次はランボー。
有名な「人が私において考える」
原文は、on me panse(p103-104)。
言語は他者でかつ外部にある。だからそれを通して思考されたことは、この「私」のものではありえないことになる(p105)。
ところでこの文は破格だそうで、meを目的語にするなら、普通はon panse à moi「私について考える」になるという(p105)。
石井先生はやはり目的語ではないのだろうと指摘なさる。
私が考えるとき、私という場から離れられない。だからこのmeは「私において」という意味という(p107)。
ちなみにHomme panseと掛けているのではという面白いご指摘をなさっている(p106)。
もう一つ、有名な「私は一つの他者である」JE est un autre。
この後、「木材がヴァイオリンになっても仕方ない」と続けていることから、自分はこれまでの自分ではない、自分は別人として生まれ変わったという意味にもとらえられる(p108)。
しかし、石井先生はêtreが、suisでなくestになっていることに注意を促す。
そして、多くのégoistesが自分を作者だと表明していると、別の手紙で述べていることに触れる。
ここでのエゴイズムは単なる利己主義ではなく、「この私」の完全性・自己充足性を疑わないという意味である(p111)。
ランボーは「この私」を対象化し(p108)、デカルト的な均一で自己同一性に安住する私でなく、怪物的奇形性を引き受け、自らに他者性を植え付け培養する複合的な私、もはや私とはいえないような私を目指したのだろうと述べていらっしゃる(p111-112)。
ランボーにとって詩を書くことは生きることだった(p115)。
「詩人とは火を盗むものです」
つまり、プロメテウスのように彼方から火を――言葉を――持ち帰り、言葉に形を、あるいは無定形を与え、五官に感受できるようにすることが、ランボーの理想の詩人のありようだった(p116)。
ところで、自我の中の他者性は、同時代人も共有する問題意識だった。たとえば、マラルメ、ロートレアモン(p120)
つづく