薄いのだが大変に重要な本。
まず驚いたのが安楽死・尊厳死について「共通理解がない」こと(p12)。
なるほどと同時にそうだなと思ったのが、安楽死は、普通考えられているだろう「安らかに死をもたらす行為」だけではないという指摘。
正確には、「安らかに/尊厳を保っては死ねない状況のもとで、安らかな/尊厳ある死をもたらす」行為を含む(p32)。
さらに、私たちは、尊厳の無い死=「悪い死」、尊厳のある死=「良い死」という前提で、この問題を考えていないだろうか(p38)。
安藤先生は、尊厳死とは「尊厳のない死=悪い死」の代わりに「尊厳のある死=良い死」を求めることではなく、「尊厳のない生」の代わりに「尊厳のある死」を求めることだと表現し直されたうえで(p38)、本来、「尊厳のない生」の代わりは「尊厳のある生」だと主張なさる(p42)。
全くその通りだと思う。
安楽死や尊厳死の話を持ち出す「前」に問われるべきことがある。
もし安らかでいられない、尊厳を保てない状況ならば、その状況を改善するケア・努力をしているか(p34)。
本書を貫いているのは、徹底的に生の側からみている点で、真っ当な考え方だと思う。
また、医師は、治療可能性のある患者のもとに頻繁に回診しても、そうではなくなると、主観として「見捨てている」つもりは毛頭なくとも、回診頻度が低くなることは、確かに見かけることである(p41)。
どうしてそうなるかといえば、治療可能性から逸れると、「(現在の日本では<ブログ主補足>)医療の枠組みだけでは判断できない」状態になるから(同頁)。
ある処置が「ただ生を引き延ばしているだけ」なのか「その人が尊厳をもって生きるための支え」かは、個別具体的に考えなくてはならない。
そのために必要なのは、当事者のニーズに沿ったケア(たいていメンタルヘルス系が対応)と十分な情報提供(社会福祉士や行政担当)だが、少なくとも現在の日本でこれらは、”医療と別枠”扱いになってしまう。
それから、自己決定権が錦の御旗にされることが多いが、どこまできちんと決定する際に必要な情報が伝わっているのか、オルタナティブな方法があることを十分に知った上なのか(p53-55)、さらには状況によって病状が変わり、自己決定した内容が変わることがありえる(というか、それが普通 p57)。
極めて厳しい状態になれば「死を望むのが自然だろう」と安易に思い込みがちだが、当然ながら、そのようなことは当事者にしかわからない。
たとえば、ロックドイン・シンドロームになった方で回答を得られた約90名のうち、安楽死を望んだのはわずか9名だったという(p58)。
死について考えたキューブラー=ロスの晩年の言葉。
「死にゆく人々の権利」で重要なのは「生きている人間として扱われる権利」だと彼女は言ったという(p43)。
大変に重い言葉だと思う。
安藤奏至:安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと 岩波ブックレット、東京、2019