逆、両立不可能なものを並存する、決定そのものを無効にすることが、中性である(p196)

 初期の「白いエクリチュール」「零度のエクリチュール」はほぼ似た発想(p197)。作者の価値観、意図、選択から自由で、立場を全く反映しない言語。特定の意味に回収されない曖昧で、対立する二項が同時に生起する文章。これは晩年は「意味の震え」と表現される(p198-199)。

 

 

 バルトの最終的な目標は、小説の執筆だった。

 しかし、何の権力も持たず、何かを押し付けることを意図しないことを目指していた彼は、当然のように執筆することなく生を終えることになる。

 

  

 自然か理性か、私は「この私」として成立するか、個と他はどのように関係するか。

 徹底的に思考した人たちへの共感に満ちた著作。