今回も学びの多い著書。
ただし、雑誌連載をまとめたものらしく、内容のばらつきが大きい。
断絶によって自己が開示されるという実存的な発想を超えて、
私は断絶ruptureそのものである。
断絶の総和が私である(p11 なおrupture aで に慣れた、熟達した、という意味になるという)。
私たちは小さな断絶の連続である。
同一性とは存在の断片の配置に過ぎない(p108)。
断絶は別の箇所で、裂け目、破綻とも表現されている(p17 他著書の引用)。
したがって、同一性は「不連続」なものになり(p16)、「私たちは常に散逸」する(p110)。
固定的同一性でなく私は生成変化するという発想は、J=L.Nancyも語っているし、Jaspersの考えの基底にあるように思う。
マラン先生は「自分の中に複数の異なる人間がいることが必要」(p111)とまでおっしゃる。
単に多面的なのではなく、多面的であることが「必要」だと。
なぜなら、人生の面白さと同時に苦しみを与えるのは「同一性の多面性」「可変性」だからだ(p117)。
むしろ「ひとりの人であることは疲れること」(p119)と、ベルグソンの議論を引いて論じている。
初期のレヴィナスの「疲労」を考える際のヒントにならないか。
だからマラン先生は<私>は、
不意に、偶然によって「自分自身」になる。(略)私は即興的に現れ、予見される(p120)。(略)未知の自己がある(同頁)。
<私>が可変的で、同一性という固定的なものではないという考えは、マラン先生が病を抱えていることが大きいと思う。
本書から外れることで備忘録
キルケゴールの想起は<かつてあったものをそれとして時間内で表象すること>、反復は<現にあったものがそれとして生成されること>=時間的連続にある現実の秩序の切断(p22)。
サルトルの「自己欺瞞」は社会的役割に埋没すること(p34)。
カンギレウムにとって、病後は現状回復ではない(p196)。
Marin, C: RUPTURE(S). L'Observatoire, Paris, 2019 鈴木智之訳:断絶 法政大学出版局、東京、2023