第四章はブルトン。
ブルトンが目指したのはトマス・アクィナスから始まる実証主義からの脱出。
そして、現にあることから、ありあえること(=超現実)への移行(p130)。
しかし、非合理性への盲従ではなく、必要があれば理性に従い、適切にコントロールして想像力を最大化することを目指した(p132-133)。
ロマン主義が個人の情念や感性に駆動されるのと違い、個人を消失させようとした(p134 「思考のありのままの機能を表現する」)。
他方で個人を単純に消失すればいいのなら、乱数表で適当に言葉を組み合わせればいい。
しかし、それでは人の心に刺さるものにならない。どこかに個人の経験が入り込まなければ作品にならない(p141 最近のAI、ChatGPTの作り出す文章について、シュルレアリストたちはどう考えただろう?)。
またブルトンの文章に文法の破綻はなかった(不自由さの中で自由さを求めた。p145-146)。
単語の関係性が曖昧なマラルメ、統辞法が破綻するツァラ、言葉が断片化するアルトーの方が難解(p146)。
ブルトンは垂直に動こうとした。
水平運動では、世界の分節のありようが多少変化するが、基本的には自我同一性、世界そのものは保たれる。
しかし、垂直移動だと、浮遊した中で世界を俯瞰して見下ろすことになる。
そうすると、世界の分節構造は曖昧になり相互に陥入したものにみえるだろう。
たとえば、生と死が溶け合っているかのように(p149 これが彼のいう「至高点」)。
第五章がバタイユ。
知らなかったのだが「眼球譚」は治療のために書かれたという(p157)。
彼の思想はエロティズムにおける「死におけるまでjusque dans la mort、生をたたえること」(原文ママ)。
もし時間的意味なら、à la mortになるはずだという。
dansなので空間的で、「中」「深度」ではないかと石井先生はおっしゃる。
言い換えれば、生の称揚を推し進めれば死に行き着いてしまう、ということ(p161)。
エロティズムは、本質的に侵犯的、暴力的であるともいえ、不連続(生)から連続(生以前のことp167 しかし死もまた不連続性の否定)への移行である(p168)。
バタイユがエロティズムで考えていたのは、不連続から連続への移行、そして自他(個)の融解だった(p168、173-174)。
もう一つ、欲望を再定義した。
本来は所有・獲得と欲望は関係する。しかし、人はなぜか無駄なことを好んでしたり、消尽したり、時に制裁を受けることをすすんで行ってしまう。それは所有・獲得とは異なる、喪失・放棄の欲望といえる。
だから、欲望とは、欲望する主体の喪失をその対象にする(ことがある)といえることになる(p177-179)。
つづく