京都に出張だったので、積読だった仏教関連本を。

 

 キリスト教の簡単なまとめが面白かった(p68-101)

 

ユダヤ教=神の掟に従ったかが審判される。

キリスト教=人間は所詮掟に従えない。だからイエスが身代わりになった。そのイエスを信じたかが審判される。

 

カトリック=煉獄がある(信仰心はあるが悪行をなしてしまった場合の一時的罰の場)。 

プロテスタント=煉獄はない(聖書に書いてないから)

 

死の直前

カトリック=神父に告解する。

プロテスタント=心の中で懺悔すればよい。

 

旧約=最後の審判で裁かれる。 

新約=死ぬとすぐに天国に行く(とイエスが言ってしまっている)。  

 矛盾の解決のため、死後は魂のみの私審判、最後の日に公審判となる。それまで身体は「眠っている」ことになっている。

 ただし、最近は火葬もOKになっているという(この辺はデカルト的心身二元論の影響だと思う)

 ところで、キリスト教では自殺は禁じられている。

 神から与えられた体を人間の意志で傷つけてはならないから。

 イスラム教も同じだという(「聖なる戦い」では例外。ただしコーランでは「聖なる戦い」は異教徒を”迎え撃つ”ことを意味しているらしい p116-117)

 

 

 

 仏教(日本)の話。

 仏教では神の概念がないが、死後についても定説がない(p31、172 宗派によって違う)

 そもそも釈尊は死後はわからないとおっしゃっていた(p167)

 

 仏教で重要なのは、私の言葉なら”意図しない”こと。

「いま、ここで」自由を実践すること(p60)が重要で、解脱(涅槃に至ること)も「いま、ここで」できる(p62)
死後得られる、現世の”ご褒美”ではない。
言い方を変えれば、生きるときはただ生き、死ぬときはただ死ぬ(p126)。 
さらに言い方を変えると、「死にたい」も実は欲望の一つである(p146)

 仏教的には、自殺は「生」(=欲望)のヴァリエーションといえなくもない。

 思いつきになるが<生きたい>の逆は<死にたい>でなく<苦しみたくない>で、<死にたい>の逆はただの<生きたい>ではなく<充実した生を生きたい>なのではないか。

 

 ところでかつて仏教徒の抗議の焼身があったが、そのことをダライ・ラマは「悲しい」と仰った(「良くない」ではない)。

 つまり、仏教的には生死は良くも悪くもない。ただし<怒り>という動機、意図をもって死へと行動したのなら、それは仏教的ではない(p152)。

 (カントの定言命法に近いような気もする)

 

 子規は「悟りは(略)平気で死ぬることかと思ってゐたのは間違えで(略)平気で生きてゐること」と述べたらしい(p147)

 

 私たちは何かしら意図しなければ、苦しかろうが辛かろうが生き続ける。

 そして、ある日、死ぬ時がくる。

 それを何も意図せず(嫌がってもよい。”安らかに受け入れよう”とするのもまた意図しているから)引き受ける。

 

 

 そのほか

 菩薩:仏になる前の利他の修行者のこと(! 知らなかった。p207)

 

 初七日に三途の川を渡る。その後、七日ごとに七回、閻魔大王などに裁きをうける(=四十九日)。

 この期間、亡くなった方はあの世とこの世の中間にいらっしゃる(p31 だから弔い続ける)

 

 お経は生きることの教え(p159)で、成仏を願うのはお経でなく回向(p165)

 仏教の死は、キリスト教と逆で「眠る」のでなく、覚醒(=仏になる)すること(p166 なるほど!)

 

 穢れの語源は「気が枯れる」らしい(p25)

 

 「喪に服す」のはご遺族を休ませている意味があるのかもしれない(p30)

 

 

 

 仏教は優れた道徳にして心理学だと思う。

 

 

 

ネルケ無方:なぜ日本人はご先祖様に祈るのか 幻冬舎新書、東京、2015